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建物は垂直に立つし、植物も動物も垂直に立つ。その原因は重力(引力)のエネルギーである。それによって植物は太陽の光を可能な限りすべての葉に受けて、光合成を最大限に活用し、成長する。動物もそうであるし、垂直に立ってることによって安定感を得、効率的、自由に動けるのである。その体が左右対称形であることも原因の一つである。
動植物の精神もそれに倣っている。弁護士になりたいとすれば一生懸命勉強し、進学校にすすみ、司法試験にパスすると言う、垂直論理的な計画を立てる。この論理的・帰納的な思考も重力の法則通りに、司法試験合格を頂点にしたピラミッド型である。木には太い幹があり、枝分かれして太陽を向いているという構造は演繹・帰納的な姿である。
重力があるから地上のすべてのものはそのベクトル・力に従ったのである。
重力の法則は地上のすべての生命、生き方に力を与えている(神)である。
精神に障害が出るということは重力の法則または磁場からから外れた場合ではないか?と勝手に想像するのだが。いかがなものでしょうか?
この句を先ほど作ってみて、独断であるが俳句の世界がわかったような気になった。この句になる前は、(蔓一本湖面に伸びし冬の暮れ)であったが、異質な(年の暮れ)を入れることによって、違う楽器が共感する広がりと無常観が表現出来たと思う。次回に句会でどんな評価を受けるかわからないが、俳句の世界も芸術と同じで意外なニュアンスで響き合わせるかどうかで評価される。あるいは誰もが表現出来ない言葉を重ね合わせることが出来るかどうかである。
今日の(俳句の会)で(良)の評価をうけましたが、(蔓一本湖面に垂れし年の暮れ)より(年の暮れ湖面に垂れし蔓一本)にしたほうが良い、と言われ書き直しました。他人の目の方が鋭いですね。
前掲のブログの続きになるが、太古の日本では男女が結びつくと同居するのではなく、男が女の住まいに通っていたのである。(夜這いーよばあい)の風習はその時、男が女の名前を呼んで訪れたことを告げた(呼び合う)ことから言葉になったのだ。一夫一婦制で同居するようになったのはそれ以降のことである。
草食系、男女共同参画社会、性同一障害、グループ・ホームなど性の多様化複雑化する現代において一夫一婦制で同居すると言うルールは時代にあわないし、それを習慣として受け入れることが難しくなっている。結婚制度自体が見直されなければならない。
ある夫婦は家庭内離婚・家庭内別居の生活をしている。夫は妻との離婚を望んでいるがツマは出ていかず、夫の行動を絶えず監視している。不倫でもすれば離婚時の有利な資料になるからである。伝達必要事項は紙に書いて食卓テーブルの上に置いている。ツマ彼女の部屋に外鍵・内鍵を付け、外出の際は必ず、施錠し、生活費は夫の金を使っている。もちろん、セックスはない。
こんな状態なのに別れるには離婚を裁判所に提訴しなければならないし、離婚して姓が変わるだけでも丸一日の書類手続きが必要なのである。
知人から聞いたこんな話。
A子は50歳で美人であり、気性が激しい。保険の外交員をしており、自分の生活費は自分で稼いでいる。派手好きでカラオケやスナックで飲んで騒ぐのが好き。息子は19歳の大学生。夫は金貸しをしていてバブルの頃に大儲けして、豪邸に住んでいるが、今は貸金業への規制が入り、収入は少なくなった。彼はA子に自分の使う光熱費や石鹸、シャンプーの金を出すように請求した。大喧嘩になり、(貴様!撃ち殺して、スコップで土に埋めてやるぞ!)と息子のいる前で叫んだ。最初わたしは夫が叫んだのだと思っていたら、A子が叫んだのであった。
それで離婚した。
A子には再婚相手がすでにいたが、結婚はしない。アパート住まいをして、男が通ってくるようにしている。男は二回離婚していて、二回目の妻はうつ病になり、入院して、彼の両親の願いで離婚した。男はかなりの完全主義者で金持ちである。趣味は神社仏閣を見て回ることで、カラオケを歌うとド音痴。食材でも必ず激安店に行くが、A子は激安店は中国、韓国製が多いからと言って信用しておらず行かない。男はA子が外交員をして仕事柄他の男と飲食をすることを嫌い、主婦業に専念することを望んでいる。A子は仕事を続け、男からの経済的援助は受けず、自立していたい。
A子はアパート住まいを始めたが、A子と男が今後どうなるかわからない。破綻の可能性しかないと、わたしは思う。三者に共通しているのは異種を受け入れず、排除する性格だと言うことだ。誰しもそれは持っているが、先日の人権の話の中にあったように、異種は観察し、納得できる部分は納得し、自分に取り込むしかない。人権の講演時に話したアメリカ人が日本の言葉や生活習慣が異なると考えて拒否すれば彼は生きていけなかっただろうし、母国に引き上げるしかなかったはずだ。
彼は3年間で当用漢字をマスターし、すっかり日本通になり、今では大学教授にまでなり、テレビにも出演して、タレント並みである。」
数日前、公民館に行った。手話教室の見学が目的だった。障害者の旅行で知り合ったAさんの誘いの言葉が心に残っていたからである。
10人ほどの高齢の女性が集まっていて、Aさんは皆の前に立って、授業を始めた。ボードには日常使う単語が並び、会話の例文も書かれていた。Aさんは穏やかな顔で、手話で現し、時々、たどたどしい言葉を発した。人は言語を考え出す前は手振り身振り、唸りで意思伝達をしていたのであるから、手話というのは親しみを抱かせた。素朴な原始時代に戻ったような懐かしさをわたしのDNAは感じ取った。ただ、完全に手話をマスターするには10年はかかるという話を聞いていたのでわたしの余命は足りないかもしれないとも考えた。
帰宅して、手話ダンス、手話劇、手話で歌う、など調べてみると、すでにそれらは実践されていてたくさん取り込まれているのがわかった。だが、いずれにも発声言語が入っていたのでわたしの本来の意図とは異なることを知った。本来の意図は手振り身振り、手話で現すことであり、サイレント映画に観る様にそれらと顔の表情、字幕で現す世界であった。
次に(足らざる)という言葉を考えた。(足るを知りて足らざるを知る)という諺があるが、今のわたしは、歳が足りない、頭が足りない、女が足りない、金が足りない、活発さが足りない、と足りないものばかりである。時間だけは十分にあり、それだけが足りているが、いずれ死んでそれも消えてしまう。
Aさんはしゃべれない、聞こえない、と二重苦の生活であるが、それ以外は満ち足りているし、二十苦のハンディを乗り越えて健常者に手話の指導までしている。これは驚きであるし、健常者?たちへの教訓にもなる。同時に(足らざる)ことの価値を見出すことも出来る。すべてに満ち足りた人が必ずしも幸福なのではない、足らざるばかりの人が必ずしも不幸なのでもない。金が足りなければ、金を盗まれる心配はないし、女が足りなければ浮気される心配はないし、金を使うこともないのである。
田舎に引きこもった生活をしているが、昨日は友達の誘いで、町の公共施設にジェフ・バークランド氏の講演を聴きに行った。(障害は個性)という題であり、それは常日頃自分も考えていたので珍しくはなかったが、彼が20歳で来日し、46年間を過ごした体験を基にしての話だったので中途退席する観客はいなかった。彼は東京・駒沢で学生・下宿生活を始めた話をした。そこでは共同風呂に入る時に、下宿生たちに(お先に!)と大声を出して風呂に入ることになっていた。彼は最後に入浴するのでその言葉は要らないのであったが、必ず(お先に!)と叫んで風呂に入った。ある日、彼が外に出て、バスに乗ろうとした時、バスを待っていたおばあさんが彼に(お先に)と言って乗ったので、びっくりした。(お先に!)とは風呂に入ることだったのではないか、確かにどちらもBUS,BAThであるがとジョウクを入れて、その出来事を友人に聞いたが、友人はバークランド氏の誤解を丁寧に説明してくれたと言う。
バークランド氏ははっきり言わなかったが私が彼の真意を想像するには彼自身が日本語もわからず、生活も出来ない障害者であったということだ。それは一時的なものであり、彼は好奇心と猛勉強によって生活で出来るようになり、健常者に変わった。日本人を観察し、20歳までの彼の生活習慣と比較して違いを理解し、吸収した。人権と言うのは相手の置かれている生活、環境を理解し、自分との差異を発見して受け入れることだと言いたかったのだ。
日本人は謙虚なので日本の文化は受信型であり、外国は発信型文化だとも言った。聾唖者も観衆にしての話だったので手話通訳士が通訳をしていた。バークランド氏は通訳士の名前を手話で現した。塩田さんの場合は顔全体を引掻く身振りと両手の平開いてを交える手振りで現した。彼自身の彼の豊富な体験も交えてドラマの監督でもあった。
わたしがそれ以上印象に残ったのは、彼が人間にとって一番大事なものはなんですか?と観衆に尋ね、命、金、愛などと聴衆が答える中で、それは酸素です、三分間酸素を吸わなかったら死んでしまう、と答え、次に水です、重力です、と話した。彼の実家はアメリカの砂漠だったので日本に来て初めて傘を差したとも話した。砂漠では水は貴重であるが日本ではあるのが当たり前なのである。
彼は自然が一番大事である、と言いたかったのである。日本人には出ない言葉である。酸素、水があるのは当たり前だと考えているからである。
私たちは今、人類史上稀な時代に生きている。餓死者が、特別な場合を除いて、いない時代なのだ。日本の歴史、世界の歴史を調べてもこんな時代は一度もなかったし、日本は太平洋戦争後戦死者を一人も出していない、これも初めてである。
このことは何を意味してるのであろうか?
滅亡を意味してるとしか考えられない。飢えの苦しさ、それが死につながることを知らない、そんなことを経験していないということはそれへの備えを失っているということである。未来に対する備えをせず、目先の生活と快楽にしか目が向いていないと言うことだ。太平洋戦争後、食糧難、飢えに苦しんだ時代では女は体を売り、男は農村に出かけて貴金属や高価な着物を米と替えてもらい、それで生きてきたのである。
わたしが不安に思うのは、川で生きていたドジョウやドンポ、フナ、蟹がすっかり姿を消してしまってるという事実だ。川が農薬に汚染され彼らが住めなくなっている。すべての川は海に流れているから、最終的には海も今の川のようになって魚が住めなくなり、魚類が消えてしまうということである。食物は連鎖しているから次の種が消え、その次の種が消え、となると人間も消えるしかない。
餓死者のいない時代は恵まれてるように見えて、実は怖い未来を抱えているのである。
昨日は障害者20人ほどと観光バスに乗って、田川市の石炭資料館に行った。山本作兵衛さんの炭鉱労働絵を見たり、炭住の生活風景の再現模型など見た。その時代が留められていて、懐かしくなった。
バスの中では聾唖者夫婦、女性介護者と私の席が接し、話を交えた。顔は知っていたが彼らと口をきいたのは初めてであった。わたしの言葉や聾唖者の手話は介護人が通訳してくれた。妻の方は顔たちの整った美人で、夫は背が高くおっとりした感じであった。妻は写真を出して、わたしに見せた。20歳代の頃の結婚式の写真で彼女と夫の顔が幸福そうに写っていた。写真はいつも御守りのように肌身につけていると言い、彼女の優しさと繊細さがわかった。ダンスをするのが趣味だと言った。欧米風の顔立ちをしていて女優のように見えた。彼女の表情は豊かに変わり、それもコミュニケーションの一つだと後にネットで手話を調べてわかった。彼女は洋裁や掃除や調理の仕事をしてきたて、夫は69歳でわたしと同じ歳であった。自動車販売店の車の掃除をしてると言い、土産は両手に抱えきれないくらい買って交友関係が広いことをわたしは知った。男の子が一人いて、結婚して孫が出来、可愛いと妻は言い、右手で頭を撫でる仕草をし、それが手話で可愛いという意味だとわかり、わたしは手話の世界に興味が出てきた。行きも帰りも同じ席であったが、外の景色を見る暇もないほどかれらとの話に興味を持ち、しゃべった。聾唖者の人生、生き方がわかり、感動した。わたしは心臓のバイパス手術をし、どもりという障害者であるが、一般人並みの人生を送ってきた。その夫婦はしゃべれないので必要な時は紙の書いて筆談し、生活に不自由はしていないと言った。わたしに子供はいるのか?孫はいるのか?可愛いよね!としきりに言ったが、わたしは薄笑いを浮かべて、複雑な事情は話さなかった。
今日はその出来事を思い出しながら、チャップリンのサイレント映画(街の灯)の場面を思い出してその二つの光景が重なった。(街の灯)は浮浪者でおどけ者の主人公が盲目の女と知り合い、恋をするが、彼女の目が見えるようになって彼の本当の姿を知って、去ってしまう、と言うストーリーであった。バスの中で話した聾唖者の妻がその盲目の女に見えた。無声映画特有の豊かな表情であり、二人とも美人であった。障害者というハンディが逆に美の効果を強めた。映画は声が出ずに字幕で物語が進むのでわたしと聾唖者たちとの交流に似たところがあったことに気づいた。手話は身振り手振りと言う点で一般人も良く使うものであるが、指先の表情の素晴らしさをわたしは知った。手で感情や考えを現すもので、日本舞踊やダンスと同じ芸能に属するのではないかと考えた。
新しい世界に触れた満足感を与えてくれた。火曜日に公民館で手話の教室をやっているからと誘われ、行くつもりである。
毎週、町の運営する英会話教室に通っているが、今回講師のテュリン(24歳のオーストラリア女)は奇抜な授業をして頭をすごく刺激される。そのやり方は最近のマニュアルの一つかもしれないが、私が高校時代に望んでいた内容に等しい。
昨日はこんなやり方であった。二人ずつグループになった生徒たに写真を配る。鶏たちが走って競争をし、その背中に小さな男が乗っている写真。あるいは女幼児がい椅子に座り、PCに向かっていて、PCのそばには男幼児の小さな写真が立ててある写真。
生徒たち写真を見て、物語を考え、作り、英語で発表する、と言うやり方である。わたしが学生の頃は英単語を覚える、文法を学ぶなど最初から上からの目線の授業であり、難行・苦行であったが近頃は変わったのであろうか?授業をいつでも公開するような姿勢が欲しいが。
わたしと隣席の男は話し合いながらこんな物語を作った。ある朝、目覚めたジョンは夢の内容を思い返していた。チキンレースが行われ、鶏たちが走って競争をしてる内容であった。ジョンは興奮して、一羽の雄鶏の背中に飛び乗って走り、もっと速く!もっと速くと叫び、勇気づけ、ついに一位になって優勝した、という話であった。
女幼児が泣いている写真に対しては、彼女はパソコンでアニメを見ていたが母親の姿が消えていることに気づいて泣き始めた、という物語をわたしは作ったが女生徒のグループはパソコンのそばにある小さな写真の男児に気づき、彼がいなくなって女幼児は寂しがって泣き始めた、と言う物語を作り、わたしはその写真には注目していなかった。男と女の目線の違いがわかった。
単純な話であるが、雄鶏は英語で何と言うのか?勇気づける、という英語はなんと言うのか?など和英辞典を開いて探したのである。頭を使い集中した。
英単語を憶える、文法を憶える、そんなやり方が垂直的(上下)だとすればこれは水平的なやり方である。真横に広げるほうが広がりが大きい。今年の米の収穫量はどれくらい増えた?それに比例して自然破壊はどれくらい増えた?など異分野の部分を並べ合わせると本当の実態が見えてくるのではないか?両者を別個にとらえているから、実態が失われてしまっているのが現代である。
アメリカでトランプ氏が大統領になり、話題になっている。日本では北方領土返還のことで日露のトップが話し合っている。トランプ氏は不動産王と呼ばれる民間人であり、対外政策を政治ではなく経済中心に考えている。露骨な舌鋒で異端者扱いされていたが、真理をついた発言でもあった。まさか大統領になるとは予想もされなかった彼がなったわけだから、これは世界の政治・外交にも取り込まれていくだろう。日露の交渉も北方領土の返還よりもその地域の開発・経済交流に終わりそうである。
アメリカと北朝鮮の関係も政治の枠組みを破って、経済交流に変わるかもしれない。人権、民主主義の世界が北朝鮮になだれ込むだろう。それによって金体制は崩壊することが考えられる。(経済)がトロイの馬になるということだ。消滅してしまった東ドイツのように。