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光は無色透明であり、物の色や形を現してくれる。?神は「光あれ」と言われた。すると光があった。?と聖書の書き出しにも書いてあるように光は至高の価値を持っている。日本には春夏秋冬があり、曇り、雨、晴れ、嵐、雷と色合いがあるように人間の感情と同じ移り変わりがある。わたしは自分も含めて感情というものその移り変わりを不思議なものだと思う。喜んだり悲しんだりソウになったりウツになったり感情の変わらない時はなく、変わらなくなるのは死んだ時くらいであろう。
集金の仕事である家を訪れ、定年退職をして庭の選定をしていた主人にうらやましさを覚え,俺もあんな身分になりたいと考えていた。彼はわたしに向かって、あなたがうらやましいと言った。自分はゲートボールなどして一日をつぶすのが大変だ言い、わたしはおどろかされたことがある。
主人もわたしもその務めをしていただけでそれは光と同じで思考、感情とはちがう世界に属していたのである。それを(心)という摩訶不思議なものを生まれて与えられていて、それを通したために色が発されてしまった。心はプリズムなのである。本来は無償透明な光にすぎないものを分析し七色の色をつけてしまう。赤、青、緑、ピンク、黒、紫などと色彩をつけて、人間はそれによって笑ったり泣いたり喜んだり怒ったりしながら生き、一生を終える。これが人の(生)というものであろう。
昼は涼しくなりましたが、夜は寒いくらいです。毛布に掛け布団がいるようになりました。コオロギの鳴き音も減り、庭も静かになりました。春野菜の種をまく時期です。大根、ニンジン、ホウレンソウ、ネギ、ニラ、タカナ、チンゲンサイ、野沢菜、小松菜などたくさんありますが、ゴボウだけは11月まで待とうと思います。非常に芽が出にくいし、虫に食われやすいからです。
畑全体に石灰、鶏糞をまき、ミツグワで浅く耕し、先ほどの肥料を土に混ぜます。次にクワで土に筋をつけていきます。野菜の種をまき、土を被せます。水をかけます。芽が出て3センチくらいになったら間引きをします。雑草は抜き取らず、根から上の部分だけをクワで刈り取り、そのままにしておくと肥料になり水分の保持もしてくれます。雑草の種は土の中に無限に入っているので絶やそうとは考えないことです。生えてくればクワで刈り取り、根を残しておけば水分を保持し土を耕してくれます。
本題に戻ろう。歌舞伎の女形の存在をなぜ武家が赦し、自らも歌舞伎を観劇したかということである。かれらが認めたから文化として繁栄し、現代では日本の伝統文化に位置し、さらに世界的にも高い評価を受けている。欧米では(騎士道精神)が強く、男は強い者で女を助けるという頑固な伝統があった。女歌を歌うことあるいは女の仕草を男がまねることさえ蔑視され、タブー視される。近頃まで政府高官(男)が同性愛者だったいう理由で失脚し、自殺したこともある。日本でそんなことはありえないし、話題にもならない。それは武士の時代に稚児愛(幼児愛)の世界が存在し、武士達の生活の一部にまでなっていたからである。男は性徴が出る高校時代まで両性にちかい時代がある。女のような青少年を武士達は愛し、現実の女とはちがうウブな世界を経験した。通説では殿様の背後の太刀持ちが対象にされ、信長の太刀持ちであったモリランマルなどは良い例である。武士達は歌舞伎の女形に稚児愛の世界を連想し楽しんだのである。男の中の女を愛したのである。それは自分の中に住む女であり、古里の山に声を投げて返ってくる木霊である。異性愛においても男は相手の女の中に住んでいる(自己女)を求め、女は相手の男の中に自分の中に住んでいる(自己男)を求め愛するのであり、限りなく自慰に近づくことになる。
日本語の世界になるとさらに多様性に富んでいる。外国語で自己を指す場合は一つの単語しかないのに日本語では、わたし、ぼく、おれ、自分、小生、などたくさんあり、主語のレベルで男言葉、女言葉があり、敬語も混じってにぎやかである。食文化においては欧米の料理の品数が三品四品しかないのに比べて、ご飯、焼き魚、漬物、味噌汁、酢の物、野菜など多種類・多様性に富み、宗教においては多神教であり新興宗教もふくめると数限りなく宗教もある。欧米と交際を絶った鎖国制度が多様性に輪をかけた。
時代は変わりつつある。異端者、障害者、変わり者など言葉の上で異端視されていた人人や思想、文化、宗教などが多様性の中の一つとして位置づけられ、呼称を変えられ、評価を受けるのにちがいない。それはグローバリニズムという大量生産・大量消費・人間・社会の均質化と対抗する流れになっていくのである。
人間は両性具有であったし、またその余韻と名残、記憶が残っているからオナニーをし、異性どうし以上の快感を得るのである。これは前回のブログー(オナニーは最高のセックスである)で詳しく書いている。
性同一障害、という言葉が考え出され(現代は言葉の後にー障害やー依存をつける傾向がある)、心と肉体(性構造)が一致しない人をさしているがこれも両性具有だった頃の男女の分離がうまくいかなかったあるいは混交した状態だと考えられる。(バイセクシャル)というのは男とでも女とでも性交する女あるいは男である。男も女も社会の期待する像によって作られるわけだから簡単には決定づけられない。社会の期待する像あるいは社会環境(封建時代や戦争中は逞しい者が勇者ー男になる)によってどのようにでも変わっていくのである。草食系などという言葉が生まれ、美容整形をし、家や学校でエアコン生活を送っている青年を一時代前の人間が(男)と認めるであろうか?
ここで言いたいのは(性の多様性)なのである。民族、宗教、言語、文化などすべての分野において民主主義は多様性を認める傾向にあるのに性や婚姻(前回のブログー一夫一婦制で書いている)の分野においては旧態依然というのはおかしいし、やがて見直しが行われるであろう。
いきなり下半身の話になりますが、(蟻の門渡り)という言葉をご存知でしょうか?男性であれば肛門と睾丸の間に伸びている筋状のものです。手術後の縫合跡のようにも見えるし、蟻が行列をつくって這っているようにも見えます。手を伸ばして触ってみれば感触で形と長さがわかります。女性の場合は肛門と膣の間隔がないので無いようです。(上付き)と呼ばれてその間隔の長い場合、その一帯は平坦で普通の皮膚だとおもいますが、そのあたりは確認していません。
話は飛びますが、男は授乳もしないのに乳首があるというのは何故でしょうか?ネットで調べると女性が授乳出来なくなった場合の代替用と書いてありますが、お乳がそれで出るのであればともかく出なければ代替にもなりません。
(蟻の門渡り)の話に戻りますが、はっきりしたことは公開されていません。これからはわたしの推理と想像です。いつごろかわかりませんが、それは生物の系統発生の系譜で蟻の門渡りがどの動物の段階で発生したかを調べればわかります。それまでは両性具有の体であり、オスとメスの区別はなく、オスもメスも盛り上がった乳房と団性器・女性器の両方を持っていたということです。現在でも(ふたなり)といってその肉体を持った人がいますし、性転換で男にも女のもあるていど肉体は変えられますよね。これは両性具有であった証拠です。その肉体であればすべての両性者と交われるわけで性交の確率・可能性は現代の2対1から1対1です。やや無理な体勢ですが、両者が相手の凹に入れ、相手の凸を受け入れることも可能です。これで両者が妊娠した場合、どんな子供ができるか興味がありますが、これは専門家に尋ねてみたいことです。
ある時代から開いていた蟻の門渡りは閉鎖され、ペニスはクリトリスに変わり、精嚢、子宮、睾丸、卵巣など、男にするか女にするかでそれぞれ削除・消失していったのです。盛り上がった乳房も男に成る場合は縮小していき乳腺も消えました。その理由は何なのか?目的は何なのか?興味があることです。性交の対象が男も女も半分に減ったわけですから競争率は2倍になったのです。異性をめぐっての争いが増え、種族同志の戦争も増えました。自然の摂理は競争原理を強めてますます強くなるようにしたと同時に抑制原理も加えて犠牲者も増えるようにしたのです。
フランスの哲学者であるボーボワールが書いた言葉があります。(女は社会によって女につくられる)。これは(男は社会によって男に作り上げられる)ことでもあります。そうなのです。もともと両性具有であり、女性ホルモン、男性ホルモンが両者の体に存在してるわけですから、男女は基本的には両性具有なのです。
処女、童貞、貞操などという観念はキリスト教に基づいています。中でもカトリック教はその戒律が非常に厳しく、妻が不倫をすれば殺される場合もあり、合鍵がなければ開けられない貞操帯というものさえあったのです。それにイエス・キリストの出生原因に処女懐胎を信じているようにまたほとんどの欧米人が生まれるとすぐにキリストの洗礼を受けるように、一神教世界の信仰は多神教の日本人が想像も出来ないほど強く体に染み付いているものなのです。戦前、和服姿の日本女はパンツをはいていませんでした。銀座の白木屋デパートで火事が起こり、建物の二階から飛び降りた女の股の間が見えて以来パンツをはくようになったというのは有名な話です。女性にとってノーパンで外を出歩くということは今でもかなり危険なことですが、そんな時代が長く続いたということはどういうことでしょうか?性に対して大らかだったのか、男に自制心が強かったのか?どちらにしろ、レイプされる危険が少なかったとしか考えられません。
だが、武士社会においても妻が不倫をはたらけば打ち首だったのですから、近代以前、貞操観念が薄かったとは言えません。このブログの主題は(女形における日本文化)ですから、性の分野においては両性具有の方向に進めます。
近頃わたしが経験した事実がこのテーマのヒントになるので書きます。
一ヶ月ほど前からカラオケ教室に入会し、通うようになりました。この歳になって歌う楽しさがわかり、70、80才の女性に混じって先生が出してくれる新曲を歌っています。男はわたしと先生だけですが他は高齢者の女なので性差なんて考えていませんでした。ところがこんなことが起こったのです。わたしが入会する前は会員は女ばかりですから、先生は女歌を出し、一人に二回歌わせて指導していました。わたしが入ったばかりに先生はわたしのために男歌を出し、女達もそれを皆で歌うので時間が減り、一回しか歌えず、わたしは男歌、女歌の二つを指示されて歌ったのです。彼女らに不満が起こり、わたしを紹介したOさんが電話をかけてきました。彼女が非難されているという内容で、あの男とどんな関係があるの?男だけのカラオケ教室もあるのだからそこに行けば良いじゃない、このまま一回しか歌えないのなら私達はやめるわ、などけっこう激しかったようです。わたしはこれが女の世界だな、と感じおどろきました。わたしは女歌だけでも嫌いではないし歌えるので従来のように女歌一本でいこうということで先生にお願いし、決着しました。
次回練習する女歌の曲をテープに流し、練習していますが違和感はまったくなく、逆に溶け込みやすいのです。どうすりゃ良いのう?なんていう女言葉も抵抗なく声になります。
ここでわたしが考えついたのは女形の発生が男尊女卑に基づいているのは確かでしょうが、もう一つは日本人の性に対する考えが起因してるのでないかと推理するのです。
歌舞伎の世界には女形という演技上の役割があるが、これは世界を見渡しても例のないものである。封建時代という武士の時代において、女が舞台の上に出るなんてケシカランという男尊女卑の考えに根を発していて、男が女役をやるようになったというのが通説である。現在においても女の相撲取りは存在しないし、能、狂言など舞台の世界にも女はいっさい登場しない。
ところが戦後に発生した演劇、歌謡ショウ、テレビのショウ、漫才などすべての芸能においては男も女も自由に舞台に立つようになった。同時に女が男役をする宝塚が登場し、また歌謡曲においては男歌・女歌を男女が自由に歌うようになった。これは日本独自のもので欧米では男が女性歌手の歌をうたったりすると、ホモのレッテルを貼られて蔑視されるのである。それだけ騎士道の精神が残ってるということだろうが、それであれば武士道精神の盛んな封建時代において男が女役をして女の真似をすることなどとがめられて良いはずではないか?なぜ、赦されたのか?
ここでわたしは日本文化・日本人への異形性に考えを巡らしてみたいと思った。
菜園づくりをしていますが、今は野菜不足の状態です。サツマイモは収穫していますが、そのツルに挑戦してみました。太い茎から出ている葉のついた細い茎のほうです。それをハサミで切り落とし葉も落とします。細い茎は三分に一くらいに切って、三分くらい湯がいてあく抜きをします。フライパンで豚肉を炒め、それを入れてかき混ぜます。ミリンと醤油を少々いれて煮ます。程よく柔らかくなったところで出来上がりです。サッパリした歯ごたえでけっこう美味しく食べられます。繊維質が多いので腸内をきれいにしてくれます。
わたしが身障者の申請をし、身障者の仲間達とカラオケの練習などしてるとこんな題が思い浮かびました。人間社会にも宇宙にも秩序がある。自然界にも秩序がありそれを乱し破壊した者は反動として災害や大気汚染、放射能汚染をうけ、自らの生命と生存を危うくすることになる。
わたしも含めて身障者たちは人間界の秩序・健常者の秩序から少し離反している。形の上でも肉体機能の上からでも少し反れている。わたしは偏見はいっさい持っていないから良いとか悪いとかではなく、その離反を芸術的な視点から捉えてみたい。ピカソの絵にこんなのがある。人物画であるが、顔の部分において目鼻立ちが秩序を失い、目や鼻や口がおさまるべきところから離れバラバラて描かれている。こんな絵は他にはないと思うが非常に印象的であり、不可解であった。近頃わたしはそれが人間の精神分裂病を表現してると考え、希少な価値を認めるようになった。同時にこれまでの芸術は秩序に依存し、体制側・支配者側に寄りすぎているから力強さを失っているのではないか?
(身障者の芸術)というのがあって展覧会も開かれているが障害者達の本質的な能力には届いていない。精神障害者たちが岸壁に絵(このホームページのビデオ映像集に収録)を描いていたが(子供達の夢という題です)すごく生き生きとして感動的であった。エネルギー保存の法則があるように、ある部分で劣っているということはそのエネルギーが異なる部分に現われるということである。
政治にしろ文化にしろ経済にしろ、すべての分野において多数派と少数派が入れ替わらなければこの世の先は崩壊すかない。多数派は秩序に依存し利用しているから秩序を疑問視したり異議をとなえたりすることはない。改革や変革をすることは自分たちの首を絞めることになるからありえず、少数派の出番が待っているというわけだ。