一週間も誰からもケイタイが鳴らない日が来るなんて、考えてもいなかった。今年になってそんな状態がつづき驚いている。退職したから会社の人間関係が切れることはわかっていた。労働組合の関係も切れた。もともと言動が激しすぎると敬遠されていたのだから仕方あるまい。政治や趣味でつながっていた地域の人との関係も一人二人と消え、身内との関係、親友だったはずの者たちとの関係も切れるに任せていった。原因は相手の利己主義が多かったが、自分にもあったであろう。もつれた糸を解く気はない。切れるに任せるだけだ。たとえ、復縁したとしてもまた、切れていくにちがいない。無理をしてまで関係を持とうとは思わない。
さびしくなれば歌を歌う。こんな歌を。
南国土佐を後にして
都へ来てから幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
土佐の高知の 播磨矢橋で
坊さんかんざし 買うをみた
よさこい よさこい
誰にも気兼ねをしない人生、そこに本物の生き方がある。
幼児はうれし泣き、泣き笑いをよくする。今、泣いたカラスがもう笑うた、というように喜び、悲しみが混合した意識の発生段階がある。ここで社会の意識の構造を知った父親・母親はうれしい時には喜び、悲しい時には泣くという儀式を教え込んでいく。幼児はそのことを学び、模倣しながら発達していくのである。大人になると儀式をきちんと覚えていてそこから外れることはないが、時々、泣き笑いやうれし泣きをすることがある。悲しみやうれしさなどとは関係なく、感動すると涙が出るのである。決して恥ずかしいことでも場違いなことでもない。感動や感激が良い刺激を与え、生命を活性化するのだ。わたしは感情の起伏が激しく、情緒障害と言われたことがあったが、感情の起伏の激しさを大事にしたい。
意識は回路を持った構造、一つの機械である。うれしい時に泣く回路に入ろうとすると停止し、笑う回路に入るのである。その習慣を植え付けられたに過ぎない。金を無くしたり、失恋したりした時には悲しまなければならないし、死にそうになったら悲しまなければならない。決して、喜んではいけないのですが、このように考えるとこの世の仕組みや構造というのは逆に不思議なものだ、と言いたくなる。
大学時代に丸山真男氏の(現代政治の思想と行動)を読み、非常に感動した。政治や社会の構造そのものに問題提起をし、ホームレス、刑務所、家庭、政治、暴力団組織などすべてが同じ構造を持っていると彼は書いていて、あれは構造主義に基づいていたと判断する。昨日、福岡教育大学の公開講座で基礎物理学を受けた後、岡本良治氏の(核・放射線と環境)というテーマの講演を聞いた。彼は反骨精神が強く、原発には最初から危険であるということで反対をし、警告を出した翌日に東北大震災が起こってしまった、と言う。わたしは最後まで講演を聞いて、質問もしたかったがカラオケ教室の予定があり、途中で退席した。
質問をしたとすれば、一億総無責任という言葉を出したはずである。政府のどの部署の誰が原発稼動の許可をしたのか?原発専門家の誰が賛成をしたのか?なぜ、一人ずつ調べ上げて、業務上過失致死罪、未必の故意による殺人で訴えないのか?提訴が無理であればせめて模擬裁判でも開かないのか?学会を追放されない学者が何故、いるのか?東芝の損失隠し事件でも誰がやったか?どんな責任をとるのかはっきりさせていない。役員の入れ替えですむことではない。構造が残っている限り、また、同じことが起こる。太平洋戦争の極東軍事裁判でも戦争を起こした構造そのものははっきりせず、終わっている。政府は原発再稼動を始めたが、東北大震災の教訓は読み取れない。地震が起こったから、想定外とでも言いたいのであろうか?
岡垣町役場に行って、職員と話しをしてきました。町の運営に関するアンケート用紙が送付されてきたので、放置していたところ、町長の名前で催促する葉書が来たので調査するつもりで行ったのです。その前に町内の者にアンケートの件をきくと、うちには来た、うちには来なかったというまちまちの答えがあったからです。
私(アンンケートをとったら公開するのですか?)
町男性職員(町役場のホームページに公開します)
私(町報には出さないのですか?)
町男性職員(情報公開では義務付けられていません)
私(パソコンやスマホを使えない人は見れないじゃないですか)
町男性職員(・・・)
私(アンケートは全世帯には送ってないみたいですね?)
町男性職員(任意に抽出しています)
私(任意で抽出するシステムであれば町の運営に賛成する者だけを選別し、100%が賛成してる結論に持っていくことも出来るわけですよね)
どこからか男性職員が現れていつの間にか3人になり、私は彼らと対応することになった。町役場自体が除草剤をまいていること、町の水道水は地下水であること、公僕の意味を知ってるか?公務員でなければ出来ない仕事をやっているのか?など日ごろの不満を冷静に話した。かれらは時々頷きながら静かに聞いていたが、(私たちが利権を漁っているという言い方はいかがなものですか?)と切り返してきた。わたしはじゅうぶんな証拠は持って行ってなかったので、黙っていたが、生活権も利権の一部だよ、と言いたい。
わたしはこの町の住民投票の時に共同代表だったので、私にアンケートを求めるということは任意の抽出方法が偏向したものではないと信じたが、任意に抽出したと言いながら彼らに都合の良い結果を出すことが出来るシステムが怖いと考えた。東北大震災でも権威ある科学技術者のデータを基本にしたことに原因があったから、データはそのまま信用してはいけない。どのようにでも操作出来るのである。
英会話の女先生はオーストラリア人だが、大学院に入って(男女共同参画社会)の勉強をするという。わたしは自分の人生経験に照らして、複雑な気持ちになった。女性の社会進出はおおいに結構なことであるが、現在の日本人女性の性質では無理であると思う。無理だからそんな言葉を使って誘導しようとしているのだろうが、日本人女自体が物事をはっきり言えるようにまた自己主張をきちんとできるようにならなければ無理である。
わたしが今、カラオケ教室で教えている女先生みたいなタイプであれば、男女共同参画社会は実現するであろうがそんなタイプの女ばかりではない。男女がいっしょに仕事をしたり活動したりする場合には必ず性の部分が入ってくる。これは避けることも否定することも出来ない、大事な部分であり、男もそこのところのけじめをつけないと女の社会進出を妨害してることになる。活動上のパートナーなのか性の対象なのかの分別はなかなかしにくいものである。男女関係が原因で組織や集団が崩壊するケースは多いから、統率者にもその仕切りが求められる。仲間との活動が大事か?女との関係が大事なのか?と言う結論である。どちらを選ぶかは当人の自由であるから、そこがむずかしいが、男女共同参画社会を実現するにはそこをきちんと踏まえなければならない。
芥川賞受賞作(カクテル・パーティ)を、今、読み終えた。面白かったし、わたしの執筆作業の良い勉強になった。沖縄が舞台で、日本人の主人公、アメリカ人、中国人が登場し、侵略や差別、人種間の微妙な心理などがうごめき、まさにカクテル・パーティである。主人公の高校生の娘がそばの家に住むアメリカ人にレイプされ、ストーリーは急転回する。娘は身を守るためにアメリカ人の男を海に突き落とし、傷害罪で訴えられるが、主人公はアメリカ人をレイプで訴えたいのだ。そこにアメリカ人に有利な法律があり、同時に加害者は合意の上の性行為だったと言う。レイプの状況を具体的な形で書くべきなのだが、作者は裁判の場ではっきりするだろう、と言う結末で逃げている。そこが残念だが、わたしは若い頃の自分の性行為を思い出し、レイプは可能なのかと、考えてしまう。女の側に受け入れ体制があっても、凹に突っ込むというのは下腹部が見えにくいこともあって、容易には出来ない場合が多い。相手が体を一センチ動かすだけでも的が外れてしまうのだから、少しでも抵抗されれば挿入ができないのである。脅すなどして無抵抗な状態でないとできないのだ。女の体は心が拒否していても快感がわき、つい受け入れてしまう。終わった後に、レイプされたということになる。これが実態である。裁判の場では具体的な言動が再現されるだろうが、裁判官は女の体ではなく、心の部分を重視するであろう。心が受け入れていれば女は提訴したりはしない。
この内容は人権上の問題をはらんでいますが、人権の領域から離れた視点で書きます。(図解雑学 構造主義)という本にまったく同じことが書いてあるのでわたしのオリジナル視点ではありませんが、わたしがうすうす感じていたことだったのです。秩序が時代や国、生命体、無機物を問わず普遍のものであればイジメはどの世界にもあり、隠れている場合もありますが、生け贄が普遍的に存在します。週刊誌が好材料とする有名人のスキャンダルが良い例で、読者はコロシアム(ローマ時代の闘技場)で行われる殺し合いのような血祭りを快感を抱いて観るのです。そこで自分達の安全圏を確信し、安心して生活をし働くのです。血祭りは残酷なほど興奮を呼び起こし、観客にエネルギーを与えます。イジメられている者を助けよう、イジメはいけないなどという作用は起こらず、傍観しながら自分はイジメラれる側ではないことを知ってイジメル側について安心するのです。ですから定期的に血祭りはイベントのように発生し、止めることは出来ません。イジメラれる側の対抗策としては(イジメられることがどんなに苦しいことかはじゅうぶんにわかっていますが)被虐を受けた日にちや内容を記録して裁判で多額の金をとってやること、あるいは大声を出してイジメられてる実態を暴露するかでしようが、イジメる側は巧妙ですから、ふざけてた、冗談半分など言い訳を準備していますから、簡単に片付かない場合があります。同時にイジメテるという自覚がないのですから始末が悪いのです。
この一年ほどこの町から外に出ていない。電車に乗っていない。お金がないこともあるが、目を覚ませば前の畑に草が生え、キュウリやカボチャが顔を出してるのを見ればその日の仕事が自然に決まってくる。草を刈り、肥料をやり、食材の買出しに出かけ、カラオケ教室、英会話教室、パソコン教室、公開講座などに参加していれば一日が終わる。その生活スタイルにはある程度変化があり、異なる人と出会ったりするからエネルギーも沸くがそれがなくなればわたしのエネルギーは減っていき、死を待つだけである。
流産について考えてみた。先天性異常の原因が70%を占めるとネットに載っていたし、自然淘汰であるともあった。そのことは一応知っていたが、では誰が流産の指示を出しているのかは疑問である。神を仮定するしかないが、ではなぜ100%ではないのか?障害を持つものをなぜ、世に送り出すのか?
(差異)が必要なのだ。他者との違いは刺激とエネルギーを生み、両者に存在感を与えるのだ。多様性、多種、落差を神は活性化の源と神は考えているのだ。
男には女の下着に関心を持ち性的興奮をする者が多いが、女にはいない。この不思議な現象をわたしは長い間、考えてきた。女のパンティやブラジャーは色も形も多種多様でその女の個性を想像させるが、男のパンツはみな同じようなものばかりだから個性をとらえられないということを以前のブログに書いたが重要なことを忘れていた。想像力の男女のちがい、ということである。芸術家はほとんど男である。女は家庭を守り・子育てをするという役割分担が昔からあって、芸術分野には進みにくかったことはじゅうぶんにわかるがそれにしても世界を見渡しても歪な現象が出ている。女の画家はいますか?女の作曲家はいますか?女の作詞家はいますか?女の料理人はいますか?これらの分野で頭に思い浮かぶ女が一人もいない、あるいは一人か二人ということはどういうことなのだろうか?
それはフェティシズム、想像力のちがいなのだ。決して劣っていると言ってるのではありません。想像力は無限に広がり、現実・実物以上の魅力を持っているのです。恋する女の下着は実物以上に想像力を喚起し、興奮させるのです。芸術は想像力が源です。女の小説家、映画監督などはいますが、画家、作曲家,作詞家、シェフにおいて皆無だと言う事実は非常に不思議です。
ついに恐い言葉に出会ってしまった。(図解雑学構造主義)という本をよんでいるが、タイトルのその言葉は私の心臓をずばり突き刺した。わたしの予測していたのはその言葉であった。総理大臣が安倍から誰に変わろうと例え共産党が政権をとったとしても資本・民主主義の体制が変わろうとも政治・社会構造が変わらない限り首のすげかえにしか過ぎないのだ。いやもしかすると政治・社会体制が変わったとしても全体をまとめるには何がどんな構造が必要かと考えれば、サル山の社会のように面倒見の良いボスと安心して生きていけるシステムということになり、時代や生物世界、国を問わず、秩序は普遍のものではないか。細胞や細菌、量子にいたる世界までそうなのではないか?
F.カフカやカミュは構造主義の先駆者である。カフカの(城)(審判)など初めて読んだ時は退屈きわまりない小説であったが、自動車組み立て工場で組み立て作業をした時に覚えた感覚、?ここは刑務所であり俺は懲役労働、罰を受けていると言う気持ちを経験した。その後にそれらの作品を読み返すとあまりのリアリティに悪寒さえ覚えた。カミュの(異邦人)もそうである。ムルソーが殺人罪で捕らえられ、獄舎に入れられた時の気持ちは待ち望んでいた世界であり、衆人の前で絞首刑にされる光景を待ち望んでいると言うものであった。
現代人はすべて構造と秩序の中にいて自ら独房生活をしているとその本にも書いてあり、同感であった。