ブログ - 日記カテゴリのエントリ
今回のテーマは非常に面白いらしく、クリック数も日頃の10倍くらいになっている。定期的なチェックの数かもしれないが、書く意欲が湧いてくる。
先ず、(男になりたかった男)について書いていこう。二年前、英会話教室に通っていて、初老女が私の顔を見て、ゲイみたい、と大声で言った。よくチャチャを入れる女であったが、そうか、よく見ているな・・、と思った。高校時代まで女みたいなタイプで、臆病で神経質でもあり、逞しい男に憧れていたのは事実である。大学時代に300円でさせてくれる女を紹介され、五年間ほど通って、男にしてもらった。行為の時に、入れたり出したりするのよ、と指導を受けた。大学の沖縄空手道剛柔会に三か月間ほど通い、一撃必殺の精神と技を鍛えてもらい、リンチをうけ、それまでの自分は完全に殺されたのでもあった。
そこで、自分は男になったつもりであったが、70歳になってまで、女の余韻が残っているのであろう。余命も控えているので、ゲイであっても構いはしないし、個性の一つだと思う。
(女になりたい女)
例の女先生のことであるが、プライバシーがあるのであまり詳しくは書けないが、仕事のために女を捨てました、と言った。なるほどな、と考えたが、キャリアウオマンのほとんだが男みたいだとはいえないし、中には女の色気をたっぷり持ってる人だっている。女先生の場合は本来の資質なのであるがそれを隠しているように考えられる。
彼女はすごくネネルギッシュで明るく、さばさばして積極的である。一か月前にある病気がわかり、このままだと死んでしまう、と言われながらも落ち込むことはなかった。
ついにこの言葉にたどり着いた、感がする。
わたしの顔は、若い頃、助平ったらしい、むっつりスケベ、と言われていたが、私を好きになった女からは(色っぽい)といわれることに気づいた。垂れ目、流し目で相手を見るとそんな印象になることが自分で分かった。昨日、床屋に行ったとき、少し離れて自分の顔をみると、下瞼が腫れて赤く、上瞼もそうで、すごく怖い顔であったが、散髪椅子に座って見ると、普通の爺さんの顔であった。理容師の女に、人の顔は光線の具合で変わりますね?というと、そうですよ、とうなづいた。
つまり、色気とは何なのか?を考えてみたいのである。
こんなヨーロッパ映画が記憶に残っている。ナチス政権のもとにおける男・親衛隊員、そして、その政権に抑圧された女を、鞭で叩き、ガーター・ストッキングの衣装で性的快楽を追求したものであった。かなり怖く、スリリングであったが、色気とは抑圧されたエネルギーがにじみ出る有様、表情であると言うことであることと理解する。今の開放的な時代においては消滅しており、復権するのは抑圧と暴力が、良い悪いの問題ではない。
いは別にして要求されるということである。
辞典で調べれば、性的に惹きつける力、と書いてあるが、少し違うような気がする。表面にはチラリとしか出ない(陰の力)ではないかと思う。エロビデオを観ていて勉強になるのは、わざと作為的に興奮した顔を浮かべればそれはまったく効果がないどころか、減滅である。逆に興奮を抑えて見せないようにした場合の方が効果的である。そこに色気があるし、それは時代や国によっても異なる。
例の女先生は男勝りで、(女になる)ことをいつも夢見、表情やいろんな仕草で訴えようとするが、そばにいても、パサパサ感しかない。わたしは彼女から練習中に叩かれたり、抓られたりしたことは熱意だと受け止めていたが、年上の爺さんにそんなことをする女に色気などが出るはずもない。
色気とは内面からにじみ出る潤い、艶のようなものでこれも人工的に作れるものではないが、歌舞伎の女形は見事に作り出しているし、あれは性的に惹きつける力とは異なるものである。演技で色気を出すことも、歌に心をいれることと同じく、むずかしいものである。
カラオケ女先生とは、メールのやりとりで、「先生は自分の歌い方に対して、どう思われますか?しなをつくったり、笑顔をだすことばかりに気を取られて、心が消えてますよ」と書いたところ、怒り始めて、あなたは屁理屈屋でどこに行っても同調できない人、自己陶酔が強くオナニーに満足している、と関係ないことまで持ち出した。わたしは教える事には自信があります、とも書いてきた。女を怒らすことは面白く、すぐに個人的な攻撃をしてくることも知っていたが、深く考えてみるとそこで発見したことがあった。
それは人は練習して、歌が上手くなっても、気持ちを入れることは出来ない、ということである。それが出来るのは歌手のようなほんの一部の人なのであり、気持ちを入れるというマニュアルはなく、先天的、突然変異的なもので、指導は出来ないということであった。(ここで喜んでごらん、笑ってごらん、泣いてごらん)と言われて本気でそれが出来る人はいないし、まねごと程度なのである。でも、俳優や歌手、芸能人はそれが出来るのであり、訓練してそこに達するわけではない。
感情というものはかなり複雑なもので、喜びの中に怒りや悲しみが混じってたり、怒りの中に喜びと悲しみが混じっていたり、色合い、と同じく少しの加減で正反対に移行するものである。そこをプロは微妙なニュアンスで色合いをつけていくことが出来るのである。
カラオケ発表会では、先生も含めて数人には心が入っているが、その他は発声練習の成果を出して、下腹部に力を入れてはっきり歌っているが、同じ歌い方で、個性は消えている。いわば、造花づくりに精を出して来たのであった。生きた花を育てていきたい。歌うのではなく、囁きかける、話しかける歌い方であり、それはちあきなおみの(赤とんぼ)に現れている。
今回の良い体験で、良い小説が書けそうな気がする。
このブログを打っている今、闇の降りた庭からコオロギの鳴き音が、鈴を転がすような声で鳴いている。少し、涼しくなり、もう秋の気配が伝わって来る。今日は庭に三十センチも伸びた草を草刈り機で刈り、ヌカをまいた畝の上にかぶせてきた。草は腐れ、ヌカの力で発酵し、地を柔らかくして養分を出してくれることを期待している。
七百坪の土地の草刈りであるから、疲れて、嫌になってくる。でも、自然について考える機会でもある。三畝も植えていたトマトの実は全部腐り、カボチャを植えておくべきだったと後悔している。草の中にしし唐が実をつけていたので、ハムと混ぜてフライパンで炒め、卵を入れて混ぜ、ケッチャップをかけて、夕食に、食べた。しし唐は唐辛子のように激カラではなく、ほどよい辛さである。
この、ほど良い辛さは、しし唐が人間の味覚を知って、つけたに違いない。薬味や香料の種類だけで数十種類もあるのである。そのライバルたちを相手に、俺の味を味わってみろ!とつぶやいているようであった。もともとは野草の一種でしかなかったしし唐は、人間が狩猟生活から農耕生活に変わった頃から、人間に栽培されて生きる道を選んだのであった。雑草の立場であれば人間に嫌がられ、刈られて、肥料にされるところを育ててもらい、人類が生き延びている間は命が保証されているのである。
お見事、というしかない。
役立たずの私からみれば、賢いのである。
でも、人類が絶滅したら、野菜たちはどんな生き方にかわるであろうか?野草に変わりその生き方に戻るに違いない。
キリスト教の教会に通い始めて、三年になるが、生命やこの世の仕組みについての好奇心は強まるばかりである。謎が次々に湧き、二千年も前に書かれた聖句と照らし合わせ、自分一人で納得しているようなものである。科学の発達で高度になっていく数式よりも、言葉の方に力を見出し始めた。アナログとデジタルと言ってしまえばそれまでである。優れた俳句が5・7・5の短い語数で宇宙をも現すことができるのと比較して複雑な方程式はどこまでも狭い世界に落ち込んでいくばかりで疑問をいだいてしまう。
こんなことを考えた。
血の色はなぜ赤いのか?ヘモグロビンのせいだということはネットにも書いてるが、誰が何故、赤い色を指定したのか?と考えてしまうのである。すると勝手な推測が湧いて、赤信号、赤字、赤(かつての日本共産党はそう呼ばれていた)赤点など凶事を現す一方、赤い炎、赤いバラ、真っ赤な太陽、赤子、赤飯など情熱と吉事も現している。人が出血した場合、目立つ色によって気を付けろ!という赤信号ではないか?聖書に書いてあるように神が人に生きよ!と指示していることが思い出される。他方、昆虫や幼虫の血は緑色である。それは周りの緑葉に混じって、敵に発見されないような保護色の役目をもっているのではないか?
人は畑に穴を掘って、野菜の種を入れる。種は地中にいるので鳥に食べられなくて、生きることが出来る。芽が出た時、鳥はそれは食べずに、蝶の幼虫などが餌にするがに芽は匂いを出して寄せ付けないようにする。まれに、食べられる場合があるが。そうして、芽は育っていくが、その前に畑に残っていた草は芽より早く成長し、野菜に太陽の光が当たらないようにして成長のじゃまをし、自分たちを優先させようとする。人は草をむしり取って、野菜の成長を優先させ、自分たちの生存を守る。草はいくら取られても、いや、取られれば取られるほど元気になって成長し、人は、また、草取りをさせられることになる。
草は酸素を出して、人や動物を生きさせ、人や動物は炭酸ガスを出して、草や植物を生かしている。すべてが需要と供給の関係にあって、生態系、自然を営んでいる。誰がその仕組みを仕組んだのか?これは高度な科学でも説明できない。だから、どうしても絶対者を持ち出さなければならなくなってしまう。
そこに、神の出番が待っている。
今年の夏は、すごく短かった。いつもの十分の一くらいの期間にしか感じられない。なぜなのか考えてもわからない。相変わらず、屋敷の草刈り、野菜作り、年金の会のマージャン、障害者の会のカラオケ、カラオケ教室、散歩、小説の執筆、産直店の出荷など定番の生活をし、出会う人も同じだし、この町から出はしなかった。以前は小倉の風俗店に行ったり、海に素潜りに行ったり、バイクでツーリングをしたり、ラブホテルに入ったりしていたが、それらがなくなったのだから、変化に乏しくなったわけである。時間は単調に流れ、流れている感じさえしなかった。
時間の感覚、エネルギーとは活動量に比例するのではないか?
山道を散歩しても、オニヤンマ、クワガタムシ、カブトムシ、カミキリムシなどにも一度も出会わなかった。彼ら、私の友達もどこかへ、消えてしまった。除草剤に殺されたのだ。
昨日は、今日もそうだが、シトシト雨と蒸し暑さの一日であった。座椅子に寝て、扇風機にあたっているのも、ウツになるので傘を差して散歩に出た。薬の飲み過ぎで体が少し、ふらついていたが、修行をしなければいけない、と考えて家を出た。団地を過ぎ、山道に入ると、誰とも出会わず、一人旅になる。細い道は上り下りが激しく、石ころだらけで暗い。時々、猪の喘ぎが耳に入る。坂道を下ったあたりから、一匹の蚋が私の体を刺そうとして付きまとっていた。体の周りをぐるぐる回り始めた。帽子で追い払っても、寄って来る。どこまでも付きまとう気であるようだった。
折り返し点に池に着いて、踏み段に腰を降ろしたが、蚋は私の体の周りを一生懸命、周り、隙を狙っている。帽子で払い落とそうとしたが、近頃、目が悪くなって命中しない。水を飲もうとして、バックの中を探ったが、ペットボトルを忘れてきたことに気づいた。やばい!水分不足で血液が濃くなると、血管が詰まり、脳梗塞をおこしたり、熱中症になる可能性があった。
急いで帰ろうと立ち上がった。元の道を辿りながら、川の橋に水飲み場があったことを思い出して行ったが、竹の樋から、水は出ていなかった。喉が渇いている上に、先ほどの虻はまた、体の周りを飛んでいた。家に帰りつくまでは一時間はかかる。焦った。道の端の木の葉に残った水滴を見つけ、啜ってみたがみずの量ははとんどない。
頭がふらついた。水分不足で倒れるかもしれない。それは死を意味する。急ぎ足で歩いていたが、汗をかくのは良くない、と考えたが、一刻も早く、水を飲まなければならなかった。坂道を上り、下りながら、プレハブの別荘に近づいてることを知ったが、そこは無人であら。そこを通り抜け、戸建ての団地に入る頃、脚に留って刺そうと構えた虻を帽子で叩き落とした。足で踏んづけると体の中は空っぽであった。だいぶ、飢えていたようであった。道の傍に、ミカンの木があった。手を伸ばして萎んだ実をかじると、酸っぱい汁が出て、飲み、
助かった。
情欲とは不思議な現象である。目で見て判断し、感じれば脳に伝えて、興奮を下腹部に伝達する。簡単に述べるとこんな順序に従って装置が作動するのであるが、どんなことに興奮するかは微妙である。性器や乳房を見て、あるいは体臭を感じ取って興奮するのであれば単純な動物的原理であるが、人間の場合は少し異なる。肩から食み出たブラジャーの細い紐、尻に浮き上がったビキニ・パンティのライン、スカートに包まれた臀部の肉感、それに少し前まではスカートの裾から覗く下着(シミチョローシュミーズのレース模様)、スカートの真ん中から顔を出すパンティ・恥部などであり、女の場合だって、浴衣姿の男の臀部に括られた帯であったり、ビキニ・パンツであったり、勃起したペニスであったり、男の場合と変わりはしない。
ただ、フェティシズムやチラリズムになると高度な感性に変わり、芸術家の感性に近づいてくる。故意や見よがしぶりなしぐさであっては効果が薄れる。うっかりと覗いてしまったことは日常の言動の中であっても驚き以上の効果を生み出す。先日、ある会合の時、終わって帰ろうとすると、女が畳の上り口に屈んでいた。後ろに立っていると、尻のベルトから、黒いレース状のパンティの紐が見え、驚いて見入っていたことがあった。パンティをはいている体を想像し、興奮してしまった。
レースのシュミーズをファッションにしたスカートも一時、流行ったが、わたしはまったく興奮しなかった。見てくれ、のポーズであったからだ。やはり、何気なく、ついうっかり見せてしまった時の効果の方が
強いのである。ちょとだけよ、と言わんばかりの露出が良いのである。
小説や絵画においても、醜悪感に転じるような部分は料理の薬味のように少ししか出さない。それは少しでだけで十分な効果を出し、鑑賞者に訴える力を持っているからである。その意味でチラリズムを味あうも者、また、それで誘惑しようとする者は芸術的感性を持っていると言える。
わたしは、厳しい母親に育てられたこともあって、独立心が強かったが、老境において、下級老人になってしまった。人に依存して生きるなんて大恥じであるが,依存しなければ生きていけないかもしれない。そこで、自分を正当化するのであろうが、(人は自分の力だけでは何一つ出来ません)と聖書にあるように、どんな金持ちでも権力者でも自然の恵みがなければ、そして百姓がいなければ生きていくことは出来ない、と考えるようになった。つまり、すべての生命は依存し合い、そして物質でさえも単独では生きていけないのである。
食物連鎖の構造においても、一つの種が欠けると全滅するわけであるが、多くの種を神が造った、と創世記にあるように、雑食性がある限り、そうはならないし、一つの種しか食べない種は早く絶滅するのである。
最初に生命が産まれた頃は動物と植物の区別はなかった。どちらでもある生命が活動していたが、ある時期から区別が生まれ、別々の道を歩むようになった。植物の道を選んだものは動かなくても生きていけるが、動物を選んだものは動かなければ生きて行けなくなった。植物の中でも野菜は人に美味しい味を与えるようになって、栽培されて生きる道を選んだ。依存である。雑草は独立心が強く、人間など頼りにはしないが、土には依存して養分をもらっている。
けっきょくどんな生命も連鎖の構造の中にいる限りは依存しあっており、それが生きる事なのである。良いとか悪いとかは言えないのである。
前のブログで、NHKを反面教師だと書いているが、内部に反抗勢力がいないことが逆に組織を弱くしている。単なる一集金人であったわたしが会議の場において、批判的意見をしゃべっていた時、あいつは気違いだという職員もいたが、NHKのことを考えて言ってくれているとか自分たちが言えないことを代弁してくれている、と言う反応があった。こんな事態になったからにはNHKの労働組合も立ち上がって、変革を訴えるべきなのにそんな気配もない。
日本の政界においても、二大政党が闘っていた時代からみて経済も外交も弱くなっているし、本当の意味での左翼・右翼もないに等しい。
ある知人の男性の癌が再発し、手術を受けることになった。
癌細胞は誰でも持っていて、健康時は、正常細胞とバランスをとっている。が、正常細胞が変異を起こして癌細胞になって増え、バランスを崩したのである。免疫療法とは癌細胞を正常細胞に戻す治療である。これを人間世界に転じて考えると、組織に反対勢力があった場合、彼らの意見が正論であった場合、意見を聞いて改革すれば良いのであるが、主流派はそうはせず、反対勢力を潰し、結局は組織自体がつぶれてしまうことが多い。主流派と反主流派が拮抗してるのが良い状態である。正常細胞が強くて、癌細胞と拮抗していれば癌にはかからないし、癌細胞は正常細胞と拮抗することによって正常細胞を強くしているのである。
今の時代は、本質を見失った者が多すぎる。こんな、老女がいる。イベントで皆が食べた弁当の容器を拾い、きれいに洗って再利用している。これに対して、汚いとか残りのおかずも拾っているのじゃない?とか批判するのである。これだけプラスチックやビニールによる環境汚染が問題になっている時、それは良いことだから自分たちもやろう!という方向には進まず、排除するのである。
おかしな時代であるし、おかしな日本である。