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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

岡垣町議会、議長との対話

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-4-2 13:17

4月1日にS君と二人で議長を訊ねた。私たちは海老津駅南口開発に反対している者です。

    議長室には彼と局長、新入り職員がいて、私たちと対談をしました。

中村 (議長にうかがいたいのです。町民といっしょになってこの 町を良くしていこう、とお考えですか?)

議長 (その質問には答えられません。わたし個人の意見はこの場では出せません)

中村 (あなたと個人で話してるわけではありません。議長の職務において聞いているのです)

議長 無言。

S君 (では他の場所で話しましょうか?)

議長 無言。

中村 (議長、あなたは自分の職務を放棄するのですか?)

議長 (先ほども話したでしょう?わたしには色んな顔がある。家に帰れば父親としての顔があり、仕事場に行けば社長としての顔があり、車を運転してる時には運転手の顔がある)

中村 (ここでは議長としての顔があるわけですよね。だから、こうして話をしてるんじゃないですか)

議長 無言。

中村 (町の仕事は町民の生活と安全、健康を守ることですよね?)

議長 (そうです)

中村 (ところが現実は金比羅山のヒノキを数百本も切り倒して自然破壊をしてるじゃないですか。ヒノキの下の地面で夏を待っていたセミやカブトムシの幼虫達は行き場を失い殺されてしまったわけですね。ヒノキの葉は黄砂や1pm2.5を付着してくれたわけですが人間が吸うことになったわけですね!その責任をどうとってくれるんですか?)

議長 (無言)

中村 (あなたは私たちが議会の傍聴に行ったら、帽子を脱いでください、お茶をのんではいけません

     、書類を渡したらいけません、などと上から見下ろした発言ばかりじゃないですか。納税者が                       来てる んだから、皆さん忙しい中、ご足労です。私たちは真剣な議論をしますから良い町づくりをし   

      ましょう、くらいのことを言うべきじゃないですか)

 議長 (あなたが議長になれば良い)

中村 (そんなことではないでしょうが、話にならない。もう一つ言いたいのはこの文面です)

    中村は封筒の中から書類を取り出し、彼の前に出した。ご意見箱への返信として来た物であった。

中村 (わたしが先ほどから言ってる要望の答えが、「ご意見としてうけたまわります」ですか?あまりに も不誠実じゃないですか?あなたにお返ししますので書き直してください)

議長 (わたしは小学生みたいに書き直すのですか?)

S君 (誰が税金を払ってるかわかってるのか!この封書の切手代もコーヒーの金も税金から出てる          

    んだ。納税者に申しわけがないから俺はここでその代金を払う!)

    彼は言って、1万円札をテーブルの上に置いた。

局長 (そんなものは受け取れません!)

    彼は言って金をS君に返した。

S君 (いや、取っておきなさい!)

   彼は言ったが金は取った。、わたしは話にならないと考えてS君に帰ることを促した。二人は出口のドアから外に出た。

 

 以上が概要です。

 その場でいろんなことが発見できました。

 議長は議員でありながら自分の支持者にしか興味はないし、自分の利益しか念頭にない。開発は議会で承認されているのだからいまさら反対するのはおかしい、と考えているようです。ここで不信感を持つのは投票の中味は本来利害関係の入らない純粋なものであるべきですが、町会議員、町長、町職員、開発参加業者、それら地縁血縁者など自分達の生活、金が潤う連中が投票し、利権を漁っているということです。コンクリート行政、自然破壊が手っ取り早いやり方だということです。

こういう連中を相手に話しをすることは腹が立つというより、疲れるだけです。署名運動においても旅館を営業しているところに町から電話が入り、そんなことはするな!と圧力がかかった事実がある。

(悪代官とはまさにこの連中のことである)

 

電車の音には心がある

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-3-23 23:10

今、住んでいる家に越してきて半年ほどになります。友達に(電車の音がうるさくて気になるよ)と言われましたが、わたしは逆に(心)を感じるようになりました。さきほど22時半頃、庭にでて立ち小便をしていると、博多のほうに向かう電車がそばの海老津駅を離れてゆっくりと加速をつけていました。車体をライトに明るませ、パンタグラフをキュウキュウ鳴らし、フエーと息をついてガッタンガッタン(さあ、もうひとふんばりだ)と言いながら消えていきました。

特急電車が元気いっぱい、走り去ることもあります。まるで中学生の子供のようなさわやかさです。

コンテナを30台も引きずる貨物列車が重苦しげに走ることもあります。大きな息を響かせています。またあの電車だな、と気づいて時計を見ると夜の11時過ぎです。その喘ぎがあまりに人の人生を思わせるので駅に寄った時に(貨物列車の時刻表はありますか?)と聞いてみると(ふつうの電車の走る合間をぬっているので特にありません)という返事でした。

ほぼ15分くらいの間隔で電車は走ります。わたしの部屋から50メートル先ほどの高台を一日中走っていますが、自分の友達のように思えます。

宇宙の鼓動

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-3-23 22:24

昨年の5月に入院し、心臓の冠動脈にステントを入れてカテーテル治療をしました。1時間後に心筋梗塞を起こし、緊急治療をして、死なずにすみました。心臓血管外科でバイパス手術をするしかない、という医者の判断で大きな病院に行き、心臓にできた瘤の修復、弁の入れ替え、バイパス手術をし、3週間ほど入院しました。10ヶ月後の現在、心臓の収縮力は常人の80パーセント弱に回復し、日常の生活が出来るようになりました。胸の中心に縦に手術の跡が残っていますが、麻酔がかかっていたために手術の記憶はいっさいありません。

あの手術は今でも偉業だと思い、心臓外科医は驚嘆すべき者だと感心しています。胸の肋骨を切り開き、人工心臓と人工肺にどのように接続して心臓にメスを入れたのかわかりませんが想像するだけでも身の毛がよだちます。暴力団でもヒットマンでもしり込みするような仕事だと思い、執刀医に(恐くなかったですか?)と聴いてみると(若い頃はそんなこともありましたが、患者さんが感謝してくれるのでそれがわたしの支えです)という返事が返ってきました。

時々、自分の心臓の具合が気になります。右の手首に指を当てて、脈が規則正しく打っているか不整脈がないか自分で診てみることがあります。脈拍はいつも90ほどあって速いのです。これは心臓の打つ力が十分ではないので速く打つことで血液をすみずみまで流そうとしているのです。

心臓、っていう臓器は不思議なものですね。ふつうは気にかけない存在だし、肺みたいに自分で吸ったり吐いたりも出来ない。頼みもしないのにかってに鼓動をくりかえし、止まった場合は叩いたり電気ショックを与えれば動き始めるという。これは何のなせる業なのか、想像が出来ない。人間をはじめすべての動物は心臓をもち、心臓の鼓動とともに(生)を受け、その停止とともに死んでいく。

現在、この時間に、地球上の数十億の人間達、無数の動物達が心臓の鼓動を打ち、宇宙に響いていることを想像すると言葉がでない感動を覚える。超人的あるいは神のなせる業だと考えるのはわたしだけでしょうか?

金で動く時、心で動く時

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-3-23 21:24

わたしは岡垣町の海老津駅南口開発に反対しています。そこに道路を作ったり地下道をつくったりしても利用者が少ないことは目に見えています。血税をドブに捨てる、というよりコンクリート行政で自然を破壊するだけです。町の議会に傍聴に行きましたが、結論として町長、議員、職員達は金(自分達の生活)のために動き、町民の目線がないことがわかりました。5千人の反対署名があることは忘れているようです。議論の内容もあらかじめ作られたデキレースで、真剣さがないから緊張感もなく退屈というより疲れるいっぽうでした。

そこで(金で動く時、心で動く時)というタイトルに思いついたわけです。こんなわたしはこれまで働き、つまり金で動いてきました。心で動いたこともあります。それは両親、恋人、友達、息子たちのための場合で、皆さんと同じです。今のわたしの行動はまったく金にはならないし、人のために動いているわけでもありません。自然な行動です。

道路をつくるために、金比羅山のヒノキが数百本もなぎ倒され、地面が削られて赤土がむき出しになっています。山の五分の一はなくなるでしょう。山の入り口と頂にあった神社の鳥居、二体とも倒されました。ユンボのエンジンの音が朝早くから夕方まで一日中響いてきます。自然を破壊する音、響きは騒音というより気持ちがおかしくなりますね。この騒音は二年間続くそうです。

人は生活のために働き、金を稼がなければならない。これが今の時代、資本主義なのです。(心で動く時)は金と生活に余裕のある時ですし、わたしには今その余裕が少しありますからこんなことが言えるのでしょう。(金で動かなければならない人)のためにも(心で動くこと)を少しでもしたいと考えます。

動物に魂はあるのか

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-3-9 8:59

中公新書・金森修著「動物に魂はあるのか」を半分ほど読みましたが、西洋の哲学者の書いた著述の紹介が多く論点が絞られていないので中断しています。このテーマについては私も関心が深かったので自分なりの考えを書いてみたいと思います。

歴史は動物から人間に変化したわけですから、動物にも魂はあります。しかし、動物と人間はとりまいている環境がすごく違うので人間的な観点から見た魂ではなく(自然)に基づいた魂なのです。人間のそれよりはもっと純粋で厳しいものです。かれらは唸りや叫びまたは体から出る波動やテレパシーでそれを表現し、理解します。だから嘘や偽りはありません。人間は言葉や表情で現すのでごまかしがあります。人間は子供から大人になる期間が長いので、その間家庭や学校で昔の人間の生活や考え方・文化などを学び情緒や感性をみにつけ、人間特有の魂・心を育てていきます。動物は考え込んだり物思いにふけったりしていると敵に攻撃されて命を失うので、魂にひたることは生体のシステムとしてありえないのです。もし自分の子供が殺されて悲しみにふけっている親鳥がいたとすれば敵の格好の餌食になってしまいます。だから魂があっても発現できないのです。人間は自然界で一番強いからその余裕があるというわけです。

それに自然の動物界においては精神障害や依存症は成立しません。ここに現代の人間の精神の病の根源があり、自然界のなかにその治療・回復のヒントが潜んでいます。

以上は野生の動物について述べたわけですが、ペットの犬や猫は人間以上に心があります。同時に人間並みの精神障害にもおちいります。野生の動物にはありえません。

(魂)という言葉はキリスト教にもとづいており、それを信仰しているかいないかで左右されているので偏向性があります。信仰しない者は邪教徒でありサタンなのです。(動物に心はあるか)というタイトルのほうが適切ですし、(物質には心があるか)というタイトルも面白いと思います。風に震え声を出すトタン板や風に擦れあう竹林のそよぎは心を現していますし、音の表現で成り立っているのは音楽の世界です。ベートーベンの第九などは思想そのものを訴えてきます。

自然を見習い、もっと自然を知り、自然から知恵を学び取ろう、というのが教育の原点であり、私たちが向くべき方向なのです。自然を破壊することは人間を破壊していることです。

一寸の虫にも五分の魂、という言葉が東洋にあります。東洋思想からこのテーマに取り組んだほうが

もっと理解できるのではないでしょうか。

鳥といっしょにキャベツを食べる日

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-3-8 2:57

700坪の土地に引っ越してきて4ヶ月ほどになります。晴耕雨読の生活を送りながら、この土地で余命を終えると思えば感慨深くもあります。畑地は100坪弱あって、今は毎日夏野菜に向けてスコップやクワを振るっています。天地返しをした畑に石灰、牛糞、鶏糞、米ぬか、化学肥料を混ぜ込みました。トウモロコシ、ネギ、ホウレンソウ、枝豆、大根、ミズナの種をまき、ショウガとジャガイモを植えました。畝の間で繁殖した雑草をトウグワでかきとり、種をまいた畑に自家水の水をかけました。我流で始めた畑作りもなんとか波に乗り、今後は畑を休ませることを考えました。畑地の半分を一年間休ませるわけですから、夏と春に収穫となるので4分の1が対象になります。そこは収穫の後ですからスコップで耕し、石灰をかけて、黒いブニールをかぶせます。昨年の10月にタマネギを植えたのですがマルチ栽培にしなかったためにすごい面倒をつくってしまいました。タマネギより雑草が元気よく伸び、タマネギは雑草の中に埋もれてしまい、除草するのに苦労しました。水や肥料がやりにくくなるので直接植えたのですがそれが失敗でした。苗ものは基本的にマルチ栽培にすべきですね。

鳥の被害が増えました。絹さやインゲンのサヤがいつまでも出来ないので不思議に思っていると、鳥が花を全部食べていました。花の部分がすべて食いちぎられているのです。次に気づいたのはキャベツの葉が虫食いだらけになり、無残な姿をさらしているのです。青虫に食われたと思ったのですが食べ方がどうもおかしいのです。よく観察して見るとまだら状に食われているのではなく筋だけを残して食われているのです。野鳥がつついて食べたのです。が捨てるのはもったいないので食われた部分を切り捨てて、中の部分を生で食べました。

鳥達が外の葉を食べ、私が中味を食べたわけですから、いっしょにキャベツのご馳走になった、というわけですね。これが共生なのかなと思いました。柿の枝に止まったカラスや鳥達は耕した畑に降りてきて、地面の中にいた芋虫や蛾のサナギを探しているのですが今年はそれらをほとんど見かけません。人間の起こす環境破壊のせいですね。

本田先生

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-2-28 8:49

本田先生が亡くなられたことを近所で耳にし、先生の顔が鮮明に数年前の出来事・出会いのように思い浮かびました。二、三年前に私が高血圧で開業医に通っていた時に先生がいらっしゃって、(わたしも高血圧ですたい)と見知らぬ患者に向かって言われ笑っておられた日を思い出します。70歳すぎなのに髪も黒くふさふさして、あの輝く目も55年前と同じでした。わたしは声をかけそびれ、先生もわたしに気づきませんでした。

55年前、先生は太平洋戦争の現地から帰還したばかりの兵隊でした。小学校の教員につき、私たち3年の担任になりした。当時としては珍しい黒のジャージをいつも着て、精悍な顔と笑顔がありました。サッカーが得意でグランドをよく走っていました。

その日のことです。

(お前達、廊下に並べ!)

いつになく激しい声を耳にし、クラス全員が廊下に並びました。わけがわからずまごついていました。

(母の家の生徒ー養護施設ーがこのクラスを使った後、おまえたちはなんて言うたか?)

強い口調でした。

誰も返事が出来ませんでした。

地域の集会があり、(母の家)の子供達が私達のクラスで話し合いを終えたばかりでした。

(臭い、って言うたろ!)

その言葉に皆返事ができませんでした。

(歯を食いしばれ!)

先生の言葉は連続しました。

わたしは列の中ほどにいましたが、頬を平手で叩かれる激しい音が連続し、伝わってきました。

頬に激しい痛みが起こり余韻が残ると隣から(ピシャ!)という響きが起こりました。

(俺は臭いと言ってはいなし!なぜ、殴られるんだ?)

わたしは考え、殴られた原因がわかりました。

当時はまだ戦争が終わったばかりで、親を失った子供やアメリカの黒人や白人との間に産まれた子供達が(母の家)に引き取られ、生活をしていました。人手と衣料も足りず、子供達は何週間も洗わない汚い服で登校し、人目につきました。自分は(臭い)とは言っていないが心の中で思っていました。

成人するにつれ、本田先生のビンタの意味がよくわかりあんな先生に自分の息子を育てて欲しいと思いました。

 

イジメについて

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日記
執筆 : 
nakamura 2013-2-17 18:36

(イジメ)についてしばらく考えていましたが、なかなか理解できませんでした。わたしはイジメられたこともイジメたこともあります。

今日、やっとわかりました。イジメとはテリトリー(縄張り根性)からきているのです。一時、鶏を五、六羽飼っていました。雄鶏が一羽、雌鳥が二羽ですがそこに知人からもらった雌鳥をいれたことがあります。するとそこの主であった雄鶏がすごい勢いで飛び掛り突いていくのです。相手が顔中血だらけになり、片目をつぶされても攻撃をやめません。相手は逃げ回るだけですが、死ぬまで突きまくるでしょう。

この場合は雄鶏同志のライバル意識が加わって激しくなっているのです。人間社会の現代においてイジメが流行りいつまでも止まないのは民主主義による個人主義が強まりすぎてて、戦争中や封建時代のような絶対的な思想がなくて結束感が生まれず、人間関係が希薄で不安定であるからです。ツナガリの確認のために一人の人間を的にし、暴力を振るったり、物を隠したり、笑いものにしたり、陰口を叩いたりする。その行為によって自分が仲間や組織に属しその一員であることを確認し、安心するわけです。

イジメる者は弱くて不安定な心の持ち主なのです。それが自己と同類の弱い者を見つけて、攻撃し一時的に自分の弱さをカバーしているのです。強い者がイジメるということは力学上ありません。

マスコミの啓蒙精神

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-2-17 8:35

マスコミの仕事には事実の報道だけではなく、購読者への啓発、啓蒙精神がある。マスコミが発生した頃、特に新聞などは主義主張が目的であり、それに向かってがんばっていたが組織が大きくなると普遍性を求めらにれ、それを取り入れていった。社訓をもうけて方向性をしっかりさせ、多くの視聴者に受けられようとした。今、幅をきかせている新聞社はそんな歴史をもっている。

ところが最近、マスコミは事件のもぐら叩きばかりし、日替わりメニューみたいに視聴者・購読者を遊覧させる傾向が強いくなった。この一、二年(自然破壊、環境破壊)の言葉や文字をまったく出さなくなった。出るのは政治家ごっこ、政治遊び、尖閣列島、竹島、アベノミクスの円安、経済成長、開発予算など目先のことばかりで目の裏で進行している環境破壊のことは忘れている。環境破壊は人類滅亡に通じているわけだからそちらの方がだいじであるはずなのに、本末転倒している。

わたしは今、田舎に住んでいるが、散歩するたびに小さな川までコンクリートで埋められ、車や人の通らない散歩道まで舗装され、その下で無数の生物が殺されていった事実を知る。マスコミはそのことは報道しない。(自然破壊は人類絶滅に通じている)ことをマスコミは訴えない。それは金にならないし、スポンサーの機嫌を損じるからである。

政治番組になぜ政治家を登場させるのだろうか?NHKもそうである。政治の宣伝屋、詭弁学のプロを登場させてしゃべらせ、国民に拝聴させようとでもいうのか。だから、TV番組が面白くない。政治家を登場させるならその対極にある組織や人を出して議論をさせるべきである。

(お蔭様です)と他力

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-2-16 13:25

(お蔭様です)とは日本人が日常的によく使う言葉ですが、昨日、ある人からこの言葉の意味を聞きすごく感動しました。恥ずかしいことにその言葉の裏にあるものも知らず、考えたこともなかったのです。(お陰)とは目に見えない影のことを言っているわけですが、神仏を暗に示しているわけです。目に見えない神仏のご利益のお陰という意味ですが、わたしはそこに日本文化の繊細さを感じ取ります。

欧米にだって(神のおぼしめし)などとよく使うわけですが、この言葉は神仏を直接出さず暗に示すところに深みと味わいがあります。

私も65歳になって振り返ってみれば自分が自分の意志で独りで生きてきたわけではないし、生きていくわけではないことがわかります。自然の力、先祖の力、家庭の力、友人、知人の力など省みればいくらでもあります。自分はそれら(他力)にも動かされながら生きてきました。

(人間にとって感じ取れないものは無いにひとしい。だけど感じ取っている世界はほんのわずかだから知らない世界のほうが多い)

ある人にそう言いました。

(グアム島で二人の日本人が通り魔に刺し殺されたけど、あの犯人の顔を見るとまだ子供の顔だよね。彼が独りで通行人を車でつぎつぎに轢いていき、車から降りてナイフで刺していったなんて想像もできないよ)

(そうだな。さっきのお蔭様、の言葉じゃないけれど目に見えない世界の力が加わっていたんだよ)

(そうだよ。私たちにその影に動かされてるだけかもしれない)

わたしとその人はいつもの散歩道を歩きながら、そんな会話を交えました。

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