ブログ - 日記カテゴリのエントリ
わたしは心臓のバイパス手術をし、身障者の認定の申請をし、(身障者の会)にも加入しています。同時に数年前から障害者への視点が変わってきました。同情とか蔑視ではなく一つの個性、キャラとして見、接するのです。社会福祉の充実や人権擁護活動により障害者を差別的に見る者も少なくなりました。昔、社会福祉制度がない頃は障害者達は家の中に閉じ込められたり、路上で物乞いをしたり、見世物小屋で自分を晒して金を得、生活していましたが今はそんなことはありません。
奇形顔の女の人にも出会いました。誰もいないのに空に向かって笑う若者、飛び跳ねるようにして歩く男、などさまざまなレア(希少)な人と知り合いになりました。車椅子にのった人などはすでに一般的になってしまったので希少性はありません。希少性の中にこそ芸術やアートの種は潜んでるわけですからわたしは宝の山に出合ったようなものです。奇形顔の女の人は強烈な効果をわたしに与えています。その印象、イメージからさまざまな文章が生まれ、絵へのイメージも膨らんでいます。
自分もふくめてたくさんの障害者、いろんな障害者が登場する作品はまだありませんが、すべての登場人物が障害者である作品を書いてみたいものです。
老人は歳をとり、未来が短くなってくる。逆に過去が長くなってくる。過去の精神的財産を食べながら余命を過ごしていく。そんな実感が湧いてきた。その中に(お医者さんごっこ)という宝があったことを思い出した。この言葉を知っている団塊世代も数が減っていってるわけだから、レア(希少性)を持つことになる。
あの頃、小学校に通い始める前の時代のことであった。当時、住んでいた家は5,6軒の家に囲まれ、同世代の子供達がいた。親は仕事にでかけていない。ぼくたち、近所友達は集まってパッチンやビー玉遊び、釘うち、駒回しなどをして遊んだ。雨の日などは相手の家に遊びに行った。鬼ごっこをして、押入れに隠れた。日頃親しい女の子と二人で押入れに入り、いつの間にか抱き合っていたりした。どこでおぼえたのかわからないが、たぶん父母の性交現場を見たにちがいないが女の子のパンツを脱がせ、自分もパンツを脱いで性交のまねごとをしたのだ。女の子の胸や性器をいじったりした。
それを(お医者さんごっこ)と言って、時々相手を変えてやったことがあった。今では考えられないことだが、乱交にちかいことまでやった記憶がある。夢の中ででも良いからもう一度やってみたい。
午前四時に目が覚めた。布団から起き上がって、石油ストーブに点火し、パソコンを立ち上げ、小説の続きを打ち始めた。一時間ほどで厭き、また布団の中に潜り込んだ。眠れそうで眠れず、布団の中から出、壁の掛け時計を見上げた。いつものようにコツコツと時を打ち、秒針はいつもの速度で回っている。
午前七時であった。
どうしたんだ?これから一日をどう過ごすんだ?土曜日だから株式市場は休みだし、カラオケ会もカラオケ教室も休みだし、曇り空の下で野菜に肥料をやる気にもならない、町営の銭湯に行くのもおっくうだ。こんな部屋にこもってるのもうんざりだ。どうするんだ?
おまえは時間というヤツだよな。生まれてから一秒も休まずおれといっしょに過ごし、また監視もしてたんだよな。まだおれに付きまとってるのか?いい加減こんなおれから離れ、オサラバしても良いんじゃないか?
そういうおまえは昨日計画していた今日の予定をすっかり忘れ、忘れていることさえ気づかないじゃないか?午前七時にいつものコースを一時間半ほど散歩して、十時に文房具屋に行って画用紙と鉛筆を買い、帰宅して昼食を食べ、十二時半に家を出て、一時から絵画教室に行き、入会手続きをしてデッサンに取り組む予定じゃないか。
わたしは厚地のカッパを着て、外に出て散歩し、この原稿を思いついて書いた。さて、画用紙と鉛筆を買いに出かけようか。
朝、目覚めてもなにをするのかわからなくなった時、布団の中に入ったままになった時、時間はわたしから離別し、わたしは時間を失う。そうだ、時間はわたしの育ての親であった。産まれた時からわたしに付き添い、片時も目を離さず、勉強にがんばり、恋をし、泣き、笑い、働き、そして最後は死を見守ってくれるのである、壁の掛け時計のように。
5年ほど前、博多の焼き鳥屋で仕事仲間と呑んでいたことがあります。酔っぱらって良い機嫌になって、トイレに行こうと立ち上がった時、隣の席にいた若い女が話しかけてきました。(さっきから聞いていると厭らしいエッチな話ばかりしてますね。不愉快だからこんな所では止めてください)と言うのです。わたしは唖然として言葉が出ず、(そんな話をしてどこが悪いのか!そんな話をするためにココに来てるんじゃないか!)と普通であれば言い返すのですがトラブルになって、NHKという会社の名前が出るのを恐れて黙っていました。
そこで考えるのです。わたしが若い頃は酔っぱらった時には必ず女の話をし、それが当たり前だったのです。どんなふうにしてくどいて落とした(自分のものにする)とか何人の女とやったとかそれは賑やかなものでした。ところが近頃では草食系だとかセックスをしないカップルなどが増え、上記のようなことが起こるのです。
猥褻とは何か?いつから発生したのかを考えました。若い頃に読んだフーコーの(性の歴史)のページを開いてみました。資本主意の発達から猥褻の観念が国家権力によって作られた、と書いてあり目からウロコが落ちました。やはりそうであった。日本文学においても性を取り上げ、問題にするのは近代文学からです。男女の関係を取り上げたのは中世からありますが、大らかな視点からであってエロイとか官能的という視点はありません。
国家権力がタブー視し、規制したのです。刑法の中の(猥褻物陳列罪)なんかが良い例です。
なぜでしょうか?今もしそのことを問えば、みっともなくて人に迷惑を与えるから、と答えるでしょう。繁殖に大事な性器がみっともないのでしょうか?なぜみっともないものとしてみるようになったのか?麻薬がなぜいけないの?と問えば健康に悪いからと答えるでしょう。詭弁なのです。性や麻薬使用に自由を与えると国民が」働かなくなり、資本主義(一生懸命働くことがモットー)に反するからです。権力が(セックスはいけないこと)と規制したがためにそれを破ることの危機感・快感が猥褻感、官能を産むことになり、皮肉な結果になっています。ただ、性産業など資本主義の一環をになうものにはOKを出します。酒やタバコなどの場合にはそのために殺人事件に発展することはありませんが、性の場合にはそれがありえる恐い深さがあるのです。性の世界も性行為そのものや色気、チラリズムなどが商品化され、資本主義の食い物にされていくばかりで、真面目に取り上げることはありません。
一婦一夫制度はなぜあるのでしょうか?一夫多妻になると課税対象が減り、一婦一夫制度のほうがたくさんの税金がとれるからです。すべての判断は資本主義・民主主義に沿ってるものなのかどうかで判断されます。
人工知能が発達しすぎるとロボットが人間にとって変わる、というパーキンス博士のニュースを読んで考えました。日常生活で聞きたいことがあって会社に電話を入れると、これは自動応答システムです、と言ってくる。番号を入れて用件を絞っていくと人工言語で答えてくる、そんな時代になっている。
地球の放射能汚染や大気汚染、土壌汚染などが進み続けても人間は資本主義による欲望誘導に勝てないことははっきりしている。破滅に向かって繁栄していくだけである。そこで環境汚染の中で生き残るのはロボットしかない。創造主は人間のDNAを環境汚染に耐えるものに変えていく、あるいは新人類を発生させるなどの方法を考えてるだろうが、ロボットに地球の管理権をあたえることも視野にいれているにちがいない。
すでに介護ロボットや工場の製造ロボットなどは実現している。ネネルギーはバッテリーで良いのだから、ロボットに太陽光発電や原子力発電のやりかたをプログラミングし、彼らの食料源の確保をさせる。自分で発電工場の設置をさせたり、従来のものを活用するマニュアルをかれらに入力する。人格権を与え、取引も売買も出来るようにする。大変なように思えるがそのシステムが完成すればあとはむずかしくない。次にロボットがロボットを製造・生産するシステムをロボットに考えさせ、実行させる。ロボット人口の数も適切にコントロールさせる。
気宇壮大な話であるが日常生活を見回せばじょじょに進行していることがわかる。
衆議院が解散して、総選挙の日が近づいている。候補者たちは美辞麗句を並べ、具体性、責任のない公約をしゃべり、マスコミはその様子をテレビの画面に出してこの体制をあおっている。特にNHKは公共放送の使命を放棄して自社番組の宣伝、料理番組、スポーツ番組、観光番組に精を出し、政治や思想の分野は放棄している。候補者達が公約を並べ立てるとき、実行できなかったらどんな責任を取るかなんて言う者は一人もいないし、具体的な数値を出す候補者も少ない。これでは言いっぱなしであり、見世物にしか過ぎないではないか?そんな連中に高い税金を出して食わしてやり、政治交付金としてお小遣いまで出していて自由に使わせているという事実はどこかの国の独裁政権と同じではないか?独裁政権の場合であれば人民を食わせきらなければクーデターが起こって独裁者は殺されるわけだが、民主主義は他国に介入して(人道支援)ー(侵略)をしては良いが、それ以外の暴力はいけないという。
まさに詐欺師の論理であり、罪を着せられることの無い(合法的詐欺師)なのです。いっそのこと独裁政治に変えて自由に政治をやらせ、責任を取らせるほうがはっきりして良いのではないかと考えたりする。
安倍政権のもとに衆議院が解散し、年末には選挙がある、という報道が流れている。自民党がまた政権を取るであろうが、たとえ他の政党が取ったとしても政治のベクトルが変わることは無いから、税金と時間と無駄使い以外のなにものでもない。
わたしも利権国民の一人ですが、利権国民とは生存権・生活権をもち、利便性、快適さ、食欲、性欲、権勢欲、消費欲、金欲など限りない欲望をひそめている現代人そのものです。かれらは産まれた時からテレビやネットをそばに置かれて、それに依存する依存症にかかり、自転車をこぎながら車を運転しながらスマホの画面に目を向ける重症患者に症状を進行させていきます。画面の世界では食べることの快楽、セックスの快楽、噂話、珍しい話・出来事・事件を知る快楽、利便性や快適生活、他人の意見・考えなどまさに情報が百花繚乱する世界です。多くの者が目を走らせて止め、コマーシャルに目を向けなければ成立しない世界なので多数が関心を持つ材料でなければなりません。そこで選別され、捨てられ、隔離される分野が出てきます。残酷だとか人権上に問題がある、危険な考えかたである、危険なサイトなどと批判が出れば引っ込め削除されます。今、街中を歩いても野良犬や野良猫、ホーレスを見ることはまずありません。子供たちは彼らの存在は知らず、彼らが隔離されていることも知らず、そのうちにかれらはこの世から消えて伝説上の存在になっていくでしょう。ホームレスの存在は生活の保障を訴える政治体制にとっては邪魔であり、生活権を与えて得票の材料にするほうが効果的なのです。
教育の分野においても民主主義・資本主義の素晴らしさを教えられます。小学校・中学校と恐れ多くも文部科学省の検定を受けた教科書で学ばされ、検定を合格させる役人もその思想に洗脳された連中ですから、独裁国家の人民抑圧の状況や封建時代、第二次大戦の悲惨さを訴え、現代の政治体制の素晴らしさを限りなく訴えます。野蛮なことや野生状態は悪いことであり、環境破壊する利便性・快適さ・消費欲・進学熱・天皇制・権威などは立派なことであると骨の髄までしみこませて教えます。民主主義・資本主義が人類を絶滅の方向に向かわせているなどとは絶対に教えないし、そんなことを言う者はわたしがかつて言われたように(今の時代に生まれてくる人間ではない)のです。
利権国民がこうして作り上げられていくと、待ち構えていたように政権を狙う政党は求めに応じる公約を掲げ、利権国民はそれに投票します。利権政府が登場し、産業・メディア・教育などすべの分野に網を張って常日頃から利益供与をおこない買収活動を行い続けます。
これを繰り返すのです、自然が崩壊するまで進んでいくでしょう。例え野党が政権をとったりしても多数決原理が基本である民主主義は人間の欲望を得票の交換条件にするしかありません。
人類史的にみると人間が知性を持ったことがすべての原因です。知性を持ったために人類繁栄のメリットを得たが絶滅のデメリットも持たされたのです。
若い頃、共産主義を理想にしたことがありました。平等で、搾取・差別のない理想郷を夢見たこともありましたが、そんな世界は世界の現実を見回せばわかるように、ありえない、という結論に達しました。村や国という形態が出来れば運営する資金が必要になり、運営する側はその資金を自由に使える立場に立つのです。するとまず自分達が美味しいものを食べ、飢えるということはありえず、金を自由に使うようになるのです。階級の上に立つ者が食物連鎖のシステムの中で食べる側の頂点に立つのです。食べられる側は食べられることで異常繁殖を抑制され、階級・彼らの生存が守られるのですが、頂点に立つものは食べる者がいないので倒され、次の支配者に取って代わられます。
支配者がいなければ被支配者は存在できず、被支配者がいなければ支配者も存在できません。コインの裏と表の関係みたいなものです。
現代の日本の身分制度は複雑です。餓死するものがいない、生活が困窮すれば生活保護受給という制度があるので身分制度はないようにみえますが、支配と被支配の関係はあり、なくなることはありません。階級制度や食物連鎖がなくなれば自然界も人間社会も崩壊するだけです。
やや単純に日本の階級制度を現してみると、1?天皇家・政治家・資本家 2?公務員・大企業労働者・生活保護受給者 3?非正規雇用労働者・中小企業、となります。1が2と3を搾取し、2は3を搾取しています。この連鎖のなかでは1,2,3の一つが欠けても社会は崩壊します。これは搾取関係ばかりでなく共生関係も含んでいます。政治家と公務員、資本家と労働者、大企業と抽象企業のように持ちつ持たれつの関係もありますから階級制度は経済的優遇の度合いで判断するしかありません。
老人たちの集まりがありました。そこで意外なことがありました。
世間話から性の話しになったのですが、日頃(早く死にたい。お父さんの元に行きたい。息子・娘達は、金をせびるばかりでわたしの孝行はしてくれない)とぼやく80歳過ぎのお婆さんの顔が輝いたのです。(わたしたちは日頃はエッチの話は出来ないので旅行に行った時、部屋のテレビでエロ番組を観て勉強した。未開発地域の酋長が女達のクリトリスを取る「割礼」は彼女らが他の男とセックスをしないようにするため。オルガスムスは・・)などとしゃべり始めたのです。歩くのもヨボヨボで認知症が始まったような女性でしたが、その話はまったく意外なないようなのでおどろきました。
わたしもセックスの好きな男だと自認・公認していますが、自分が80歳過ぎになってもあれだけ興味をもっているだろうか?あのお婆さんには性欲があるのだろうか?などと考えたのです。すると、もう一人のお婆さんが(わたしのお父さんはすぐにイッテしまう)としゃべったのです。
(灰になるまで)とはよく言われることなので特別な話ではありませんが、(猥褻)とは何かと考えたのです。猥褻物陳列罪、というのがあって性器や性交を露出すると捕補されるわけですが、観る者に性欲や性感がない場合は当人にとっては性器は単なる肉体の一部であり、性交も行為にすぎません。
もしかするとあのお婆さんはすでに性欲がないから普通人以上に軽々としゃべったのかもしれません。猥褻感がなかったのかもしれません。
カラオケ教室では毎月、課題曲が決められ、楽譜と歌の入ったテープが渡される。新曲ばかりだから家に持ち帰るとテープを流し、楽譜を見ながら歌って練習する。新曲ばかりだからなじみが無く、安っぽい歌詞だとか歌手の歌い方が裏声を出して妙に媚びてるだとか、わたしは批判的になる。十回、二十回と練習して、教室に行き、歌い方のポイントを指摘してもらう。みんなで何度も歌って練習する。すごく良い気分。そこで自然に自分の歌い方が現われてくる。写真が現像液に浸されて実体を現すように。
一人一人、マイクの前に立って歌う。わたしは歌詞の母音を伸ばし曲を捻ったり遠ざけたり近づけたりしながら、歌詞に心を入れていく。歌の魂をまさぐりながら、捕らえ、自分の魂とひとつになって飛ぼうとしているのだ。魂を捕らえた時、自分が自在にそれを操る自信が湧いてくる。この時、すべてを忘れ至高の境地に陶酔している。鳥になって上昇気流にのり、どこまでも高く高く飛び続ける。
教室を終えて帰宅し、散歩をはじめた時も心の舞台のステージでわたしは歌い、唄の魂と手をつないでいる。
昨日は(霧笛の宿)が課題曲だったが、今もわたしはその魂といっしょになってその世界に酔い漂っている。
文楽、歌舞伎、絵画、音楽などすべての芸能・芸術は魂を捕らえ作者といっしょになって心や体を踊らせる世界だということがわかった。性の世界もそうである。相手の体の反応に魂をとらえ、快感をあやつり、官能のギターを弾いているのである。
歌手とは声の魔術師である。