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昨年度の末、正月への花の需要を考えて、白瑞泉を産直店に10束ほど出荷した。自分の家は広いので、白瑞泉が庭のあちこちに咲いているが、あまりに数が多いので、日頃は無視していた。稼ぎ時だと考え、三本で百二十円で出し、半分以上は売れた。
白瑞泉を切る時、葉が離れないように、根本から、切った。すると、意外にも茎が長く、花の二十倍ほどはあった。花は小さく、八頭身の美人さながら、すごくスタイルが良いことに気づいた。そこで、考えた。花々は美意識、美観をもっているのだと。花も色んな種類に別れ、美を競い、少しでも多くの蝶や蜂に受粉をしてもらおうと考えているのだ。どんな色で、どんな模様で、どんな形をすれば蝶や蜂の眼を引き、吸い付いてもらえるか、絶えず考え、進化しているのである。
つまり、考える力と習性をもっているのである。心を持っているのである。
そのように考えると、彼らは私の家族の一員であり、産直店で買われ、他所の家庭に持ち込まれた花は、嫁入りしたのと同じだと考えることが出来た。
これは高校時代、日本史を学んだ時、記憶に残った言葉である。当時は何とも思わなかったが、今の時代の感覚と、私自身の性格との親密度においても、素晴らしい、と言える。当時の民家は木と紙で出来た寄せ木細工みたいなもので、火事が起こってすぐに逃げ出し、新しい家に住むという安易さがあったし、野次馬も家人の噂話をしながら、芝居でも見るような気分で見物していたのであろう。喧嘩だって近頃はまったく街中では見なくなったが、当時は見物人や仲裁役がいて、理由を身の上を聞きながら、教え諭したりしながら経緯を鑑賞していたにちがいない。
(花魁歩き)というのもあって、芸を持つ娼婦が相手の男の家に通うのに、付き人を何人も付け、髪に何本ものかんざしをつけ、御姫様の着るような豪華な裾弾き姿で、天下の道を道中していったという。高下駄で地面に半円を描きながら、撫でるような歩き方で行ったという、今では信じられない光景があった。現代においては、風俗で働く女は個室でこっそりと身を売るのに、当時は天下の王道を堂々と見せびらかして歩いたという・・。男女の心中事件でさえ、悲惨さよりも美化されて、芝居になり、客を沸かせたのである。
それに引き換え、文明開化という名のもとに、近代化され、世界の国々と交わり、戦争にまで走ってしまった時代は、夏目漱石の陰鬱な表情の写真に見られるような、まさに悲惨であった。
封建主義から民主主義へ移行し、良かった、と為政者は教えるが、そんなものではなかった。江戸時代がもっと続いた方が良かったのである。これからは、外国人労働者の受け入れを始め、高齢化も含め、様々な変化が予想されるが、人間は皆、同じであり生活も変わらないのだから、火事と喧嘩は江戸の花、というくらいの心意気で生きていければ、と思う。
あるキリスト教宗派の信者たちは、人間は不完全ですから、といつも言い、完全である神、を持ち出してくる。自分はそれはそうだと思いながら聞いていたが、昨日、友人との会話の中で、待てよ、と考え直した。
信者たちはジグソー・パズルを例に出し、聖書は四十人の使徒たちによって、さまざまな職業の人が関わって書かれているが、読み上げるとジグソーの作る絵のようにまとまるともいう。それはそうであろう。なぜなら、人の手によって何度も編集された作品であるからだ。
四十人の使徒の一人も、聖書の項目の一つも、それだけでは不完全であるが、まとめ上げれば完全な作品になる。つまり、不完全が完全を創り上げ、不完全は不完全同士が補完し合って、共生し合っているのである。
生命の構造や人の種類、社会、政治などすべては不完全の融合によって出来上がっている。
それは製造された製品の場合もそうである。車のタイヤはそれだけの性能を持っているが、車に取り付けられて初めて役割を持ち、同時に、車もタイヤが取り付けられることによって車になる。それだけでは自立できず、独立しえないのである。
構造と言う考えからとらえてみれば、男と女、性的少数者、障害者などに区分しなくても、人間そのものが不完全なのであり、それが集まって社会や世界を作っているといえる。一人で生きる人や生命体は存在しえない。
区別はあっても、差別は無意味であり、構成要素という意味においてすべてもものは対等なのである。足の不自由な人がいたら、手を自然に差し伸べてあげる。これが構造への補完であり、すべての世界はそのようにして構成され、動いている。動いていると言う事は完全であると言う事だ。
そのように考えれば、ほとんどの人や世界の存在と動きが納得できる。自分自身や他人に完全を求めるから、人間関係のトラブルは発生するのである。
先日、近所に住む友人と立ち話をした。彼とは五年近くの付き合いであるが、互いに変人で、自然を愛し、無職の老男であることが共通している。彼は私の政治や、社会、自然に対する考えをかなり取り入れていて、自分が答えようとすることを先回りして、言うようになっている。
高校生が煙草を吸っていたので、注意したら、相手の二人が自分を睨みつけてきて、殴り合いになりそうになった。けっきょく、相手は謝ってきて、その場は収まったが、俺は悪かったかな?と私の意見を求めて来た。彼は日頃はおとなしいが、ちょっとしたことで、カっとなるタイプである。
わたしは気を落ちつけながら、出来るだけ遠回しに話し始めた。以前であれば、煙草くらい吸ってももいいやないか!煙草でも女でもバクチでも一通り、経験しろ。と俺なら、彼らに言う、と答えたであろうが、今は控えめになっている。
そこで考えたのは、今の時代の風潮である。暴力はいけない、煙草はいけない、セクハラはいけない、など禁止事項だらけでエネルギーの発散の機会がすごく失われていっている。裏があるから表があるのであって、裏側を消したら表側もなくなる。
禁止事項が増えすぎると、青年の反抗期さえ、否定される。青年が大人になれない、と言う事になる。老人や大人も含めて発達障碍者が増えているのはその証拠である。反抗期は大事なもので、それを通過しなければ大人にはなれない。わたしは今でも反抗期の盛りであるが、若い頃は刑務所にさえ入らなかったが、精神的な面ではすごく危険な状態であった。それだけ悩み、失敗を繰り返した。そこで、自分の心の内を観察し、本を読んだ。得たものは、反抗期を経験しなかった者以上に多い。
反抗期とは、青年が社会に出る前にぶつかる壁である。学校教育や家庭で教えられることと現実の食い違いに気づき始める時期なのである。大人や社会は、あらゆる面できれいごとを言い、嘘を付いている、詐欺士だ、と直感的に見抜き、そこで、理想を求めるのである。
壁にぶつかりながら、この壁の厚さには勝てない、と諦め、妥協しながら生きていくしかない、それを悟る時期なのである。
昨日の朝、八時ころ、宗像市の三軒の産直店をバイクで回って来た。各店にギンナンを出しているので、売れ具合や品ぞろえの様子を見るためである。各店に十袋ずつ、一袋、100円で出していて、毎日メールで売れ行き情報が入って来る。、そんな値段なのにバクチでもしてるようなスリルを覚えてしまう。何ともわびしい、予想もしなかった老後である。コイン精米機に行って、ヌカを取り、それを500gに振り分け、一袋、50円で出したりしている。まるで、空き缶集めをしていたホームレスみたいだな、と友人に言われたが、そのとおりである。近頃は、ホームレスさえも見なくなったが、生活保護を受けて収容所みたいな宿舎で生活をしているのであろうが、その生活が自分にも迫ってきている。
産直店はどこも新年を迎える準備で忙しく、顔見知りの店員が走り回っていた。軒下には正月用のお飾りが所せましと並び、新年を待っていた。時代が変われど、日本人にとっては正月が最大の催事である。が、自分にとっては、この日記のタイトルにあるような心境である。が、やはり、どこかで期待する気持ちはある。文学賞をもらえるかもしれない、新しい女が出来るかもしれない、大損をしてる株で一発、当てるかもしれない。予想もしない、吉日が来るかもしれない。
今日は、竹の子山に行って、枯れ竹を燃やし、正月のお飾りでも探してこようか?いや、墓参りも庭の草刈りもしなければならない。
目が覚めていた。昨日はどこかの町を、契約取りで、忙しく回ったようだ。今日もバイクで、出て、回らねばならない。ヘルメットが見当たらないしもう一つ大事なものがない。顧客リストはどこに置いていたのか?携帯端末は?自分はどんな仕事であったかな?契約取りの仕事であったはずだが、回る地域がどこだったか?わからない。ヘルメットなしで回ろうか?作業用のヘルメットが倉庫にあったはずだな?それで間に合う、探してみようか?
同僚が打ち合わせのために、そばにいるようだ。彼の受け持ち地域に入ってしまいそうだが、だいじょうぶかな?
自分は、布団の中で目覚めていた。
そうだ、俺にはもう仕事がないのだ。
それがわかった。
二十三年間働いた仕事を辞める時、こんなことを考えていた。老いて認知症にでもなったら、懐かしい地域を訪れ、アパートやマンションの戸を叩いて回るのではないか?
ところが、心筋梗塞を起こし、入院して大手術をした。
退職・退院後、六年が経ち、物忘れが出てきた。認知症にまではいっていない。
予想通り、生活が苦しくなった。
それが不安になった。
町の、いろんな会の仲間たちと親しくなり、けっこう楽しくやっているが、働いていた頃の仕事の夢をよく見る。まったくく知らない町に行って、不安に襲われ、ノルマの達成できるかの不安も加わって、落ち着かない精神状態であった。
でももう、そんな不安に襲われることはない。
今日は今年、最後のカラオケ練習会に行く。身体障碍者の仲間たちが待っている。
昨日の日曜日は、いつものように教会に行った。信者と神について話をし、講演を聞き、賛美歌を歌った。帰ろうとして、少し離れた席の老男に気が向いた。新参の者で、二週間前から顔を見せていたが口をきいたことはなかった。頭が禿げ、歯が抜け、度の強いメガネをかけ、風采の上がらない男で、自分の分身みたいであった。
どうですか?と声を掛けると、彼も待っていたように寄って来た。
話を交えた。神の愛がわからない、脳溢血を起こして手術をしたが、毎日、リハビリで三時間、歩いている、飯を食い、糞をするだけで、話し相手もおらず、死んでしまいたい、と私に似たような生活、気持ちが伝わってきた。心臓バイパス手術の出来事をわたしは話し、障害者の会や年金の会、カラオケ教室に通っていることを話し、関心を持たせようとしたが、彼は彼のことにしか関心がないようであった。三日間も歩かなければ、歩き方がわからなくなってしまう、と言うのだ。腰に力を入れ、腿に力を入れ、脚に力を入れ、足先を出す、その順番を考えながら、筋肉に指示を出し、歩き始める、と言うのである。
わたしは、驚いてしまった。わたしでさえ、そんなことを足に指示しながら歩いいたことは無いし、そんな人がいるなんて知りもしなかった。ベケットの(名づけえぬ者)という小説を思い出した。そこでは、階段を上る男が、一段目に足を乗せる時、これが一段目なのか、もしかすると、0段目なのかと思い迷う場面が長々と書き出されて始まる。奇妙でユーモラスとも言えるのであるが、作者は真面目に書き続けている。ノーベル賞をもらっただけのすごい作品であった。
教会で会ったとその男は、仕事で、車の運転席に座ろうとして、突然、脳出血を起こして、体が動かなくなったという。彼を助け、救急車を呼んだ同僚に、何で俺を助けたんか!ほおっておけば、俺は死んでこんな人生を送らんですんだのに!と言ったという。家にこもり、後はリハビリの散歩をするだけで、車や電車に乗って出かけることも出来なくなった、という。
何とも辛い話であるが、わたしは違う世界を知って、心が湧いた。彼は安楽死を肯定することも言い、切腹の時首を撥ねる役人は悪者ではないと、自分と同じ考えを言った。
ある三十歳の女と知り合ったが、異性としてではない。
僕の書いた小説を読んで、涙が出た、脚本を読んでるように面白い、と言ってくれ、その言葉に心が動かされたのだ。これまでは、三回読んでも何を書いてるのかわからない、小説の書き方という本でも読んで一から出直した方がいいんじゃない、などの酷評ばかりで自信を失っていたのに、その好評だから、心を動かされずにはいられない。その上、彼女は欧米人風の美人でもある。
どんなきっかけで知り合ったか?
それは彼女のプライバシーがあるので書けない。
ラインでやり取りしているが、彼女の顔写真には女友達の顔と二つ並んでいる。これも不思議である。どんな関係なのだろうか?
彼女とは彼女の仕事上で、二年間、毎週、顔を合わせた。食事をしたい、と誘ったこともあるが、曖昧な笑いで避けられた。同時に、わたしは彼女と顔を合わせたくないという矛盾した感情がある。七十一歳の私から見れば、娘に等しい幼さだが、時々、女として、想い、考えてしまう。そんな自分が嫌なのでもある。
単為生殖、というのがある。ゾウガメに見られるように、無精卵が子供を作り、産むのである。さらに、ゾウガメは温度の変化によってメスにもオスにもなるという。女性がオナニーで、想像する相手によって、相手との子供が出来る、ことだって空想小説で考えられる。想像妊娠と言うのが現実にあるのだから、空想に過ぎないとは言えない。
現代の、性の境界を失いかけた時代において、単為生殖の事実は貴重なものである。
独り者の男や女に自分の子供が産まれるなんて、素晴らしいことではないか。
本当の(性の開放)の時代、その幕開けではないだろうか?天動説から地動説に変わったように。
変わり者の自分が異端者ではないことに、なるかもしれない。
自分にとって物理化学は不得意な学科であったが、高校時代から哲学や人生論には興味があった。哲学書を読み漁り、苦手であった物理化学を哲学的に置き換え、哲学に敷衍出来ないものかと考えてきた。
今では、量子力学の(重ね合わせ理論)にどうやら、展望があるように思える。シュレディンガーの猫、と呼ばれる理論ー毒ガスを入れた箱の中に猫を入れ、猫は死んでいるか?生きているか?と問うて、(生きてもいるし、死んでもいる)という答え。生と死という人間世界では対立してる概念が実は重なり合っているということを知った。
従来、自分も他者も否定するものへの視点も変わってきた。死、貧乏、孤独、醜、汚い、病気など否定されているものへの再評価が生まれてきた。すると、この世のすべてを受け入れられることになる。
(重ね合わせ理論)は人間社会や世の中を大きく、変えつつある。典型的なのが、社会の性的少数者の認知である。これまで、差別、排除されていた人々に光が当てられ、彼らの結婚まで認められるようになった。バイセクシャルと呼ばれる人たちは異性愛者でもあるし、同性愛者でもある。フタナリと呼ばれる人たちで一つの体に男と女の性器を持っている。男女、女男と呼ばれる人たちもいる。体と心が従来の性の分類には当てはまらないのである。
量子コンピューターは、従来の、0と1の組み合わせから、0でもあり、1でもある、と言う領域を見出し、活用し始めている。デジタル言語に組み合わせの数を飛躍的に増大させ、処理速度もすごく速くなるという。
従来の二項対立ではなく、二項同居なのである。対立概念では世の中や社会、人間はとらえきれなくなっている。これは政治や科学や宗教などすべての分野において適用される。退けていたものを受け入れられるようになれば人生も社会も政治も大きく変わる。
多様性の認知なのである。
現在、あるキリスト教宗派に研究生として、毎週、通っている。
そこでは全知全能の神を崇拝し、悪いことはすべてサタンを呼んで排除する。ある時、次のように神父に言った。神にとってはサタンが必要なのですよ、自分が正しいと主張するには、悪魔を作らなければならない。アメリカにとって彼らが正しいと主張するには北朝鮮と言う、非人権的な独裁国家が必要なように。実はサタンも神も重なり合っているのです。
神父は返事をせず、神は人類を愛しておられます、自分を信頼せず、神に頼りましょう、と言うばかりである。
実は、善や悪には峻別できないのである。すべては二項同居なのである。いや、多項同居であり、それが多様性なのである。従来は混沌という言葉で呼ばれていたが、多項同居、という言葉が生まれるに違いない。
昨日は庭で焚火をして、たまっていた枯れ木を燃やした。冬は焚火が楽しく、燃える火を見ていると心まで温かくなる。エアコンの暖気とはちがい、火には自然の魂がある。
独りで火を見ていると、今年も終わったな、と言う気持ちになった。来年は元号が変わり、(平成)がなくなるのである。その言葉と異なって、時代の終わりには北朝鮮のミサイル脅迫があり、何と多難に満ちた時代であったろう。自分の場合にも、心筋梗塞、バイパス手術、退職と波乱に満ちた老後、余生の訪れであった。
ある小説を書き上げ、投稿している。入賞するかどうか気になるが、自分の人生のあの頃を、書き上げた感慨がある。その時に経験したある男との確執三十五年後の今でも、まだ、続いている。昨夜は夢の中に彼が現れ、わたしは、彼を蹴り上げた。眠ったまま、頭をガラス戸にぶつけ、目覚めた。やばかった。頭をガラスで切っていたら、出血して死んでいたかもしれない。血液さらさらの薬を飲んでいるので、出血は止まりにくくなっている。
憎悪は死ぬまで続くであろう。相手も私を憎んでいる。その作品の中で、事の経緯は、原稿用紙六百枚ほどで書き上げているが自分の心の中からは消えないであろう。憎悪が悪いとは、考えない。生きるエネルギーなのである。
庭先の焚火でしまゆ平成や