ブログ - 日記カテゴリのエントリ
親しい人と雑談をしていて、(私は人を信じない)という言葉が出て、言及しないでいるとその場から消えていきました。話はちがうジャンルにはいっていましたが、私は(するとこの人は私も信じていないのでは?)と疑念を残したまま、帰宅しました。
次の機会に出会ってまた話をはじめていましたが、(人を信じない)という言葉が気にかかった、と言うとその人は笑顔のまま、それは誤解されたかもしれませんがこういうことですよ、と説明をはじめた。
(信じられる立場のほうが辛いと考えるんですよ。期待され、束縛されるでしょう?辛くありませんか?)
(そうですね。なるほど)
(信じません、というと人を傷つけることになりますが、わたしは人を束縛したくないのです)
わたしはうなずき、そのようにとらえる人もいるんだ、と判断しました。
(そんなことはなかなか人には出せない言葉だけど、あなたに言ったということはあなたが気を許せる相手だと思ったからだよ)
もう一人の知人はわたしに言いました。
なるほど、と思いました。誰しも人を信じて裏切られた経験があるでしょうが、自分の心がきままなのだから人の心もそうだと考えたほうがいいでしょう。でも、信じれる人が欲しいですね。
真理は一つである、ことはご存知ですね。わたしもそう思っていたし、そうでなければならないと考えるのですが、飛び込み訪問の仕事をし、労働組合の活動をし、妻子をもってみると近頃は(人が100人いれば100の真理がある)と考えるようになりました。そのように考えていれば意外な人や意外な言動におどろくことがありません。ある時(あなたはよく正論を言うが人は正論では動かないのです)といわれ、なるほど、と目から鱗が落ちました。
(十人十色)という言葉はこのタイトルの内容を言いえています。それを肝に銘じておけば少々のことにまどわされたり、ふりまわされたりすることはありません。良くないのは(人はこうでなければならない)とか(自分はこうでなければならない)という考えに基づいて混乱させられることです。
何がおこっても不思議ではないし、どんな人間がいても不思議ではありません。
これが私の人生の結論です。
2011年12月1日。六本松の会社に行き、帰りは組合の忘年会に参加した。ビール大ジョッキ4杯、焼酎のお湯割り1杯で良い気分になった。仲間たちとのざっくばらんな話しに花をさかせた。
帰宅のJRに乗って、つり革につかまっていると、目の前で二人の若い女が喋りあっていた。職場の話を淡々としていたので耳を半ばかたむけていると、経理の話にはいったころ、(方程式に罪はないわ)という言葉が発せられ、わたしはおどろいてその言葉を意識の中にとりこみまちがいないかどうか確認した。
(方程式に罪はない)
という言葉にまちがいはなかったが、なぜわたしがその言葉に注目したかというと、(人間は物質であり、その意志・行動は化学反応である)と結論づけていたからであった。64年間生きてきて、自分もふくめまわりの人々の言動の基本ラインはまったく変わっていないことを知っている。(人の命は地球より重い)とか(二人のために世界はあるの)など人間中心主義的に基づいた教育がいかに人間観や社会観をゆがめてしまったかよくわかる。
人間や社会の動きは化学反応であり、特権的、特殊なものではない。(すべてはなるべくしてなる)化学方程式と考えればそれに(罪)などあるはずもない。
畑作りをしながら雑草や害虫(これは人間中心主義の言葉でかれらの目からみれば人間こそ害虫でしょう)を捕り、サトイモを掘り出して人に分けたり、自分で食べたりする生活は充実感があります。農業経営者ではないのですが、だからこそ自然と触れ合って動植物も私達人間と同じだななどと考え、自分の体力を自然エネルギと交え闘いながら、元気をもらっているとおもいます。耕運機もトラクターもなく、スコップやクワ、カマを使って作業をしています。
農業という観点からみると経営においても自然環境においてもたいへんむずかしい時代になっています。人間は自然の一部であり、自然があれば生きていけるという考えから見れば、小さなポットに飢えられたワケギの成長にだって私達は自分の心を重ね合わせ、共感することが出来ます。
農業を経営、経済の目からみるだけではなく、(自然界)とみることも大事ではないでしょうか。
このホームページの目的はそこにもあります。人生の総括でもあるのです。わたしは64歳になって自分がかなり見えるようになり、人から指摘されて美的感覚があるといわれ、うれしくもありました。もっとはやくその方面で仕事をしていれば楽しかったのにと考えますが、まだ遅くはありません。
実は昨日、キャノンのEOS-(1800万画素)を買い、試し撮りをしたところ性能の素晴らしさにおどろきました。いままで撮った写真は評判がいいのですが、このカメラでとっていればもっといい作品になったのにとも考えますが、コンパクトカメラはそれなりの小回りがきいて効果を発揮してくれたのは確かです。
EOSは一眼レフですから手動撮影もでき、自由度も十分あるので、写真にじゅうぶん挑戦ができます。私の狙う作風は(気配)の漂う写真、(哲学的な)写真です。毎日が楽しみです。どんな天気の日であろうが、作品になるのです。どんな人間、光景、出来事であろうあが作品になるのです。
どんな人間もこんなわたしであっても作品にも文学にもなりえるのです。
残された時間を10年と予想しても、じゅうぶんにあります。
このタイトルが奇抜だと思いますか?
試験といってもOX式を例に出します。ここまで書くとわかりますか?0点をとろうと意図するならば、正解だと考えた時にXにすればよい。するとO点になる。100点をとろうと意図するならば正解だと考えたときにOにすればよい。すると100点になる。つまり100点をとれる者はO点をとれるのであり、O点をとれる者は100点をとれるということなのである。
両極端の一致、あるいは反転対称形ともいえる。(キチガイと天才は紙一重)という言葉があるように、この世の常識や価値観などというものは容易にひっくりかえる危うさを持っている。戦場で敵を殺すのにたけた者が帰国すると殺人者であり(時代が変われば)、平和を唱える者は(非国民)であったが時代がかわれば英雄扱いになる。このようにして私達はいつも時代の風潮に流されていくのであろうか?
そこで(真理)が求められるわけだが、(真理)とは(公理)であり、あらゆる人間、あらゆる場合に適合しなければならないものである。
それを(レア)は求めていきたいのです。
30年間も畑作りをしていると自然から学ぶことが多い。野菜作りはいつまでも我流で、素人の域を出ませんが、新しい発見はたくさんあります。
雑草の王者はいくつかありますが、今回はドクダミとヤブガラシを登場させます。どちらもNO1,NO2を争う覇者ですが、その繁殖の仕方は次元の異なるやり方であります。ヤブガラシの根の強さは相当なもので畑で成長した場合、片手で引っ張っても引き抜けません。ドクダミの根は弱くすぐに切れます。ヤブガラシがほぼ一直線上に伸びるのにたいして、ドクダミは格子状に伸びていきます。人間世界の観点にしたがうとヤブガラシは強くくてドクダミは弱い、ということになるでしょうが、自然界においては逆なのです。ヤブガラシは強く引くと切れるのでせいぜい二倍の繁殖力ですよね。ドクダミはいくつにも切れ、格子状に根を張って増えていくのでその数倍に増えていきます。(貧乏人の子だくさん)です。雑草の茂った畑をみるとわかるようにドクダミの数とヤブガラシの数はほぼ100対1の繁殖力の差があります。根が切れやすいからいくらでも増えていくのです。
人間世界の中で(わたしは弱い人間で困っています)という人がいたら上記に例を考えたらいいと思います。?弱さは強さになるのです。
この言葉はおよそ40年前に流行し、否定的なニュアンスがあった。株式会社は利益を追求し、公益性を考えない身勝手さがあるということだった。左翼がブームになっていた時代である。小泉の構造改革は今では悪評のきわみになっているが、(官と民の格差をなくす)というテーマでは時代のニーズにあっている。
官と民のちがいとはいったいなんであろうか?官は公共性を目指し、民は目先の利益を優先すると判断しているのだろうが、民間会社だって目先の利益より将来の利益・公共性を真剣に考えている。今の時代において、エコをはじめとして公共性を無視する法人というのは暴力団をのぞいて成立しえない。
官と民のちがいなんてありはしない。
地方公共団体は税金を取ることよりも株券を発行しろ、と言いたい。そうすれば本当に住みやすい市や県の株価は上がるであろうし、公務員は特権階級より公僕という意識を持つようになるであろう。この町や市をどのような作品にするか真剣に考え、競争心もわいてくる。
国自体が株式会社になったとする。そうすれば株券さえ買えば、自分の好きな国の住人になれる。そんなことになれば素晴らしいことではないでしょうか?ブータンの国の株価はすごい高値になるのではないでしょうか?
1ケ月ほど前のテレビのニュースのことです。アメリカのある州の生活が報道され、5世帯に一世帯が食事をする金がなく、無料提供する施設に行って食事をすませるということでした。テントを張った土地が写しだされ、そこで寝泊りしながらタクシー運転手の仕事にかよう男性のインタビューもありました。アメリカで格差社会のデモがあったことはニュースで知っていますがここまでひどいとは思いませんでした。これが先端をいく(人権・民主主義教)の覇権国家の実態なのです。
他方、まだ第二次世界大戦の終戦を迎えずに戦い続ける北朝鮮。最期の独裁国家、金王朝の国、いや宗教国家だのと言われ、珍奇さにおいては類をみない北朝鮮は多くの人民が飢えて、餓死者も出ているという。一方の先進国と他方の後進国(!)が国民生活においてシンクロナイズしている。これは(シェルドレイクの仮説)かもしれない。時空を超えて理由もなく同じ形態が発生するという理論であるが。
あるいは鍵と鍵穴のように反転させて合わせるとぴったりはまる(反転対称形)と呼べるであろう。が、どちらにも共通しているのは国体を宗教のように信じ込み、信じ込まされているということである。つねに戦争をしているかそれに近い緊張状態がないと国体が維持できないということである。
(渋柿は時空を超える)の続きになりますが、人里離れた所で育った渋柿はどうなるのか?干し柿をつくってくれる人間がいないではないか?という疑問がわき、それはその通りで、その柿は時空を超えることが出来ず、その場で熟して種を落とすしかないでしょう。
渋柿、フユウ柿、月夜柿、チンガラ柿などいろいろ種類がありますが母から聞いた話を思い出しました。いつもは渋柿なのだが月夜になると甘くなるというのです。不思議ですね、女性の生理が潮の満ち欠けとシンクロナイズするという話は知っていますが、なぜ月夜のときだけ甘くなるのでしょうか?
どなたかご存知の方は教えてください。