ブログ - 20160205のエントリ
ある飲み会の席で,隣り合った青年と話しこんでしまった。(レア仲間)をスマホで開いて見せ、物理学的に人間、社会、世界の動きを捉えるといういつもの考え方を話したのであったが、中村さんは一人の人とばかり話し込んでいる、と言われ、一つ隣の女から、この男性は、何でも人の言うことを聞く人だから、(洗脳)しないで下さい!と言われた。わたしは驚いた。怒ったのではない。(レア仲間)が(当然、わたしも含めて)宗教、あるいは危険思想としてとらえられていることに驚いたのだ。ここに書いてるブログにはばらつきがあるが、閲覧者数を見ると、日に二百人(68歳の大学新入生)、百人、というのが何件かあり、こんな内容がそんなに読まれるのか?と不思議に思っていた。(幻冬舎)に手紙を出し、レア文庫、というシリーズで取り上げたらどうかと伝えたが、当社では原稿の持ち込みはしておりません、と丁寧な返事が返ってきた。真意はわからないがあまりたいしたことを書いてはいない、と考えた。それで良い。評判になって多数派の側に組み込まれることは歓迎しない。あくまで少数派に位置することがわたしの姿勢である。
ある男はこう言った。日本は言論が自由な国だから、あんなことを書けるが、中国ならあんたは銃殺されてるよ、と。余命を考えてる身であるから、(見事な死に様)は望むところである。
先月の1月31日は記念すべき日になった。岡垣町のサンリーアイのステージで(お岩木山)を歌ったにすぎないのだが、わたしは自分の心を歌ったと思った。カラオケ教室の発表会であり、他のカラオケ会も参加して総勢130人が歌った。
その日が来るまでいろいろ考えた。どんな姿勢で臨み、どんな歌い方をすべきか?観客席に座ったわたしは他人の歌を聴きながら、表情、手の動きなどを観察した。結論がでた。
楽屋裏では音響係や案内者、出場者などがごったがえしていた。わたしは舞台に立った。散歩や百姓仕事で腰を痛めていたので歩き方に不安定さを覚えた。きちんと歌おうと言うことに気を囚われてはいけない。声を張り上げてはいけない、などを思い返した。マイクを左手に握ると、右手を軽く持ち上げ曲に合わせて体を軽く揺すった。頭上を見上げ、遠くを見た。観客席はライトが消され、暗闇になっていてまったく見えない。
山よ、山よ、お岩木やまよ、
優しく声を出し、笑顔を出した。山と観客席に話しかけるようにゆっくり歌い、その調子に乗り、良い気分で歌った。後で誉められた。
声を踊らせる、と言う言葉がある。
歌手は(声で踊る役者である)、引いたり押したり回したり震えさせたり裏声を出したりコブシをきかせサビをだしたり、自由自在に振舞って(心)を歌うのである。
篠田正浩監督が(無頼漢)の中で吐かせた言葉である。仲代達也さんはこの映画の中では打って変わって、江戸時代の遊び人を飄々とした演技で演じている。彼は演技の幅が広く82歳の今でも映画や舞台に立ち、(無名塾)を開いて後身を育てている。見上げた方である。映画も時代考証が素晴らしく、当時の芝居の世界を丁寧に描き、ボロ長屋の部屋にも浮世絵を大きく描き出し、それだけでも酔わされ、素晴らしい。
主人公は花魁に惚れ、いっしょに生活するが、大塩平八郎を中心とする反乱に加担する。水野忠邦の粛清政治で庶民の生活が苦しくなり、花火の打ち上げも禁止になる。川原乞食(芸人)や非人達が騒ぎ出し、大塩平八郎の乱を起こすが、あっというまに潰され、主人公は花魁との生活の邪魔になる母親を何度も殺そうとする。主人公に背負われて川に投げ捨てられようとする母は、言う。
(何度でも殺してごらん、何度でも生き返ってやるから)
この台詞と(権力者はなくならない、交代するだけだ)と言う台詞で篠田監督は自分の言葉を吐いた。構造主義における(構造そのものが権力である)と言う真理に通じている。
昨日は小倉の昭和館で(無頼漢)(大菩薩峠)を観た。どちらとも仲代達也さんの選んだ主演の映画である。(大菩薩峠)はわたしが東京で遊学中に観た映画の中でもっとも衝撃を与えたものであった。中里介山が日本が太平洋戦争に突入する時代に書いたものであり、戦争の動乱、惨劇を如実に現した傑作である。原作者、岡本喜八監督、仲代達也という個性があのような映画を仕上げたことにすごく興味を抱いていた。あのような傑作が賞をとらなかったことが不思議でならない。大菩薩峠で老いた巡礼者が祠の仏を拝んでいる、その背後から理由も無く、机竜之介は切り殺す。そこから因果関係が絡み合った修羅場が延々と繰り広げられ、殺戮が終りなく続けられる。わたしは実父の従軍体験、酒と女に狂った一生と重ね合わせてしまい、涙した。
竜之介は妻のお浜を切り殺す。
その時、お浜は両手を合わせて竜之介に言う。
(どうぞ、切り殺してください、あなたが望むなら。あなたに殺されても悔いはありません、愛していますから)
日本文化、日本美と言うべきか、この台詞を書いた橋本忍さんに脱帽するだけである。
死ぬも生きるの勝手にせい!と竜之介は妻に向かって言うが、それは勤務していた高校で一億円もの金を酒と女に使い込んだ実父の人生と重なる。虚無的な顔をしていたのをわたしは憶えている。
竜之介は武家屋敷の中で会った女が切り殺した巡礼の娘だとわかる。巡礼者の鈴の音が聞こえ、すだれや襖に映ったその影が現れる。それに怯え、刀で狂ったように切り回す、その顔の大写しで映画は終る。因果の連鎖である。
わたしは東京でのあの青春時代、学生運動が暴れまわったあの時代、空手同好会で殺されそうになったあの時の自分の姿を机竜之介のニヒリズムで書いてみたい。