ブログ - 日記カテゴリのエントリ
これは短編小説です。
カレは月に一度、理恵に会うためにそのソープランドに通った。
片手に二つの弁当が入ったビニール袋を下げ、灰色の洗いざらしの作業服を着たカレは人目につきやすかった。馴染みの店の客引きの男はカレを遠くから見つけ、頭を深く下げた。道の片側はソープランドが看板を並べていたのでカレは他の店の客引きを避け、駐車場から迂回して来たのだが馴染みの男は見逃さず、カレを迎えた。
カレは笑いながら店内に入り、名前を言って金を払った。予約していたのでスムーズに進んだ。
待合室に案内されて、三十分後の時間を待った。眼前にテレビがあってバラエティ番組を流しながら時間の表示をしていたので、カレは携帯電話の電源を切った。カーテン越しに客を見送る女の声や店員のお礼の声が聞こえたのでその様子をカレは楽しみ、理恵は今頃部屋の中で自分を迎える準備をしているに違いないと考えた。
彼女と知り合って十年になる、ということはその間通い続けたということだ。カレは臨時の肉体労働をしながら金をため、月に一度、彼女を指名して会うのであった。頭が悪く、人間関係も下手なカレは四十歳を超えても定職につけず、女も出来なかった。安アパートに住んで生きていた。月に一度のツマに会うために、彼女の好きなカシワ飯の弁当を買ってきて、行為の後にその部屋の中で二人で食べるのだった。カレは童貞であったが理恵が性愛の世界に導き、生きていることの素晴らしさを教えてくれた。ぽつりぽつりした会話の中で彼女がどこに住んでいるのかとか家族のことなど訊くと、そんなことはどうでもいいじゃない!と理恵は強い口調で言ったのでカレは身辺のことは口に出さないことにしていた。
テレビの時間表示が出会いの時間を告げていた。理恵の顔が近づいてくるようだが五分や十分の遅れはよくあった。慌てることはない。彼女はその時間だけはカレのものである。
ボーイの足音がカーテンに近づくだけでカレは直感した。
(お待たせしました。お客様!どうぞ!)
その声にカレは立ち上がり、眼前の暗い柱の陰に隠れている理恵の方に歩いていった。
ここで付け加えたいのは理恵も人間関係が下手で我がままな女であり、特定の男をつくったり結婚生活の中で男といっしょに生活することを嫌がっているということです。終身雇用制度から派遣労働中心に雇用の世界も変わり多様になってきています。それが良いか悪いかは別にして、結婚の形も前回のブログ(一夫一婦制)の中で書いたように変わっていくと思います。女との付き合い、男との付き合い、が面倒である、そんな若者が増えていると新聞に書いてありましたが、この短編小説にうある男女関係はすでに芽生えているのではないでしょうか?
少しむずかしい話になりますが、すべての元素の最小単位は原子です。原子核は+の性質があり、?の性質をもつ電子がその周りを飛び回っています。ここでわたしは考えたのです。地球は太陽の周りを公転していますが、小宇宙は大宇宙とリンクしているという説に照らし合わせてみればその二つの世界はリンクしていて、両者の飛び回るスピードは同じではないか?と、わたしはそんな説を唱えるのです。もしかするとそのスピードはすでに測定され実証されているかもしれませんが。
人間をふくめすべての動植物、物質は元素からできていますので、それぞれの構成物質の電子が原子核の周りを飛び回っていてそれが振動してエネルギーを起こしているのです。人間でいえばそれが精神と肉体(便宜上分けて書いていますが実は両者は同じものなのです)の活動になっていて感情や思考やスポ^?ツや労働の基礎をなしています。人間同士でも人間と動物でも男と女(物質でいえば+と?ですね)の間でも共感したり(共振です)、反発したり、恋愛したり、結合したりするのはこのエネルギーのなせるわざでしかありません。そこに精神的や心を入れるからわかりにくくなってしまうのです。(あの人が優しいから好きになった)のではなく、あの人の元素とわたしの元素が共振しあって愛しあっているのです。男と女の間でいきなりセックスをして快感を燃え上がらせ、結びついてしまうことがありますが、これもおたがいの元素のなせる技です。
このように考えると、私たちがきれいな花を見て楽しくなったり美味しいものを食べて満足したりするすべての反応の基礎は体を構成している物質・元素にあり、おたがいにつながりあったり反発したりもしている状態がわかります。
こんなことから物理化学現象が哲学に変わる日は近いでしょうし、物理化学が宗教と哲学、政治、思想を吸収する日も近いでしょう。人生を悩むこともなくなり、すっきりした物理化学的な毎日が訪れるはずです。
わたしの個人的なことから書きます。父は高校の英語の教員でした。母はすごくプライドの高い女で典型的な教育ママでした。当時は教育ママのハシリと村人たちの噂にのぼる人でした。わたしは田舎の小学校の時からテスト攻めにあい、のんびり過ごしていた連中よりはるかに良い点数をとり、事情を知らないものから陰で神童とうわさされていたようです。調子にのった父母は私を某国立大学の付属中学校に入学させました。入学試験の点数は合格圏に届かず、父のコネで入ったことをわたしは母から告げられました。すごいショックで、今でも尾を引いています。真面目に正しく生きなさい、という信念で育てた者がみずから不正行為をして、母はわたしに次のように言いました。(あんたはお父さんのコネで入れたんだから、ガンバラないけんよ)わたしはもう一度ショックを受けました。自分がわたしを不正入学させておきながら責任をわたしに取らせる言い方じゃないですか?男はこんな真逆な論理はけっして持ちません。それから劣等感にさいなまれ、女という種にたいする憎悪・差別感がうまれ、一生消えませんでした。
高校・大学は自力で入学、卒業しました。定職にはつかず、結婚したのも三十歳の半ばでした。
法学部でしたので、頭の訓練もかねて司法試験の法律書を読破し、その問題集にも挑戦しました。小説や思想、政治の本もたっぷり読みました。
そこでわたしは考えるのです。太平洋戦争みたいな受験戦争に青春を捧げさせられ、その挙句、敗戦をうけたおれの人生、教育とはいったいなんだったのか?人生にたいしては高度成長期の中で青春をすこし、イイ思いもしましたので満足していますが、国営の(教育産業)だけは憤りと怒りがつづいています。とくにその頂点にある大学に対して。不満を書けば際限がないので、大学に行った人生と行かなかった人生はどのようにちがうか?という主題に取り組んだほうが早いと考えます。高卒で就職してた場合、仕事をおぼえ社会生活を身につけることに精一杯で他のことを考える余裕はありません。そこでがんばり順調に世をわたっていければそれなりの人生を送れるでしょう。それは確かです。ところが世の中の仕組みや実態に疑問をいだいたり、会社での仕事がうまくいかなかった場合です。ここでわき道にそれますが、高卒で企業に入った場合、良い職場に入ればいいのですが悪い職場の場合は上司や先輩たちにこき使われイジめられて酷い目あいます。中途退職者が多いのはそれが原因です。
社会のレールから離脱した場合、多くの人は自分の無能さをとりあげます。反対に社会のほうがオカシイと考えた場合はその理由と原因を持ち出さなければなりません。それが出来なければ自分のせいにするしかありません。自分を責め続けていけば自殺が待っています。
わたしは高卒者と比較した場合、20年間もの猶予期間がありましたので、(理論武装)がじゅうぶんに出来ています。誰とあっても論争が出来、あるいは先方の思想・考えを吸収することができます。この世の仕組み、この世を操ってるものの正体が見えているので自信があります。ものごとを理論付け体系づけすることが出来るのはやはり法律書や思想・哲学書を読み漁ったからです。
まだまだ書くことはいくらでもありますが、(この一冊の本)を取り上げてくれと言われれば小説では、カミュの(異邦人)ジュネの(泥棒日記)です。
アメリカのある州で,同性愛婚が法的に認められて数ヶ月になります。新聞紙面でその報道を読んだ時、わたしは、アメリカだから何でもあり、だろうくらいに思ってたかをくくっていました。が今になって、これはすごい時代の変化だな!と考え直しました。アメリカでは同性愛者であるという理由で政府の高官や有名人が辞任に追い込まれたケースはいくらでもあります。日本ではありません。それは西部開拓という侵略精神、海外侵略国家のヒーローが男を愛するなんて(とんでもない、コケンにかかる!)ことだったのです。それでも同性愛さらには結婚まで認めざるをえない時代状況に追い込まれたということは、同性愛者たちが多数派を占め、アメリカ社会がちがう世界の入り口に入ってしまったのです。動物の世界にこんな現象はないし、もしあればそれは子孫の残せないので絶滅危惧種に指定されます。皮肉っていうと人類がみずから指定し、されたわけですね。もとよりアメリカは資本主義の先端をいく国でその波及は世界に広がり、日本だって同性愛婚を法的に認めるようになることは時間の問題です。
ここにわたしは(多様性の時代)を読み取るのです。
民主主義は多数決原理により金権主義におちいって利権国家を生む傾向がありますが、多面性を抱合しています。民主主義・資本主義の競争原理のひずみが産んだ同性愛という現象を多様性のカテゴリーで受け入れることはまさに可逆性という物理化学反応でしょう。
障害者も多様性のカテゴリーの中で考えれば一つの個性なのです。暴力と浪費癖のある者、今では統合失調症のジャンルに入れられた男も一昔前は暴力常習者として取り扱われ、多様性のゆるやかな波の中にいたのですが今では精神障害者として扱われ、施設の中に取り込まれています。野犬や野良犬、野良猫、ホームレスたちが施設の中に消えていったようにいなくなり、キレイキレイ社会の(平和で幸福なコンクリート生活が出来上がってしまったのです。
ところが社会は福祉でまかなう余裕がなくなり、(多様性)というジャンルにかれらを返すことになるでしょう。異端者や希少人などの少数派は多様性の中に組み込まれていくのです。
単細胞の分裂で子孫を増やしていった時代から雌雄の分化で多様性・競争社会をまねいたDNAはその筋書きどおりに多様性を社会に持ち込み、その役割を果たしているにちがいありません。同時に競争社会からはみ出て少数派たちが多数派に変わっていった場合かれらに主導権があたえられるわけです。障害者たちが必然的に増えていけば主導権をもつことになるのです。
わたしは日本の教育制度および文部科学省に対して憤りをおぼえ、腹立たしさしかありません。かれらに同調している国民にたいしても不信感をおぼえます。人間が試験の点数によって評価される仕組みこそ人権侵害ではありませんか?試験の点数のほかにその人をみる視点はいくらでもあります。視点を変えるだけでその人への評価はまったく変わります。
口先では多様性をうたいながら、いざとなると学歴を持ち出し、人間の評価基準に依存するこの体質。それに疑問を抱かない人間が多すぎる。いつまで自分の視点をもたないのですか?いつまで権威の信仰者でありつづけるつもりですか?あらゆる権威はすでに内部崩壊しかけているのですよ。
わたしは大学に入り、最初の講義の日から希望を失いました。当時、マスプロ教育と言われたように教室はすし詰めで座る椅子がないのです。大学側は受講する学生ははじめだけで後は減っていくことを見越してそれだけの席しか用意してなかったのです。何十人かは立って講義をきいており、大学側の予想どおり一ヵ月後には半分くらいになっていました。
当時、法政大学は東大の植民地と呼ばれていたように東大から講師が派遣されていました。マイクを握り、顔をふせたままノートかテキストを棒読みする教授や講師がいました。かれらが学生運動家たちに吊るし上げを食らったのは当然でしょう。
教育とは何でしょうか?
生きることを教え育む学問、だとわたしは思います。
生きるためには何が大事でしょうか?試験の点数でしょうか?
試験の点数で会社や社会が良くなるのであれば東大卒ばかりを社員や公務員にすれば良いじゃありませんか?ところがそんなことをすればその組織は崩壊します。多様な人間がいてこそ組織は生存できるのです。
生きるためにはまず食料と自然がいるのです。食料ははどうすれば生産が出来、口にいれることができるのでしょうか?自然の価値とはなんでしょうか?
生きるためには健康が大事ですね?どうすれば健康を維持することが出来るでしょうか?
生きるためには人間どうしのコミュニケーションが大事ですね。どういう姿勢であればそれを保つことができるでしょうか?
以上のような基本的なことを教育の根底にすえていますか?
これは文部科学省に問いたいことです。どんな答えをするかわかりませんが。
ともかく、人を教えるにあたって哲学つまり基本命題を持たないのです。基本が抜け落ちているのです。
これは今だに日本がアメリカの属国ということから生じているのです。
(性同一障害)という言葉はまだ新しくて馴染みがありませんが、平たく言えば(心と体の性が一致しない障害)ということになります。ペニスを持つ男の体でありながら女の体としての欲求がある、逆にクリトリスと膣を持つ女でありながら男の体としての欲求がある、あるいは両方が混合している状態です。従来の表現では(ホモ)や(レズ)、(両刀使い)と呼ばれたものです。これらを障害と名づけた社会にわたしは疑念をいだくと同時に社会の差別意識を嗅ぎ取ります。同時にこの言葉が定着するかあるいは否定されて別の言葉に取って代わられるかにも興味があります。また、精神病理学会という秘境の世界が迷いと混乱を生じているのを感じ取ります。
オランウータンやゴリラの世界に性同一障害が存在するかどうかはわかりませんが、生物学的にいってもオスとメスは上記のような体の構造によって決まるというのが常識です。常識というのは政治・社会体制が変われば変わるもので真実ではありません。動物の世界にも性同一障害は存在するのかあるいはしていても発見されていないの、淘汰されて消えているのかわかりません。
その前に(障害者)(健常者)という区別とも差別ともいえない言葉について考えます。結論をさきに言えば少数派は障害者にされ、多数派は健常者になっている(思想)から問われねばなりません。それは民主主義の多数決原理に基づいていて、それを修正するために(差別を無くそう)というスローガンが出てきたのです。社会の一員になれないから、障害者であり、それが増えてもし多数派になってしまえば、立場が逆転し政治体制はくずれてしまいます。それを防ぐためにも体制側は障害者を訓練して社会活動をさせ、(健常者側)に組み込んでいこうとしているのです。
多様性という言葉があるように本来(性)も多様なものなのです。あらゆる(人間模様)があってしかるべきですが、(一夫一婦制)で管理している国家にとっては都合が悪く、オスかメスかはっきりさせたいのです。複雑な社会が産んだその模様は認めざるをえないが、認めると管理がむずかしいどころか不可能になる可能性もあるのです。
そこに(性同一障害)といって、(性の多様性)とはいえない社会の苦悩を読み取ります。
(処女)や(童貞)と同じくこの言葉も死語になってしまい、今では懐かしく感じます。明治時代以降、あれだけ(貞操)が重大視され殺人事件にまで発展することがあったのにいつのまにか消え、変わって(セクハラ)がマスコミを席巻しています。(貞操)って何だったんでしょうか?なぜ消えたんでしょうか?これにきちんと答えきれる評論家はいないでしょう。
わたしたちはいつの時代にもUFOや宇宙人などといったわけのわからないものに振り回されるのですね。1970年、1980年代であればそれらも貞操も(集団幻想)で片付けられたかもしれません。
(不純異性交遊)をヤフーで検索すると、18歳未満の者が性行為をするのは刺激が強すぎるから慎むべきという意味合いにとれ、それはそれで理解できますが、わたしが笑いを抑えられないのは、ではひるがえって(純粋異性交遊)とはなにを意味するのか?ということなのです。そこにこの言葉を考え出した方の迷いがうかがえます。性行為をするにあたって純粋な心理状態か不純な心理状態かを問題にしてるのでしょうが、それは愛情があっての行為かたんに性欲を満たすだけのものかということになります。これを掘り下げていくと性欲は愛情から生まれるのか単なる生理的現象なのかということになり、人間の精神と肉体(物質)の問題になりますが性欲はそのどちらからでも発生し左右されることはありません。それを理解すれば(不純)という言葉は場違いでまさに(不適格)な言葉です。
(セクハラ)という言葉にテーマを持っていくと、セクハラを受けた者が相手に愛情をもっていればセクハラにはならず、逆に愛情の表現になり喜ばれるのです。不思議なものですね。受けた者は男でも女でも同じです。
不純異性交遊もセクハラも人間の心を問題にしてる点では共通しています。
前のブロッグで(恋愛は化学反応である)(元素は物質になって安定する)という題で書いていますが、精神は物質の反応であると主張してるように(不純)も(セクハラ)も当人の肉体の元素のなせるわざにすぎません。被害者は気の毒だと思いますが、物質エネルギーの放出であるかぎり、この世からなくなることはありません。
安部政権による憲法9条の改正、消費税の導入など時代は変わりつつあるが、(天皇制)については政治家もマスコミも国民も口にすることはない。万系一世、神聖にして犯すべからずものという認識なのだろうかそれとも空気のように当たり前でなくてはならないものという認識なのだろうか、わたしのような希少な者からみればわからない。新聞やテレビが一度でもその聖域にふれてみればどんな反応が出るか面白いと考えるのだが、どこもやってみようとはしない。タブーに触れることを恐れているのである。戦後長きにわたって左翼の俎上にのってきたにもかかわらず新左翼消滅、右翼消滅の時世の中で天皇制の論議も消滅してしまった。
皇族たちに人権をあたえるためにはその身分が消滅しなければならない。
かれらの苦悩・ストレスはわれわれには想像もつかないものである。街の中を自由に歩くことも出来ない、旅行を気軽にすることも出来ない、酒場に入ることもできない。これだけ人権(?)を奪われた者をわたしたちは知らないし、生まれてから市民が当たり前に与えられた自由を持たない人種をわたしたちは知らない。かれらはそのことを訴えることも出来ないのである。天皇の人間宣言があったからには、皇室に問うて人権を回復したいかどうかはっきりしてもらうべきではないか?それが良心的というものである。かれらは働かなくても飯が食えるから恵まれてると考える国民は少なくなっている。なぜなら、生活保護制度によって飢え死にする者は少なくなっているからである。
このタイトルに感応する人は団塊世代でしょう。青春を1970年、1980年代におくった人で左翼思想に興味を抱いた人でしょうが、当時は(革命的)という言葉がすごく格好良く今でもわたしの胸にはすがすがしく響きます。
平岡正明氏が書いた本がこのタイトルでした。
法律や憲法は公平性があり社会生活を営みやすくすることを前提につくられていますが、実質は社会を支配している体制側の利益を優先しているのです。それに反する行為、法律をおかすことは体制に反することつまり(革命的)であるということです。ふつう犯罪を犯すことは道義的な意味で捉えられますが、このタイトルは政治的にとらえているところが新鮮です。また道義という思想は儒教に由来していて、これは国家に奉仕する学問つまり御用学なのです。
犯罪は動機は別にして、それを犯すことは体制にぶつかると同時に自己に植えつけられた道義・道徳を犯すことでショッキングなことです。先日、ある知人が大声で嘆いていました。暴走族がさわいで夜眠れないとしつこく言うのです。彼はその前に、駅前広場で若者が喫煙してることに腹を立て、一人一人を叱り付けていました。工事現場を回っては現場監督に住民に騒音の了解を得たかとか、ダンプの運転手には車を停めている時にはエンジンを切れ、吸殻のポイ捨てはするな、など注意してまわっていました。
わたしは彼に言いました。
上から見下ろすような視線でものを言ってはいけないよ。喫煙する若者には、(おれも昔は吸っていたけどねえ)という言い方で相手の目線と同じにしなければいけない、あなたは少しおかしい。極端なことを言うと、砂漠の中を走る時に交通ルールが必要か?あれは便宜的につくられてるに過ぎないんだ。
その言葉に彼は怒って、部屋から出て行きました。
彼の気持ちはわかりますが、この世のルールや決まりごとは全体ではなく一部の者達の利益になるようにつくられているのです。それを犯すことは善悪の問題ばかりではなく、革命的な意味でもあるのです。
わたしは犯罪者を単なる善悪の視点から診ることはありません。
もっと広い視点で見ます、自分も含めて。
5年前の体験話です。
(ごゆっくり、どうぞ)
控え室から出たわたしは前方に歩いていった。太い柱の陰には指名した女が立っていて、わたしに笑いかけていた。
なにか違う感じ。店のHPでみた彼女の姿とはかけ離れていた。顔は笑ってるつもりだが子供の泣きべそのように見えたし、黒の短パンにサンダルをはき、安物のTシャツを着ていて、この世界で働く女にはとうてい見えなかった。
それでも寄り添うようにして階段を上り、部屋についた。
(ここに入ると自分の部屋みたいで落ち着くよ)
わたしはベットに腰掛けて浮かない気分で言った。
(よく来るんですか?)
HPには35歳と紹介してあり、小柄で痩せ気味の体の線はそれくらいに見えた。
(ここにしか相手してくれる女がいないのでね)
(わたしも岡山から出てきたばかりです)
(ふーん)と言いながら、わたしは両手を大きく開いて彼女を抱き寄せ、いつものパターンに入った。
その頃からインポ気味で硬直がむずかしくなっていたので、そんな時は女にアナル・マッサージをもとめることがあった。
わたしはペニスの反応を見ながら予感したので彼女にそのことを話した。彼女は立ち上がってローションを持ってくると指にこすりつけてマッサージをはじめた。
これでだめならバックの中からゴーヤを出そうと考えた。それでアナル・マッサージをしてもらうのだ。
硬直しなかったので彼女の口の中でイった。
50分間の時間は終わった。
(これを使おうと思ったけど。料理に使うのだったらあげるよ)
わたしはバックの中からゴーヤを取り出した。
(ヤカン一つの部屋だから何もないのよ)
(寮に入ってるの?)
(うん)
それで店を後にした。
その夜、店のHPを開き掲示板を見た。
来店のお礼が書いてあり、(思った以上の変態さんでしたが、素敵でした)とわたしのことを彼女が書いていた。素敵でした、は愛想だろうと考えた。
一週間後に彼女を指名した。
HPの書き込みの話をし、前回のパターンで終わった。
(小さい頃からお母さんによく言われました。三日つづけば一週間はつづく、と。二週間つづいたのでだいじょうぶです。次は休みをもらって岡山の友達や知り合いに会いたいです。それまでがんばります)
その夜の掲示板に彼女が書いていた。
なるほど、と思った。自分が若い頃出稼ぎに出かけ、会社の寮に入ったことを思い出した。殺風景で(ヤカン一つ)のような部屋だった。今でも時々夢に見る、不安にとらわれた。
一週間後の掲示板には次のように書いてあった。
(わたしにバツはありません。だれか良い人がいたらいっしょに生活しませんか?)
こんなことまで書いた女は初めてであった。
わたしも相手を探していた。
一週間後に店に予約の電話をいれた。
(チサトさんは辞めました)
(どうしてですか?)
(それは言えません)
わたしはそれ以上探れないことを知っていたので電話を切った。
ヤカン一つの部屋。
良い男が出来て店をやめたのか?高級店にスカウトされたのか?トラブルを起こしたのか?
なにもわかりはしないし、探ることまではしない。
わたしの脳裏にそのヤカンの光景がよみがえってくる。