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(抵抗力)をヤフーで検索すると(外からかかる力に逆らったり耐えたりする力)と書いてありました。今日もバイクで仕事に走りながら、家を出る前はまったくのウツ状態だったのがエンジン音とともにじょじょにパワー・アップしていくのを感じ、(年老いていく自分を支えているものはなんだろうか?)なんて考えました。
すると、(抵抗力)という言葉が現れてきたのです。仕事のノルマによる圧力、業績を維持しないとクビになるという恐怖、客への姿勢など働く者は常に圧力がかかっている。圧力が強ければ強いほど反作用が起こりそれに耐えようとする。そのエネルギーが生きる力になり、年老いていく自分を支えている。圧力をかけるものは腹立たしくなるが逆に感謝してもいいのではないか、なんて考えたのです。
あまりに強すぎる圧力にはつぶされてしまうが,適度な圧力は健康法のもなるのではないか。金と暇をもてあましていると生きる力も失われていくであろう。
逆境に励まされるかあるいはつぶされるか?少し観点を変えればつぶされるのではなく励まされることになることになるるのではないか、そんなことを3・11の日に考えたしだいです。
このタイトルは(楽は苦の種、苦は楽の種)という母親の家訓みたいなものからヒントを得たものです。楽しいときには苦労が控えているし、苦しいときには楽しみのが控えていて、いつも楽しさ一色苦しさ一色という状況はありえないということです。(冬きたりなば春遠からじ)という言葉があるとおり、近頃気温が10度ちかくにあがり、やっと春らしくなって気分も高揚しはじめました。
わたしも含めて人間はその場の状況とは異なる見方が出来ないから、絶望状況であればその一色にそまってしまい、裏に潜んでいる世界が見えない。
何年か前、畑に出来たカボチャの収穫を忘れて放置していました。秋になるとカボチャは腐れ、中に残っていた種がこぼれ出、地面に広がり始めました。次の年の春には芽を出すのです。ここでカボチャが腐れなかったらどうなるでしょうか?種は内部に残ったまま母体とともに腐れてしまうのです。母体が腐れたから外に出、再生することが出来たのです。
崩壊に絶望することなく、次の再生・繁栄を待ちましょう。
それは日本・世界のことであり、自分自身、あなた自身のことでもあるのです。長い冬が終わり、燃え上がる季節の訪れを喜びで迎えようではありませんか。
リメンバー・パールハーバアー(真珠湾攻撃を忘れるな)からこの言葉を思いついたわけですが、東北大震災の考察眼は現地を復興させて震災前に戻すことに定着してしまいました。わたしはそこに胡散臭さを感じ取ってしまうのです。政府を中心に新聞もテレビも(がんばれ日本)の合唱ですよね。マスコミはなぜ違う観点を書かないのでしょうか?言論を統制されているという意見もあります。官製報道でしようか?
本来はこの歴史的事件、広島の数倍の原爆投下に値する被害が生じながら真剣に事態を見極めようとする姿勢を報道せず、復興すればそれで良いのだと言う安易さがある。被害者はよそに移転していただいて被災地をそのまま残し、負の世界遺産にするとか巨大な霊場にするとかもっとちがうやりかたがあっても良いのではないか。広島の原爆ドームみたいに決して忘れない記念碑として。
震災の事実を見つめながら、人間の歴史とは?現代文明とは?など思索と懺悔の慰霊塔にすべきではないのか。自分の生き方、人生とは?などテーマはいくらでも出来る。
テレビ映像で見た(ノアの洪水)に等しかったあの惨状を決して忘れ、歴史に埋もれさせ、風化させてはいけない。
3・11を契機にして政治も少しずつ変わり始めたことは確かである。我々の考え方も生活も変わらなければならず、死者や被害者の犠牲を無駄にしてはいけない。それが生き残った我々の責務である。
まずその骨格は当然思想的になるわけです。現代文明に基づいた社会は中世、近世には戻せませんから自然のシステム・構造を模倣し、変革していくわけです。それは循環的なものであり、(土から生まれて土に戻る)ものでなければなりません。快適さを求めたあげくが東北震災で、排泄された放射能が消滅するまで10万年がかかるなんて空恐ろしい事実を反省しなければなりません。異常なエネルギーが異常事態を生んだのです。
次に人間中心主義の一掃です。(死ぬことにも意義がある)わけですから、延命治療はその後の生活がどうなるのかによって中止すべきケースは中止し、安楽死をもっと歓迎すべきです。人間に生きる権利があるのなら死ぬ権利があってもいいはずです。
次に民主主義が絶対的なものであるという信仰を捨てるべきです。国会で歳費を費やして議員どもが血税をしゃぶり、揚げ足ばかりとっているのは仕事でもなんでもありません。遊びなのです。時限を例えば5年なら5年と区切って独裁的に憲法を変えるべきです。真理は一つであるはずですから自然哲学(?)でくくれるはずです。
今、実行されているのは国体の贅肉落としです。政治家、公務員の給与をカットし、増税分を埋めることを実行し始めました。次は特権階級の贅肉落しです。宗教法人、皇室、などまわりにはいくらでもいます。天皇制を廃止し、かれらに人権をあたえようではありませんか。街中を自由に歩くことも出来ず、絶えずマスコミや国民の目線にさらされてるなんて気の毒ではありませんか。
次に徴兵制です。自分の命、自分の国は自分達で守るべきです。
官僚が管理してるものは誰でしょうか?本来は大臣が管理権を持ち、彼らを本当の公僕にしなければなりません。
15年ほど前に女とラブ・ホテルに入りました。その時、彼女がつぶやいた言葉がこのタイトルなのです。今頃になって、その言葉が時々想い浮かんでくるのです。彼女は40歳にちかい主婦で、息子の大学進学や亭主の仕事のことで悩んでいたようでしたが、セックスをする時にすべてを忘れることができたのです。出会い系サイトで知り合い、一度だけの出会いでした。
若ければ集中力もあるし、何かに夢中になる時間はいくらでもありますが、年齢を重ねていくうちに(すべてを忘れることの出来る時間)は短くなっていきます。けれどもその時間を持っている者が本当の幸せ者なのです。金があるとか無いとか、地位や名誉やその他常識的な優位性を度外視して、その時間を持っているかいないかで幸福度がきまるとすればこれこそ真の平等性なのです。
私にとってすべてを忘れることの出来る時間はいくつか残されています。今であれば道路わきの温度計が0度を点滅させてる、その中をバイクで帰宅する時、ほとんどすべてを忘れています。一時間ちかくもすべてを忘れて走りつづけます。(寒くて大変でしょう?)といわれたり、後に(バイクで一時間も走って大変なのですよ)と自分で言ったりしますが、まったくすべてを忘れている時間なのです。その時間に対してなんの言葉もいりません。
戦後50年間、人権・民主主義(金権主義)に酔わされてきた私達です。皆が幸せになり、ならなければならないという幻想にふりまわされ、それがあたりまえだと信じ込まされてきた私達に落ちた雷鳴はあの東北大震災です。東北の人々がその犠牲にされてしまったわけですが、私が日本人いや人類すべてがその犠牲になってもなんら不思議でもなかったのです。
(最大多数の最大幸福)を追及したあげくそしてその反動は(最大多数の最大不幸)の方程式であったのです。寒さがあるから暖かさがあるのであって、年中が適温であれば寒さも暖かさという言葉さえなくなる。寒さにがまんし、身の丈にあった生活に満足していればよかったものを文明の甘い蜜を際限なく貪欲に食いつくそうとした結果があの地獄だったのです。
わたしは自分の寿命と生活の行く末を考えると、あと10年生きて・・円の金がいるなんて計算をしたりしました。それはおこがましくただ馬齢をかさねていくのならば早く致死細胞になって消え、若い細胞と世代交代し、エネルギーをかれらに提供すべきだとも考えます。
ただ、私はこのホーム・ページを遺書として書き続けたいと思います。
2月2日のことです。知人といっしょに竹の子山に竹の子を見に行きました。うちの所有する山です。二千坪ほどの広さですが、ツマヨウジの先ほどに顔を出した竹の子を探しましたが、見つかりませんでした。
予想通りイノシシが竹の子を掘った跡が見つかりました。私は毎年のことなので彼らは匂いに敏感なので今年も先を越された、というと知人は(山に詳しい人です)、イノシシは結局見つけられなかったんだよ、だから食べ残した皮も芽もないじゃないか、というのです。わたしはそうかと納得し、二人して手ぶらで帰宅したわけです。彼が言うにはイノシシは前足、後ろ足のケズメで地面を引っ掻き竹の子を探し、掘り出すというわけです。わたしの判断では彼らは牙で掘るのです。人間が掘るとクワの跡が残りますが、彼らの場合は草の根がむきだしになっているだけできれいなものです。
今になってわたしは知人と違う解釈をするのです。掘った跡があるということは彼らが竹の子を見つけたということじゃないかということです。ふつうはかれらが掘って食べた跡の皮が必ず残されていましたが彼らはあまりに空腹だったので皮まで食べたのではないか、と推測します。
いずれにしてもイノシシにきいてみなくてはわからないことですね。かれらは夜行性ですから、暗闇の中で竹の子を見つけ、掘るわけですね。
そんなチャンスがあればぜひ写真かビデオに撮りたいものです。
あるいはイノシシに首輪をつけて竹の子を探させるとか?
宗像市の農村で首輪をつけられて散歩をさせられているイノシシを見たことがあります。首輪の鈴が鳴っていましたがあまり良い光景ではなかったですね。やはり彼らは野生でないと魅力がない。
日本がどうなるかどうすべきか、政治家および国民は悩んでいますね。
私が東京で遊学していたころ、不良学生でしたが、政治や文学、格闘技には興味がありました。政治学科に属していました。大学で政治学原論のテキストを読み、その中に国家のとらえかたとして(国家有機体説)(国家法人説)があったのを思い出します。国家有機体説とは国は生き物であり、国民はその細胞だというもので、わたしはこれがかなり真実にちかいと考えます。その観点から今の日本をとらえると老化して元気を失った生き物です。この生き物が衰弱死せずに生きるには細胞の再構成が必要なのです。人間の細胞は毎日入れ替わっています。致死細胞が消え、新しい細胞が産まれ、入れ替わっていき、エネルギーが保たれているのです。今の日本は人権のもとに延命治療を行い、平等に長生きし、衰弱した細胞が増えているのです。
その体制をかえねばなりません。年齢、職業、性別、障害度など度外視してヒタムキに生き何かに取り組んでいる者はサポートし、それ以外はサポートすべきではないと思います。
これは政治家も国民も分かっているのですが、口にはだせないタブーなのです。特に、これが重要なことですが、政治家がこれを口にすると票を失い政権を失うことを知っているから絶対にいえないし政治に実行できないのです。多数決原理ですからかれらは自分の生活と職を失うことはいえません。自己の利益と党利しか頭の中にはないのです。
トイレの神様、という歌がテレビで流れ、妙に新鮮な印象をうけました。その歌に影響されたわけでもありませんが、布団の神様、という言葉が思い浮かんだのです。考えてみればほとんどの人は布団の中で産まれ、死ぬわけですね。田山花袋に同名の小説がありますが、昔読んで官能的な印象があります。恋する女へのつながりを布団に象徴していたように思います。
睡眠時間を8時間とすれば人は三分の一の人生を布団のなかで過ごすわけですね。熟睡は仮死の状態です。布団の中で夢をみたり、寝言をいったり、いびきをかいたり、セックスをしたり、オナニーをしたり、考え事をしたり、暖かさに気持ちよかったり、まさに第二の人生ですね。幼い頃は寝小便をしたこともありました。
その人の裏面の人生でもあるわけですね。
母が亡くなった時、彼女の布団の処分に悩みました。そのまま置いておくのは彼女が存命してるような感じがし、捨てるのは忍びない気になりました。いつの間にか身内が処分してくれてました。
布団の中にはきっとその人の神様が宿っているにちがいない。主が亡くなって火葬する時には棺桶の中にいっしょに入れてあげたいと思います。
私の部屋のそばで樋から落ちる雨音がよく聞こえてきます。樋からこぼれた雨音が激しくあるいは楽しげにわたしの感情と同期して落ちているのです。この時間、眠れなくて書いているわけですが、人の感情と天候が同じであると考えました。しばらくの間、雨が降らなかったのですが、寒気と暖気がひさしぶりに混じりあい、雨露に変化して雨が降るのでしょう。
躁うつ病の人は欝の期間にエネルギーを蓄え、その反動を操の期間で発散するのです。つまり、化学反応なのです。人間の感情も化学反応、天候も化学反応だと思えばわかりやすい。そこで無理をして(悩んではいけない、苦しんではいけない、そんな時にはどうするこうするして治すべきである)ととらえるほうがおかしい。
自然にまかせて生きていく、という東洋思想を持ちたい。