ブログ - 日記カテゴリのエントリ
今の生活のパターンは次のようなものです。平日は午前九時から午後三時までパソコンで博打、つまり株式投資をします。一台のパソコンで株価の値動きを見、あと一台のパソコンで株式や他の情報を見、時には銘柄のデイ・トレードをします。値動きが少ないと面白くないので部屋を出て、畑の農作業に汗を流し、つけっぱなしのヤフーで銘柄の変化を時々覗きます。株式市場が終わるとバックにカメラとペットボトルを詰めて家を出、そばの金比羅山の森の中に入ります。
金比羅山は高さが二百メートルくらいしかありませんが、一年あまりも通っているといろんな道があって発見するたびに冒険をしてる気分になります。獣道もあり、溝のそばの藪の中から草か枝をこする強い軋みを耳にし、イノシシがいると感じた日もあります。それからは竹の棒でも持っていたほうが身を守れるのではないか?と考えたこともありますが、もし出会ったら大声を出して闘ってやろうと思いました。幸いにしてまだ出合ったことはありません。足元がすべったり、クモの巣が顔に巻きついたり、枝に顔を引っかかれたり、鬱蒼たる杉の大木に霊感を感じたりしながら40分もすると戸切の清流につきます。カメラを取り出して、太陽の日の角度によって変わる川面の光景を探し、画像を見ます。良い光景であればシャッターを押します。写真の収穫を確認するとペットボトルのお茶を飲み、土手に腰を降ろします。良い気分です。
帰りはそのコースを戻って行くだけですが、時にはまだ歩いていない道・コースに挑戦することもあります。これがまた面白いのです。枯れた孟宗竹が何十本も倒れた道を歩いたり、人の踏み跡がなくなって道そのものが消えていたり、知らないうちにいつも歩く道に合流していて喜んだりします。ともかく飽きないし、日に一度は森の中を歩かないと落ち着かないのです。歩いていて急に雨が降ってきて、密集した木の枝の下に立って何十分も雨をよけた日もあります。
昨日は晴天で、汗をかいてさわやかでした。帰り道でしたが、路傍に二枚の小さなツワの葉が顔を出しているのを見て、心を打たれ,カメラにおさめました。虫食いだらけの葉っぱで夕陽に照りかえされ、白く光っていました。野草や木が茂った中であどけないな顔をしていました。悩みや苦しみなどとは無縁な表情で、人間からみれば悟りそのものです。芭蕉の句に(山路来てなにやらゆかしスミレ草)とありますが、植物は強すぎる太陽から逃げることも出来ず、雨や雪をさけることも出来ず、人間達の自然破壊にあがらうことも出来ず、イノシシの子に踏まれてもただじっとしてるだけです。
そこにわたしは、(野仏)を見た気持ちになり、人間の人生を重ね、考えました。
自分みたいに歳をとってしだいにあの草のようになっていくのだな、それが自然だな、と。
若者たちが(草食系)と呼ばれる時代において、(一撃必殺)などという言葉を持ち出せば残酷な言葉だとというより、狂ってる、と言われるでしょうが、その世界はまちがいなくあるし人間も自分ももこの世も狂っていると信じています。人間が生き続けている限り、その考えは変わりません。
わたしが第三次志望の法政大学法学部に入学したのは昭和43年の春でした。希望したわけではなくその程度の学力を証明されただけですから、入学式にも行かず卒業式にも出ませんでした。卒業証書も送られてきませんでしたし、今でも時々自分が卒業できているのかあんじることがありますが、就職においても学歴のことでトラブルになったことはありません。
入学前は進路を考えていました。探検部に入る、学生運動をする、空手を習う、という三つの夢がありました。探検部は学内で見当たらず、学生運動は中核派の拠点だったので盛んでしたが弱肉強食の教育をうけたおまえたちが人を助けるための社会運動?と疑問視していました。
それで(沖縄空手道剛柔会)に入ったわけです。体を動かすことは好きでしたがスポーツは神経が鈍くて下手でした。最初は無我夢中でした。校舎の屋上のコンクリート床で12時から2時間腕で突いたり蹴ったり走ったりして練習をしました。ところが次第にオカシイと思い始めました。(押忍!)の声を出して先輩に挨拶したり、道着をたたんだり、お茶を運んだり、食堂でかれらに食事を運んだりすることには抵抗はなかったのですが。シゴキ(リンチ)を週に一度練習後に受け初め、退部者(そこは同好会でした)が出始めてオカシイと思いました。
(テメエラ!ちんたらちんたらしやがって気合が入っとらんぞ!先輩に対する態度もたるんどる!)
付属校から入ってきた小田切がいつもシゴキの先頭に立っていました。巻き舌で息をまく言葉は迫力があり、白い歯をむき出した凄みは一年坊からニックネームがつけられたように(ウータンーオランウータン)そのものでした。
(腹を絞めろ!足を踏ん張れ!)
と言うと、一列に整列させられた私たちのミゾオチに二年坊の鉄拳が打ち込まれました。二年坊は15人ほどで一年坊も15人ほどでした。軽く突く者もいましたがほとんどは腰をいれた一撃必殺でした。ミゾオチは筋肉がなく鍛えようのない部分でしたので目の前が真っ暗になる痛みが全身を走りました。
ウウ、といううめき声が怒る、それは順番どおり自分にちかづいてきました。
10発ほど連続して受けた時、わたしは気を失って倒れました。二年坊たちは黙って見下ろしていました。医務室に運ばれるわけではなく、自然回復をまって放置されていました。
止めようかと思いながら7月までがんばりました。100人ちかい入部者は10人ほどになっていました。8月に新潟の海岸で1週間の合宿があることを知り、大学の医務室で医者に事情を話し、偽の診断書(遊走腎)を書いてもらい先輩に出しました。人家のない所で合宿などすると、何が起こっても証人がいない危険を感じとったのです。
退部してから先輩達の追及はありませんでしたが、同輩にたいするヒガミとリンチの悪夢は20年間つづきました。
この経験から次のことを言いたいのです。
日本は軍備を持ち交戦権を持て、という議論です。その前に言いたいのは、日本は軍備を持たず交戦権もないのですか?それは嘘です。アメリカに代行してもらい、依存してるだけです。
だから国民にさまざまな依存症が起こり、国家もたえずアメリカの顔色をうかがっているばかりなのす。
わたしは一撃必殺の世界を知り、時々自分の拳を握って硬さを見ながらこれで殺せるか?などと考えたりしますが大学を出てからは暴力沙汰を起こしたことはありません。タイマンをはったことは何度かありましたが、負けるか相手が下がるかでした。
今の日本はまだ人権民主主義・戦争反対が根強いのですが、そろそろはっきり言ったほうが良いのではないのでしょうか。人殺しは楽しいのです、そして人を愛することも楽しいのです。それはどちらもエネルギーの燃焼であるからです。
その人間心理をじゅうぶうんに理解して、軍備の再編と徴兵制を敷け、と。過去の戦争体験を検証し、慎重な仕組みと管理を置け、と。
自分を守るのはまず自分なのです。一撃必殺の世界を経験して、わたしは良かったとも悪かったともいえます。それが死ぬか生きるかの世界であったことはまちがいありません。当時は防具などいっさいつけずに殴りあい・蹴りあいをしてましたから、当たり所が悪ければ死はすぐそこにありました。そのせいか不思議と負傷や死はありませんでした。
人間の歴史をひもとくと次のことがわかります。古代において母権社会が短期的にはありましたが、その後は世界的に父権制がつづき、アラブ世界に見られる様hに一夫多妻制だったのです。日本においてはご存知のように平安時代において正妻を持ちながらの妾制がありました。
ここでわたしはこの考えが男性優位だと批判するフエミニストを念頭においてはいないと言います。生物学的な根拠を基本概念においています。雄は精子を多くの雌にばらまいて、多様な種をつくるDNAが仕組まれているのです。単細胞の分裂で種が増えるのであればそのほうがが無難であり、雌雄分離の必然性は無く、一種で良かったはずです。
なぜし雌雄の分離がおこり、多種多様な種が発生していったかを検証してみようではありませんか。それは一種だと一つの感染症にかかった場合、全滅の危険があるからです。現在においてもエイズに感染しない民族がいます。それは過去にエイズに似た感染症にかかり民族が全滅にさらされる事態が起こり、それを避けるために免疫力が出来ていたからです。それに単細胞分裂だと競争原理が働かないために弱い種が出来てしまうのです。
雌雄の分離を起こしたのは神の業でしょうか?不思議ですね。
自然界は多種多様な種を求めているのです。はっきり言えば生物学的にみて、一夫一婦制ではなく、父権制・多重婚を求めているのです。動物界においてもトドにみられるように一夫多妻はあっても一妻多夫制はなく、一夫一婦制も少ないのです。人間界においては終身における一夫一婦制が一般的ですが、ここでわたしは労働契約におけるように有期の結婚契約を考えるのです。終身ではなく、10年という期間を定めた婚姻契約を考えます。10年ごとに婚姻の契約更新をするべきではないでしょうか?不幸な結婚生活がなくなり、離婚も少なくなり、ストレスによる家庭内暴力も減ります。契約更新をしない場合は自動更新ということでつづけます。それに一夫多妻、一妻多夫の制度ももうけるべきです。アメリカでは性同一障害者同士の結婚をみとめるようにもなり、時代は大きく変わっています。一夫一婦制ではやっていけない多様性の時代がそこまで来ているのです。
数年前までわたしは小倉のソープランドに通っていました。月に一、二度くらいでしたが、女にモテないわたしにとっては貴重な世界でした。その世界がなければわたしは強姦罪か殺人罪で刑務所に入っていた可能性があり、そこで働いている女の人に送る言葉は(ありがとう)というものしかありません。わたしがもし女であって借金をし生活に困っていればその世界に飛び込んでいたでしょう。
20代から62歳ころまで通ったわけですから数十人の女と出会い、いろんな経験をしました。学校では学べない多くのことを知り、真実に出会いました。
タイトルの言葉は最期に会った女性が言ったものでした。真実であり、日頃わたしが考えていたことを彼女が言い、恋人を求めて通っていたわたしにとって致命的でした。つまり、ここにそんなものを求めてもありはしないわ、ということでした。
店のHPでは30歳と書いてありましたが、何年たっても30歳なのでそのことを彼女に問うと、(ここは夢の世界ですからね)と笑い、化粧を落とせば50にちかいことが顔の皮膚の隙間に見えました。(あなたは貴重な経験をしている。ここに来る男たちの言葉や行為を毎日書いていけばすごく貴重な作品が出来て、まちがいなくベストセラーになるよ)わたしは良いことを言ってやったつもりでした。わたしは湯船につかり、彼女はかなり離れた場所でシャワーを体にかけていましたが、彼女は悲しげな顔になり、(そんな人間観察をしたら考え込んで、ヤんでしまう)と言ったので、(ヤンで?)の意味がわからなくてオウムがえしに聞くと、黙っていました。彼女には病んでしまう男がいる、と直感しましたがすぐには意味がわかりませんでした。
(そうか?病んで、なのだな)とわかり、この仕事をしていれば愛する男をつくることはできないし、つくってしまえばこの仕事を止めないと彼に悪い。真剣になれば耐えられないのだ。
彼女と出会う前のことでしたが(あなた、無理に体を弄られる女の気持ちってわかる?)本気になりかけた女からい言われたことがあり、彼女たちの心が読み取れました。まれに仕事が好きでやっている女もいて、わたしにとってはそんなタイプが良い時もありました。
彼女たちはまさに、すべての男のものであるがどの男のものでもない、という不思議な存在ですが、では一般の女はどうなのか?一夫一婦制がどうなのかは、次回また書くことにします。
昨日、住民投票が否決されたいきさつを説明しながら、岡垣町の住民宅を訪問しました。不在の家にはチラシを郵便受けに入れていきました。ある家の主人と庭先で出会い、彼からこんな話が出ました。(この町の政治を牛耳ってるのはS産業とM運輸ですよ。飲み会の席でも町長はその社長の下の席に座っていてぺこぺこしてる)ということでした。(なるほど)と思いながらいろいろ意見を交え、どちらもこの町の世帯は増えているのにシガラミの強さには閉口することで一致しました。最後に(日産自動車のゴーンさんみたいな外国人が町長にならなければこの町は変わらないですね)と言うと主人は笑いながらうなずいていました。
シガラミのない外国人のほうが本当の街づくりや国づくりが出来るのではないでしょうか?
いっそのこと日本の総理大臣をゴーンさんがやってみたら面白いのではないでしょうか?
わたしの部屋から20メートル先は田んぼです。この時間もそうですが真夜中にカエルたちの大合唱(集団見合い)がなごやかに聞こえてきます。不思議なことに鳴かない夜は一匹も鳴いていなくて、鳴く夜は声を合わせ、掛け声やハーモニーまでまじえてにぎやかに明け方までつづきます。車や工事の騒音よりははるかに心地よい音楽です。卵からカエルになった6月頃はどこか幼くたどたどしい鳴き方でしたが、今は元気いっぱい自信に満ちています。
そこで思いついたのです。(動物界にレイプはない)と。それは確かですが、なぜなのだろうか?人間界はほぼ日常的に起きているのに。答えは簡単でした。動物達のオスとメスは体格がほぼ等しいのに人間の場合は一回りの差がある。これは女性には子育ての期間があるのでその間運動がじゅうぶんにできず、体の発達が遅れてしまうからだろうと。それに動物たちは敏捷で身動きが素早いので襲われることはないと。
そのように考えると人間の場合、女性はある意味で不幸です。人間が単細胞のアメーバから雌雄にに別れ、動物界、植物界に分かれていった進化の過程を想像してみるのです。単細胞のままであればメスをめぐっての争いもレイプもなかったのですが、雌雄に分離したためにそんなことが起こるようになりました。ところがいろんな種が増え、一つの感染症が流行っても全滅する恐れがなくなりました。それに雄どうしが絶えず競争し人間が強くなっていきました。
このDNAの突然変異は誰の仕業なのでしょうか?
神の仕業ともいえるかもしれませんが、人間はセクハラやレイプ事件を起こし男も女も難題を背負うことになってしまいました。これをなくすためには異性の仕分けがなくなれば良いわけですが変化の采配はとうぶんふるわれそうにありません。残念ながら男たちはあちこちに種を蒔きつづけなければならないようです。
植物のように昆虫に頼るか風の流れで受精するようになれば事件は起こさないでしょうが、それではなにか物足りないのが動物ですね。
先日、福岡市内に住む知人との会話の中で、(ぼくの部屋にはエア・コンがないのよ)と言うと、(どうして?)と不思議そうに訊きかえされ、返事に戸惑ってしまいました。
設置するくらいの金はありますが、暑さが強いのはせいぜい9月までだ、と考えるとそこまでする気にはなりません。毎年、そんな反応をくりかえしてきました。昼をすぎると部屋の温度が35度になることはめずらしなく暑さに耐えられない時があります。そばの畑で作業をしていることが多いので、部屋で休憩する時は扇風機をかけます。
畑の野菜たちはこの暑さの中で日陰に移動することもできず、じっとひたすら耐えています。日照り続きで生育も悪く、ナスは握りこぶし大より成長せず硬いままです。ピーマン、シシトウは栄養失調みたいに縮んだままで、3個ほどの苗は姿が消え、何を植えたのかわからないままです。畑に入ると(おじちゃん!水をちょうだい!)(ぼくにもかけてよ!)とキュリやカボチャ、トウモロコシ、ゴーヤ、メロンなどが盛んに声をかけてきます。(生物が進化する時、君たちは植物の道を選んだのだけど、それが良かったと思うかい?)とたずねると(わからない)という返事が返ってきそうです。
わたしは自分で動物の道を選んだのではないけれど、動物に産まれて良かったと思います。心臓のバイパス手術をして一年になりますが、先日は知人と近くの海に出かけ、素潜りをしてきました。タコ一匹とサザエを三個とり、一年前、ベットの中から回診に来た医者に(サイクリングや素潜りはできるようになりますか?)ときいて(今年は無理でしょうけど、来年はだいじょうぶですよ)と言われ、そのことを思い出し、うれしかったのです。
エア・コンをつかうことは贅沢だと考える部分もあります。地球上を資本主義がおおい、すべての人類がエア・コンを使うようになったら温暖化がもっと進み、住めなくなるにちがいありません。わたしは自然に恵まれた田舎に住んでいるわけですから、せめてその部分において暑さに耐え自然を大事にしたいのです。
わたしが東京で遊学生活を送っている時、高田馬場近くのラーメン屋でアルバイトをしたことがあります。(大三元)という小さな店で、台湾人の初老の店主が経営をしていました。店内で冷や飯を客に出したり、麺の伸びたラーメンを雀荘の大学生に出前したりして、(あんたを子供として見るべきか大人として見るべきかわからない)と店主に言われ、その言葉が今でも記憶に残っていて、思い出しては笑ったりします。
昨日、自宅で餃子を作り、自分で揚げました。50年ほど前の経験が生きていました。フライパンの中で油と水の混じった液体が沸騰すると、餃子を順次入れていきました。フタをして蒸し、油がほとんど無くなった頃、餃子のお尻が狐色になった頃に完成します。口の中に入れた時、カリカリの味がする時が一番美味しいです。その加減はかなりむずかしいですが。
そこでわたしは考えたのです。
水と油といえば日本では相容れないものどうしの典型としてとらえますが、中国人は両者を混ぜ、水の力で蒸しあがった時、油が力を発揮してあげるという効力を利用しているのです。日本人およびその他の国では考え出せないことですね。
共産主義を体制にする国が資本主義を取り入れ、今ではアメリカにつぐ資本主義国家として成長している。この事実に餃子の調理法における水と油という対立する性質を活用する思想を感じ取るのです。老荘思想における逆説の思想など東洋思想の奥深さを感じますが、餃子のように美味しい味付けをした国になることを期待しています。
私の父は60才後半で脳梗塞をわずらい、70才半ばで亡くなりました。彼は幼くして父母を亡くし、母の実家に養子として入籍しました。母の愛情を知らない、と本人は言っていましたがそのせいか多くの女を愛し、酒に溺れた一生でした。
いま、私は66才になって父のことを思い出します。若いころは反面教師とし批判していましたが、この歳になると彼の生き方が自分とある面で重なってよく見えてきます。彼は脳梗塞にかかって(私は心筋梗塞にかかりました)右半身が不随になり、車椅子の生活を送り、トイレも入浴も食事も母の世話になっていました。
車椅子を押して庭の散歩をさせていた母の姿が消えると、父は決まって(母ちゃん!)と叫びました。わたしはその声を今でも幻聴で耳にすることがあります。
(母ちゃん)という言葉は子供が母親を呼ぶ時の呼称です。それを夫が使うことはその世代では珍しくはなく、一般世間の夫たちも(うちの母ちゃんがうるさいけ)などと普通に使っていました。今、妻にそんな呼び方をするのはよほど古い世代の男性でしょうし、近頃耳にしたことはありません。
日本人は農耕民族で母権制の時代があったので、マザコンというのは普通の精神状態であったのでしょう。妻を母と重ねて慕う気持ちがあったのです。
ここで話が飛躍しますが、わたしの脳裏に焼きついているのはヒッチ・コックの(サイコ)という映画なのです。(サイコ)とは(サイコロジイー心理学)が由来ですが、マザコンのノーマンが、彼の管理するモーテルに泊まりにきた美女をナイフで殺害するというストーリーです。心理サスペンスの最高傑作であり、あまりの恐さにアメリカのモーテルに宿泊する客が激減したとも原作の後書きに書いてあります。
主人公のノーマンは亡くなった母とモーテルのそばの家に住んでいて、というより母親は亡くなっているのに幻聴、幻覚の世界で彼女といっしょに住んでいるのです。食事をいっしょにし、おしゃべりをし、日常生活を二人送っています。そこに金の持ち逃げをした美女が現れ、独り者のノーマンは惚れてしまい、部屋の浴室でシャワーを浴びている彼女を殺してしまうのです。
わたしは映画のシーンにあるように女を殺したのはノーマンだと信じていましたが、最近はちがうと思うようになりました。つまり、女を殺したのは息子のノーマンの心の中に入る込んでいる(母)だったのです。彼女は息子が別の女を好きになることが許せなかったのです。母と息子のつながりというのはこれほど深く強く、恐いものなのです。狩猟民族のマザコンが裏返った場合、その残酷さは農耕民族の比ではありません。
山口県の山村で五人の老人を殺した事件が最近ありましたが、あれも犯人一人がやったとは思えません。誰かがあるいは何かが入り込んでいたにちがいありません。
彼に(母ちゃん)と呼べる女がいればあんな事件は起きなかったでしょう。他人でも年上の人であれば、お兄さんお姉さんお父さんお母さんと言うことがありますが、彼にそう呼べる人がいれば事件は起きなかったはずです。日本人の変わりように寂しい気がします。人類みな兄弟、と言う言葉がありますが、日本人みな兄弟でもあるのです。
わたしが小・中学生の頃だった。国政や市町村の選挙がちかづくと、車のスピーカーから(清き一票!清き一票をおねがいします!)の連呼がいつも聞こえてきたものだった。
今ではまったく耳にしなくなった。あれから50年はたつだろうが、選挙が金まみれになった現在に(清き一票!)を出すには出せなくなったのだ。金まみれである方が政権にとっては都合が良いのである。なまじ貧乏人から政治家が出て世の中を変えてもらっては困るのである。だから選挙制度改革などにとりかかりはしない。民主的封建制度こそかれらの狙いである。
目の前にニンジンさえぶらさげておけば票は取れることをアベノミクスは証明した。参議院選挙が終わった今、目の前には(行きは良い良い帰りは恐い)の状況が待っている。食料品の値上がり、消費税導入、財政赤字の増大、社会福祉への負担増など不安材料が目白押しである。
(清き一票)の気持ちで投票しておけば良かったのに、なんてならないように願うばかりである。
目先のニンジンではなく地球的規模、日本全体をかんがみ取り組む政治家が欲しい。