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三年前に心臓バイパス手術を受け、三週間ほど入院生活を送ったことが減量のきっかけになりました。それがなければ大食の習慣を変えれなかったでしょうが、それにしても狭心症、心筋梗塞、バイパス手術という苦難の体験は耐えがたいものでした。現在は時々不整脈が出ますが、日常生活はこなせています。
78キロあった体重は65キロまで落ち、毎月通院して血液を調べ、尿酸値以外はすべて合格です。中性脂肪も血糖も血圧も正常です。血圧の薬は毎日2錠、飲んでいますが。
1?ご飯をかむ回数を三十回以上にする。旨みがでて美味しいし、満腹感が出るのでご飯の量をお茶碗の半分にし、野菜、魚、肉はじゅうぶんに摂っています。尿酸値が高いので、抑制にきく鳥皮に変えています。これは比較的やりやすい項目です。
2?調理の方法です。砂糖、塩はいっさい使いません。煮物の場合は肉や野菜を入れて、焦げる前まで煮詰め、それから醤油をわずかに落とす程度です。唐辛子や酢をうまく使って味を出します。
3?運動をします。散歩を一時間半したり、畑を耕す作業を二時間程度します。酒やお菓子は週に一度くらい、飲食します。タバコは自然にやめ、吸う気にもなりません。
これで四年間、体重は65キロのままで、体調も良いです。理想的な生活スタイルなので、外食の多いサラリーマンの方には難しいかもしれませんが、先ず噛む回数を三十回にして、ご飯の量を半分にしてみませんか?
Tpp交渉で関税が撤廃され、安い農産物が海外から輸入され、日本の農家・農業は破滅していくであろう。大規模農場を持つ海外の農家に太刀打ちできるはずはない。票田と呼ばれ補助金頼みであった農家も生き残りの生活を本格的に考えねばならない。過保護に育てられた農家は温室栽培の野菜と同じであったが、天敵から身を護るために雑草のように切り取られれば切り取られるほど強くならねばならない。
日本の農村は棚田をみればわかるように、すでに民芸品であり、訪れた者の眼を楽しませ心を和ませる。そこに美味しい米、野山に柿、栗、野いちご、アケビがあり、川にフナ、ドジョウ、蟹、ハヤ、アカバラ、などがおれば遊園地ではないか。ヤギや牛が草を食べ、鹿やイノシシの姿が見え、珍しい蝶が彼岸花の蜜を吸っていればさらに心が豊かになる。有名な観光地に行くより費用も安いし、茶屋でお茶でも飲みながら、白菜や大根、ジャガイモなど無農薬野菜を買い、野菜作りの話を聞いていければ素晴らしいことだと思う。
ところが現実は都市での歌謡ショウ、祭り、グルメなどに眼を奪われ、人の気持はそちらに吸い寄せられる。資本主義の構造は大量生産・大量消費にあるから、いつもPR攻勢で洗脳漬けにし、希少な分野は対象外にするのである。
わたしの近所の人ですでに放棄地を公園にしてる人がいる。わたしも時々、竹を運んだりして手伝っているが、オカリナ・コンサートをしたり、イノシシ肉のバーベキューをしたり、フットパスで訪問する人がいたりしてにぎわっている。
昨日は福岡教育大学で公開講座(日本事情B)が開講された。坪内先生が講義の進め方を説明したが、教科書にそって進めるのではなく、大宰府の博物館の見学、相撲の見学などをし、生徒たちの自由討議の中で考えを展開させると言うことでかなり進化した授業だと思った。生徒は四十人ほどで、中国、韓国、ブルガリア、ベルギーなどの留学生たちが七割ほどを占め、社会人は四人で、日本人学生は十人ほどであった。
留学生達は自己紹介をした。
(日本人とあなたの国の韓国人を見て、表情の違いはありましたか?)わたしは一人に質問した。(これは言いにくいことですが)とその若い男は言うので、先生も私もそれは気にしなくて言いと言い、(日本人はおだやかな顔をしているが、腹の中は違う)と彼は言い、私たちも納得した。日本人は表情が薄い、という言葉を予想していた。彼の言葉はよく耳にする内容であったしわたしが日頃から、感じていることでもあった。
韓国や中国は絶えず国境紛争があり、中国は多民族、多言語の国であるから、本音を出して自己主張をきちんとしないと、生きていけない。日本は一民族、一言語だから以心伝心で通じる。そこが根本的にちがう。感情を直接出すか出さないかのちがいであり、腹の中はどの民族も同じである。
わたしの子供のような留学生たちを見ながら、遠い国に来ていろいろ迷うことが多いだろうし、わたしの家に招いてご飯でも作ってやりたい、と考えた。国家は国民から税金を取っているので領土を広げたり貿易をしたりして国の利益を出さなければならないから、国家間の紛争まで起こしやすい。北方領土や竹島などトラブルを起こし、日本人の中には差別感情さえ出す者がいるが、基本的には国家と国民は異なる。この講義のような交流の場があれば、誤解もとけるし、戦争は起こらないと考えた。
昨日、日本人学者がンーベル賞を受賞したことでマスコミは大騒ぎである。人体の寄生虫が起こす病気の治療法を研究し成果を出した、という内容であり、毎日新聞にも出ていた。ところが二日前の毎日新聞は山本ふみこ氏が読後感を書いている。(寄生虫なき病)という本には、寄生虫の不在が病気を起こしていて、寄生虫の不在が免疫系を過敏にさせ、難病の原因をつくっているのではないか、という内容でその本の著者であるモイセズ・ベラスケス氏が11歳の時に円形脱毛症にかかり、自らを寄生中であるコウチュウに感染させた(結果は書いてない)ということである。
寄生虫は人体に害があるのだろうか?益があるのだろうか?
どちらであろうか?
どちらも真理あろう。
自然界に善悪はなく、人間が勝手にきめているのであるから。
まず、虫のつかない野菜を紹介します。大根(少し葉が虫に食われる)、ジャガイモ、たまねぎ、にら、ねぎ、ワケギ、絹さやインゲン、ソラマメです。苗や根から植えるのはコンニャク、サツマイモ(ツルをゆがくとサラダになる)、サトイモ、ズイキ、ヤマイモなどです。
次に虫の付く野菜です。これは種を箱の中でまいて、ビニールを隙間なく被せて虫を避ける。ある程度成長したら、畑に植えて、ビニール袋(肥料袋でOK)で周りを囲み、虫を避ける。白菜、キャベツ、ニンジン、ブロッコリー、レタス、カリフラワー、インゲン豆などはこのようにしました。
無農薬野菜が作れることがわかり、現在、わたしの畑ではそのようにしています。
昨日は気分が悪かった。腰痛、胃痛、ウツ、不整脈と体調を壊した時には一気呵成に現れ出る。外に出る気もなく、寝転がり、(ガラパゴスの女)のイメージ言語が浮かんで、パソコンを開き、打っていった。ラストの部分に差しかかり、その場面を慎重に展開する段階であった。
今日は体調も治り、山道の散歩、ギンナンの皮むき、食材の買出し、いつもの通院とスムーズに進めた。野生動物の意識・生活を想像してみた。山道の地面に荒々しく擦った個所があり、イノシシが大好きな山ミミズを探した跡だとわかった。小さな蛇のように大きいミミズがそこに住んでいるのだ。
野生動物たちは、今日は餌を探せるか?生きれるか?なんて考えはしない。老後がどうなるか?戦争がどうなるか?なんても考えはしない。未来はなく、現在しかない。否定することも肯定することもない。だから、眼が澄んでいる。
現在だけに眼を向け、(すべて、良し)なのである。
文学世界の両巨頭に交えて(私)を出すなんて、おこがましいにもほどがあるでしょう。名も知れぬ変わり者にしかすぎない私ですが、ロマンチスト、繊細さ、自己へのこだわり、劣等感、夢想癖などにおいては両巨頭に負けません。
中学時代から受験勉強を強いられ、社会での人間関係を持たなかったので、小説の中で学ぼうとしました。いろんなことを学びました。こんな場合、他者や女はどのように感じ取り、反応するかなどと社会に出れば十分すぎる経験の作品の世界で知りました。嘘も感じ取りました。女が登場するのに男の主人公が欲情しないからですが、執筆を経験した現在では十分にわかります。主題が官能世界ではなかったからです。
太宰治の小説は何と言っても(東北人)の匂いがあり、清らかな文体ですが、(生まれてきてすみません)などという言葉を書いた者は文学史上初めてでしょう。そこに彼の感性、作品が凝縮されています。そんな女々しい言葉を使って?などと世間から侮蔑される言葉で彼の人生、作品を切り開いていったのですから凄いものです。他方、三島由紀夫は兵役検査で不合格(後に誤診だとわかる)だったことと虚弱さが文学に向かうことになり、ボディビル、剣道、空手で体を鍛え、血を見ると欲情する、同性愛などの劣等感に復元力を与えることになりました。虚構の世界で復元力を広げ、現実世界で、切腹、という行為で見事に結実させたのです。
わたしはどうなのか?
わたしはこのブログに何度も書いていますが、人間中心主義(多数派の価値基準)の視点から自然中心へと視点を変えることで自分や世の中を克服しています。今後、この流れを引き継いでいきます。
今朝の朝刊の書評を読んでこのタイトルを考えついた。(寄生虫、常在細菌など悪玉を消すことが人の自己免疫系統を過敏にさせているのではないか)?山本ふみこ氏の文章、ですがわたしは読んで考えが進みました。がん細胞、赤痢、ペストなど人間にとっての病原菌、悪玉は無数にありますが、自然界にとっては悪玉も善玉もいないし、逆にそれらには必要性があるのではないか?ということです。人間社会にも悪人や悪はありますが、実はそれらも必然的に生じているのではないか、ということです。ブログ(静電誘導)の中でも書いていますが、エボナイトの棒を布でこすると一端にプラスの電気がうまれ、他方の一端に同量のマイナスが発生する原理と同じではないか、と考えるのです。
そのように考えると自分の人生や社会、世界の見え方が変わってきます。
三島由紀夫の(仮面の告白)を再度、読み始めた。以前、三度、読んでいるが、今回は(不幸が産む傑作)という主題を考えついたからである。(三島由紀夫を傍にした夜)のブログに書いているように彼を3,4分間、そばにしたことがあった。東京・後楽園・ヘルスジムでボディビルをやっていた頃である。(金閣寺)の作品の主人公がドモリであることから、わたしは見破られることを恐れて話しかけはしなかった。上半身が裸で筋肉の張り詰めた肉体は小柄ながら迫力を漂わせ、オーラさえ放射していた。
彼もわたしと同じく若い頃は虚弱体質であり、繊細さとロマンチズムに満ち、優等生として育てられ、性的異常さがあり、という具合だったから、わたしは近親感より、嫌悪のほうが近かった。後楽園・ヘスルジムで彼をそばにして7年後、彼は市谷・自衛隊に同士たちと乱入し、割腹自殺をした。わたしが通っていた法政大学の掘割をはさんだ位置に自衛隊はあったが、新聞の一面トップに報道され、わたしは冗談だと一瞬考えた。
東大出で大蔵省に職を得た彼が、結婚し、子供までもうけておきながら、なぜ(私)にこだわり、最後に夢を実現したのか?世間的にはうらやましいばかりの彼の人生は彼の内心では不幸の塊であった。虚構という小説世界で自分の人生を変換し、再構成する、生きなおすという衝動・熱情に病として取り付かれてしまった。割腹自殺が夢の実現であり、虚構世界の現実化であることは彼の小説を読めばわかる。
割腹はオナニーにも似た快感であった、とわたしは想像する。わたしが後楽園・ヘルスジムでのボディビルや大学での一撃必殺訓練(空手)をやって筋肉を鍛えた時、不思議な衝動が沸いたのを覚えている。自分の筋肉・体を叩き、傷つけ、壊したいという衝動であった。精神科医に言わせれば自傷行為だと言うであろうが、実行まではしなかったがわたしはそれを消すことは出来なかった。武士が切腹に臨む時も似た衝動があったと考える。切腹を否定し、悲しむことより、腹の中の虚心さを証明できるという快感の方が強かったのではないか?
除草剤メーカーは次のように言う。除草剤は地下に染込むことはなくなく大気中に拡散するから害はありません。一見もっともなようだが、大きな間違いを隠している。地球は大気圏によって蓋をされており、宇宙まで無限に広がっているのではない。除草剤の毒は大気圏の中で排気ガスと同じように集まり、人が吸い植物や他の生物の生命を犯していくのだ。
薬の場合もそうである。漢方薬に副作用がないというのはそれが野菜と同じく成分・元素を万遍なくひろがらせているからである。化学薬品はその症状に最も効果的な成分・元素を集中させているから効果も大きく、それが逆に副作用を生む原因になっている。生活の中での利便性も同じく、利便性の快適さばかりに目をうばうことが資本主義の狙いであるから、副作用を生み環境破壊、そして意識の破壊を招いている。統合失調症なども良い例である。意識の働きが全体を見渡す能力を劣化させられ、制御機能・方向性を失ってしまうのである。人間だけでなく、街中に現れる野生動物、国家間の紛争・戦争なども統合失調症の良い例である。
昔がすべて良かったわけではないが、昔の人は自然への感謝があり大事にする気持があったので心の拠り所、意識の中心点があった。統合失調症や認知症は少なく、そのようになる前にこの世から消えていたのだ。