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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

愛とは親和力である?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-3 19:33

(愛)とは何か?なんて問われるとむずかしくて答えられない人が多いと思う。私だって答えられない。

そこで(親和力)という物理用語を持ち出してみた。ゲーテの作品にその題名の小説がある。

親和力とは原子、分子に一つの電子をあたえた時に放出または吸収されるエネルギーであり、放出は正、吸収は負と定義する、とヤフーで検索できた。これは男女の愛、あるいは子供への愛、人間同士、あるいは動物、植物への愛につうじるものであろう。そんなふうに解釈すると普遍的なものが感じられるが男女の(愛)はもっと複雑だからそう簡単には分析できないとおもう。

だからそのテーマはいつまでも途切れることがなく、好奇心をそそられるのである。

物理化学的人生論

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-2 23:07

高校時代の科目では(倫理・社会)に興味があったが、(人生論)に踏み込んで習うことはなかった。受験勉強ばかりであったから勉強が面白くなかったのは当然である。教育業界で働く者にとっては受験や進学こそ大事でなければメシがくっていけないのである。生徒達はある意味でメシの種にされている。大学入試など廃止すればいいものをメシの種がなくなると困る者がたくさん出るからそれはとんでもないことなのである。

人生論をもたなくてどうして社会で活動ができるのか不思議でならない。

アメリカに占領された国は独自の思想を持つことは出来ず、(人権、民主主義)をお題目にとなえるしかなかったがそれは効能を失い始めている。

話は飛ぶが(自然科学)とは自然を数学を使って分析し論理づけ、法則を探し出す学問である。では人生をそのように出来ないであろうか?と私は思う。それが出来れば思い違いや誤解や迷い、悩みが少なくなって快適に生きれるのではないかと考える。

わたしはこれに挑戦しようと思う。

人間の幸福とは?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-2 22:37

人間の幸福について64歳になるまで考えてきたが、結論がでたようにおもう。常識概念を持ち出すとややこしくなるので物質を例にとったほうがわかりやすい。酸素が燃焼し、エネルギーをじゅうぶんに発散している時、満足感、幸福感がうまれてくる。先ずは体調である。酸素をじゅうぶんに燃やせる状態であることが条件で、それは暖かい大気に触れているとき、スポーツをしている時、勉学、恋愛、ボランティア、仕事などともかく活動している時である。

そんなことはわかりきったことであろう。

ここで常識というものをいったん外してみよう。すると、人殺しをしている時、レイプをしている時、苛めているときなど常識を持ち出すと反社会的な行為であることも当事者にとっては快感をもよおし幸福なのである。だから犯罪行為はいつまでもなくならなず、これにストレスが加わると触媒の作用がくわわってはげしくなってしまう。

犯罪のない集落というのが実際、存在するのだから犯罪をなくすことはできるかもしれないが(犯罪も快楽をうみ幸福にさせる)という事実を知っていなければ犯罪がなくなることはないであろう。

時間の観念、その不思議さ3

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-31 23:29

(今日、ぼくは10キロメートル歩いた)

(今日、ぼくは1時間歩いた)

上記の二つの言葉は同じことを表現していて、空間と時間は同じものである、ということを言っている。(時間と空間は同じものである)と以前言われてその言葉を理解できなかった私は上記のように表現してみて初めてわかった。

では、時間はどんな形で流れるのであろうか?と考えてみた。

直線的であろうか?

そうであれば一直線に歩くような生活、たとえば旅をするような生活であればそうであろうが、ふつうは日々くりかえしの生活が多いわけだからリング状ではないか?しかし、まったく同じことの繰り返しをしているわけではない。

(螺旋状である)同じことの繰り返しのように見えながら昨日とはちがう部分があるから、ラセン状であると考えるべきであろう。これが正解ではなかろうか?

みなさん、どう思いますか?

時間の観念、その不思議さ2

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-31 0:17

35年前の女は別れて以来一度もあっていない。わたしの心の中ではいつまでも25歳のままである。すこしも歳を取らず、頬の光沢を浮かべてわたしに笑いかけている。近くのオンナが白粉の下からシワを時々覗かせて離れるのとはちがう。

並列している時間なんてありえないし、それは時間ではなく空間かもしれない。時間の遠近、その秩序が乱れてしまえば時間という観念さえなくなってしまうであろう。狂人の仲間入りをすることになるだろうが、そこに真実があったとしたら?

少し怖い話になってしまいましたが、時々わたしは(また、今日が終わって明日が始まる)なんて思うと時間が憎らしくなってしまうことがあるのです。

みなさんはどうですか?

時間の観念、その不思議さ

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-30 22:52

35年前に付き合った女の顔がまざまざとよみがえる、数秒前に会って来たといわんばかりの鮮明さで。振られたがゆえに魅力を復活させているが、今どこに住んでいるのか、生きているかどうかも分からない。二度と会えないという絶望感が渇望をうんでいる。だが、近くにいるオンナは数秒前に会話をしたのに数百年前のような時間差、隔たりがあると言うより、存在さえ消えている。この矛盾は時間の観念に不審をうんでしまう。35年前と数秒前が逆転してるばかりでなく、35年前の女は生々しく生きているのに数秒前の女はユウレイ同様なのである。いったい、時間とは何なのであろうか?確かに時間を導入することにより、文明は発達し、信じられないような機器を生んできた。例えば、カメラ、テレビ、携帯電話なと持ち出せばきりがない。昔の人からみればこれらの機器の中には超能力が入っていると考えるであろう?

だが、もしかするとこれらの機器は人間が昔もっていたテレパシーを機械に切り替えたに過ぎず、テレパシーは自然の力の一つにすぎないのではなかろうか?

 

NHKで(助けを求めない孤独死)というような題で報道されたのは3年位前のことであった。30過ぎの青年であったが,職を失い食べるものがなくなって餓死してしまった。考え直してみると、(助けを求めないのではなく(助けを求めてはいけない社会)というべきではないか?困った時に友人や親兄弟、親戚、社会に助けを求めるのは恥であり、相手に迷惑をかけることなのである。たとえ、死にかけていても。これは極端な考えだと反論されるであろう。確かにその部分はあるが、その傾向があることは否めない。

日本は困ったとき、助けを求めてはいけない国なのであり、苛められたときも助けを求めてはいけない国なのである。これは(恥の文化)と密接に絡み、戦後60年たってもこの伝統は残っている。だから世界一の自殺者を生み、イジメ、セクハラが頻発するのである。

(馬車馬のように働いて得たものは破壊された自然と空虚な心、幸福とはなんだろう?)

このテレビのコマーシャルを憶えているのは団塊の世代である。当時は高度成長期のまっ只中にあり、このコピーは少し浮き上がっていたが、資本主義の終末を予感していて恐ろしい気がする。

東北大震災を契機にして(破壊された自然と空虚な心)から(豊かな自然と満ち足りた心)の時代にかわろうではないか!

嬉しい時や困った時は大きな声で叫び、自己表示をきちんとしようではないですか。

腹が減った、なにか食べさせてください!

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-28 23:33

このタイトルのような状況になった時、皆さんどうしますか?

こんな状況で身内や縁者がいない時どうしますか?交番に行ってお巡りさんに乞えば食費くらいは出してくれるかもしれませんが確信はできません。お寺に行って坊さんに頼みますか?どんな返事をするでしょうか、法事の時のビジネスには熱心な彼らが。キリスト教会に行ってパンの恵みを乞いますか?市役所の福祉課に行って生活保護の申請をしても認可されるまで何週間もかかるでしょう。

(健康で文化的な最低限度の生活を保障する)という人権・民主主義の世の中にあってこんな状況におちいればドロボーをするしかないのでしょうか?ドロボーをすれば逮捕され、警察官は仕事ととして評価されるでしょう。いや、評価されるためには恵んではいけないのではないか。役割分担としての職種が存在し、一方は逮捕する者、他方は逮捕される者なのであろう。

以上のことを想像すると私たちがいかに残酷な時代に生きているのかよくわかる。一昔前がすべて良いとは言わないが、(近代)および(西欧民主主義、人権主義)というものがいかに欺瞞的なのかよくわかる。(人類絶滅、地球崩壊)の根源は西欧の(人間中心主義、人権)にあることをはっきりさせるべき時代ではないか。人権があるというのなら、(動物権、植物権)がなぜないのだろうか?

レア仲間であれば余裕があれば食事くらいはおごってあげたい。不思議なことにそんな行為さえ奇異にとらえられる時代である。

本当の自分

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-28 22:55

現在、執筆中の小説(火炎)を書きながら、筆が止まってしまったことがあります。話が前後しますがこの作品は文学賞に投稿する予定でしたが、その前にこのHPに掲載するつもりです、一週間後くらいになるでしょうが。筆が止まったのは、不倫をしている主人公が愛人と別れて幸せな家庭に戻る、という一般常識に基づいたラストに私がとらわれてしまったからでした。そこで考え直しました。これでは私、作者の姿がみえないではないか!私、作者はいったいどんな人物なのか、それが伝わってこなければ作品にはならない。

そのことに思いつき、作品の出来不出来は別にして、俺は不倫の最中、たとえそれが破滅のベクトルにあっても引き返さない男、毒を食らえば皿までも、という男ではないかと思いつき、その方向に作品の中で(生きていきました)。そこで芸術家(わたしはそんな大それた者ではない)は自己自身を作品の中で生きる者である、ということがやっとわかった次第です。小説家の方からみればわかりきったことかもしれませんが、(大器晩成)?のわたしは還暦を5年もすぎてやっとわかった次第です。

もしあなたがインターホンを取ってこんな声が聞こえてきたらどうしますか?返事に困って黙り込み、インターホンを切りますか、それとも警察をよびますか?ところが昭和30年頃には、通りがかりの人がいきなりドアを叩いて、(ちょっと便所を貸してください)といって上がりこみ、大便をして(ありがとう)といって帰ることは普通だったのです。わたしは当時、6、7歳だったのですがこの事実を鮮明に憶えています。あれから50年がたったわけですがそんなことは信じられないでしょう?当時は(俺、失業したったい)といえば(おれんとこで飯でも食うていきない)と言って招くとか居候をするとか言うのは普通のことでした。トイレを貸してもらって居直り強盗になることもなかった。不思議ですね、それなりのモラルがきちんと成立していたのです。あれからすっかり日本は変ってしまった。良い方向だったか悪い方向だったのか議論はありますが、トイレを貸すような時代にはニートもヒキコモリもウツもなかったのですよ。旧体制の家父長制だの封建主義だの言論統制だのいろいろ批判はありますが、私達がグローバリズムという美名のもとで失ったものをもう一度考え直そうではないですか。

そんな世界を求めるのが(レア仲間)なのです。

 

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