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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

だからどうだって言うの?と尋ねられれば、人間の尊厳なんてありはしない、ということだ。(霊長類)なんていう言葉もおかしい、(霊)が特別な階級だと言いたいのだろが。

2,3日間の毎日新聞はイタリアの哲学者を登場させ、民主主義は宗教にすぎない、という主張をとりあげた。やっとここまできたかと私は思い、次に登場する言葉は上記のタイトルにちがいない。人間の精神が物質の反応だとういうことになれば、危機感をもつのはまず宗教界である。神、仏が宇宙の中心として存在し、(犬、畜生)たちは劣等だといっていたことはどうするのだろうか?

精神安定剤や抗ウツ剤で心が安定したり、元気になったり興奮が抑えられること自体、物質の作用で心が動いていることではないか。もともと地球には生物は存在していなくて水や泥、岩などの物質しかなかった。その中からビールスが現れアメーバが現れ、植物、動物と進化していったにすぎない。もとをただせば物質だったのである。こう考えるとわかりやすい。

ヨーロッパのヒューマニズム、人権主義が人間の尊厳という思い上がりの思想をうみ、資本主義(金儲け主義)と相乗して繁盛していき、今にいたった。東北大震災が起こって、やっと現体制がオカシイことに目覚めた。

(物質に意志があるのか?)と問われれば、風が吹き、雨が降り、太陽が輝く、それらは物質の意志、

自然の意志ではないか。物質の作用ではないか。嵐が起こり、地震が起こるのは自然の怒りである。

だから、どうだというのだ?と問われれば自然の一細胞が人間にすぎない、と答える。そのように捕らえると人間、そして自分の立っている位置がかなりわかってくる。逆に人間の尊厳だとか(人の命は地球より重い)などという考えに振り回されると混乱してしまう。

 

捨てる神あれば助ける神あり

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-23 15:21

私達はメディアや学校教育に事実を信じこまされているわけですが、それらとおして世間に現れ出ていることはほんのわずかなものです。世間から隠されていることや消されている歴史、書き換えられている事実はこの民主主義の時代においてもたくさんあります。64年間生き、仕事上世間を渡っているとそのことがじゅうぶんにわかります。

こんな世界があったのか?これが本当のことだったのか?などは決して公的な機関には出ません。例えば大きな借金をして返せなくなった場合です。弁護士に何十万円かを払い、自己破産の手続き・指導をしてもらう。偽装離婚して、別居するが、週に一度は帰宅し、妻と食事をし、自宅でくつろぐ。何年か経てば借金は消えてしまい、家にもどって昔どおりの生活をする。

こんなことは一つのケースにしか過ぎません。

耳学問、という言葉がありますが、それを通して世の中をみるとタイトルどおり、(捨てる神あれば助ける神あり)なのです。暴力団撲滅運動が盛んですね。この前、金融機関にいって口座を開こうとしたら、身上調査の書類にいろいろ書かされ、若い女の社員にいきなり(あなたは暴力団ですか?)とたずねられびっくりしました。まだ、若いのでマニユアルどおりの言葉を出したことがわかりました。なぜ、

いつまでも暴力団が存在するのでしょうか?

困ったことがあったら、ネットや本で調べることも良いのですが、それで分からない場合は耳学問に長けた人に聞いたほうがいいのです。すると、驚くような(事実)がわかり、(助ける神)に出会うのです。

必要があるから仕事がある

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-23 14:41

訪問先の主人や主婦たちと世間話をすると、いかに生活が苦しくなっているかわかります。ところが反対に顔の整形手術をした美男、美女が増えているのもわかります。生活に余裕のある人が美容整形をしているのでしょうが、昔は(顔の化粧より心の化粧)という言葉がありました。化粧品業界にとってこの言葉はタブーでしょう。

就職口が少なくなっていることは確かです。社会を見回すと世の中にはこんな仕事もあるのかと疑問を感じることがあり、興味と好奇心をそそられますが、基本的には需要があれば仕事になるのです。困っている人、必要としてる者がいれば仕事になるのですから世の中から仕事がなくなることはありません。ベンチャー・ビジネスほこうして生まれるわけですが、その時代が要求しているものそして何に困っているのかを読み取った者がビジネスを産み、創業主になるわけです。

そこでよく考えると人権民主主義のいきづまりを感じ、新たな思想・哲学を必要としていることに気づきました。でもそれは思想本や哲学書ではなく、もっと身近な生活や遊び、フアッションなどから生まれてくるでしょう。

1970年代には(フーテン)呼ばれる人がいました。髪と髭を伸ばし、汚い服装で放浪する人です。そのスタイルがフアッションにまでなり、パンク・ロックや破れたジーパン・スタイルにまでなりました。

今の息苦しい時代がはやく終わり、新しい時代を待ち望むのは私だけでしょうか?

メディアは教祖とアイドルを生産しつづける

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-23 14:02

吉本隆明氏が亡くなり、彼の功績が新聞に二日つづけて報道されました。これから彼の本が売れることでしょう。

私は団塊の世代で学生運動の盛んな頃に青春を送った者ですから、彼の著作を題名にひかれて読みました。(共同幻想論)や(言語にとって美とは何か)など今でも興味をそそられるタイトルですが、どんな文章があるいは何が印象に残っているかと考え直すとまったくないのです。もと学生運動にまい進した人にその話をすると、彼はコピー・ライターなんだよ、とこともなげに答えました。なるほど、と私は納得しました。当時、私はサルトルの(聖ジュネ論)だとかカフカの評論だとかかなり難解な本を読み、すごく感銘を受けたのですが吉本隆明氏をはじめとする日本人の評論にはほとんど感じ取るものがありませんでした。彼は新聞には思想家である、と書かれているのです。外国人がどのように評価してるかの記事はありません。思想家とまでいうのであれば外国でも評価されるべきでしょう。

メディアは教祖を絶えず生産しなければ商売にならないのです。・・賞をもらった時(もらってやる)と作者が言ったとかを書き立て、小説家の顔写真までのせるが、のせる作家の心理が私はわかりません。メディアも作者も同じ穴のムジナなのでしょう。

ともかく私達は(子供手当て)に惑わされたりして、一生、業界の力にふりまわされるのでしょうか?

わからないから子供なのです

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-22 13:13

10年ほど前に集金先のおばあさんからこんな話を聞きました。彼女は30歳も年上の男性と結婚したために、先立たれ、女手ひとつで娘を育てることになったのです。旅館の仲居さんをしながら、住み込みで働いたのですが、4歳の娘が彼女の言うことをなかなか聞かずにグズっていました。

それを同じ仕事仲間の女性に話すと、(言うことをきかないから子供なのよ)といわれたのです。

私にはこの言葉が今も頭の中に残っていて、その言葉は真実を言い当てていると考えます。

親の気持ちがわからないから子供であり、子供の気持ちがわからないから親なのです。

男の立場がわからないから女であり、女の気持ちがわからないから男なのです。

国民の気持ちがわからないから政治家であり、政治家の気持ちがわからないから国民なのです。

相手の気持ちや立場がわかった時、親子、男女、政治家、国民の区別はなくなり、言葉さえちがうものにかわっていくでしょう。

暑さがあるから寒さがあり、寒さがあるから暑さがあるのです。暖かい時期、男と女が融和しあう時期、子供と親が共感しあう、国民と政治家が理解しあう時期はほんの短い期間しかありません。

そんなふうにとらえると意外に理解しあえるのではないかと考えました。

震災ガレキ処理の引き受け

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-22 11:58

新聞、テレビの報道で東北大地震、ガレキ処理の引き受けを拒否する自治体がふえているという。おかしな話と同時におかしな報道のしかたである。あれだけ(東北ガンバレ)(日本ガンバレ)をキャンペーンにしながらこの変転ぶりはなんであろうか?ガレキ処理引き受けに賛成の住民がいるのになぜその報道をしないのだろうか?何故、ガレキ処理引き受けに反対運動をするのだろうか?放射能汚染のないことがはっきりしないのが理由であるが、東北大震災を人間存在の問題としてとらえるなら引き受けるべきではないか。

ここに私は日本人の無責任性を感じる。自分さえ良ければ良い、正論ばかり言うな、難しい話はするな、まあなんとかやっていこうじゃないか、こんな言葉をさんざん聞かされてきた。南京虐殺はなかった、アジアへの侵略ではなく欧米の支配から救おうとしたのだ、などと戦争の責任をまだ取らない者がいて、それはこのガレキ処理の問題とリンクしている。

ガレキ処理を引き受けようじゃありませんか!

東北大震災は明明と電灯をともし、エアコンを使って快適さを味わってきた我々が原因だったのじゃないか!

逆もまた真なり

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-21 13:43

私は飛び込み訪問の仕事をしています。20年ちかく、アパート、マンション、戸建ての家、下宿といきなりドアを叩き、さまざまな人と出会ってきました。貴重な体験をし、お金になって生活も出来たわけですが、近頃はノックしても返事をしない人が増え,悩んでいます。オート・ロックのマンションだとモニター画面で訪問者の顔を見て、無言のままです。まるで(空気を相手に仕事をしている)気持ちになることがあります。外国でこんなケースがあるだろうか?日本人独特のものだろうか?などと考えることがありました。悪質なセールスが多いから警戒しているという住人がいましたが、なぜ返事くらいしないのかと私は不信感をつのらせていました。

次男が高校を出て、進学しました。アパートを借り、不動産屋で諸手続きをし、生活用品をワゴン車で運び、入居しました。

部屋の中で荷物を解きながら、次男に言いました。「公共料金の手続きも終わったから、お前はここで生活ができる」というと「ありがとう」と彼はこたえました。そこで私は一呼吸おいて口を開きました。「ドアのピンポンを鳴らして人がやってくるが、まず、誰ですか?と声をかけろ。不動産屋さんの場合だってあるからな」「うん」「だけどな知らない人であったら返事をするな。うまいことを言って金を取ろうとするのが多いんだ。お父さんの仕事は公共料金だから、もう手続きはおわっている」私は言って少し考え込みました。

そこでピンポンの音が大きく鳴りました。こんなに響くのかとびっくりして「はい!」と叫んでドアに行きました。ドアを開けると老婆が立っていて、家主だと名乗り、わたしは「息子をよろしくお願いします」といいました。自分が逆の立場に立ったことがわかりました。

静止的思考と運動的思考

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-18 12:04

高校時代に私がたどり着いた結論は(人生や社会は多面的に流動する)という言葉でした。現在、45年後にこの言葉を思い出し、考えなおしてみました。45年間、それだけの人生経験、社会経験、人間関係をへたわけですが、結論は(静止的思考と運動的思考)になりタイトルの言葉とほぼ変わりません。

座った状態で考える、立った状態で考える、歩きながら考える、走りながら考える、と人間にはさまざまな状態があります。その状態をふりかえってみますとそれぞれの状態の中で同じことを考えていてもかなり違うということです。私は毎日バイクで走る仕事をしていますのでそのことがよくわかります。これは狩猟民族と農耕民族、商業民族の考え方のちがいにも出てきます。現代は商業民族が増えてますから、座った状態で考えることが多く、静止的思考になりウツ病が増えるのです。走りながら考えた場合は運動的思考になり、悩み事でも悪い予想が良い予想に変わります。例えば経済的にいきづまって飯を食えない予想をしている場合ですが、走りながら考えると生活保護をもらえる可能性も浮かんでくるし、死ねば悩みもなくなるなんて思いついたり、失うものがないから取られる心配をしなくても良いと楽観することも出来ます。大金を拾うこと、宝くじが当たることだって考える。必ずしも未来は貧窮のまま直線的に進むわけではないのです。

私は株式投資の経験があり、バクチ的なやりかたをしました。株価や為替の動きをみてると、運動をしていてUFOのようにとらえどころがありません。静止的思考はどうしても直線的になりがちです。今の状態がそのまま続くと考えてしまいます。が、すべての状態を物質の運動論におきかえてみれば予想の精度が高くなり、すっきりしてそのぶん動物のような晴れ晴れとした表情になれます。

悩み事が出来たら外にでてウオーキングをしてみましょう。体で考えてみると、意外に良い結論が出ます。

私を支えているのは抵抗力である。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-11 23:00

(抵抗力)をヤフーで検索すると(外からかかる力に逆らったり耐えたりする力)と書いてありました。今日もバイクで仕事に走りながら、家を出る前はまったくのウツ状態だったのがエンジン音とともにじょじょにパワー・アップしていくのを感じ、(年老いていく自分を支えているものはなんだろうか?)なんて考えました。

すると、(抵抗力)という言葉が現れてきたのです。仕事のノルマによる圧力、業績を維持しないとクビになるという恐怖、客への姿勢など働く者は常に圧力がかかっている。圧力が強ければ強いほど反作用が起こりそれに耐えようとする。そのエネルギーが生きる力になり、年老いていく自分を支えている。圧力をかけるものは腹立たしくなるが逆に感謝してもいいのではないか、なんて考えたのです。

あまりに強すぎる圧力にはつぶされてしまうが,適度な圧力は健康法のもなるのではないか。金と暇をもてあましていると生きる力も失われていくであろう。

逆境に励まされるかあるいはつぶされるか?少し観点を変えればつぶされるのではなく励まされることになることになるるのではないか、そんなことを3・11の日に考えたしだいです。

崩壊は再生・繁栄の種である

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2012-3-10 1:21

このタイトルは(楽は苦の種、苦は楽の種)という母親の家訓みたいなものからヒントを得たものです。楽しいときには苦労が控えているし、苦しいときには楽しみのが控えていて、いつも楽しさ一色苦しさ一色という状況はありえないということです。(冬きたりなば春遠からじ)という言葉があるとおり、近頃気温が10度ちかくにあがり、やっと春らしくなって気分も高揚しはじめました。

わたしも含めて人間はその場の状況とは異なる見方が出来ないから、絶望状況であればその一色にそまってしまい、裏に潜んでいる世界が見えない。

何年か前、畑に出来たカボチャの収穫を忘れて放置していました。秋になるとカボチャは腐れ、中に残っていた種がこぼれ出、地面に広がり始めました。次の年の春には芽を出すのです。ここでカボチャが腐れなかったらどうなるでしょうか?種は内部に残ったまま母体とともに腐れてしまうのです。母体が腐れたから外に出、再生することが出来たのです。

崩壊に絶望することなく、次の再生・繁栄を待ちましょう。

それは日本・世界のことであり、自分自身、あなた自身のことでもあるのです。長い冬が終わり、燃え上がる季節の訪れを喜びで迎えようではありませんか。

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