ブログ - 日記カテゴリのエントリ
今日は岡垣町議会を傍聴しに行って来ました。2年前からいつも行っています。町と町会議員の馴れ合いが強く、退屈するばかりであまり行きたくもなかったのですが新たな発見がありました。(平成26年度第一回岡垣町議会定例会)というテーマで、議案の内容を発表し議員たちが意見を述べ確認しました。案件は24条ありインフラ、観光、社会保障、開発など多面にわたり町民にとって大事なものがありましたが、休憩時間にわたしは知り合いの町会議員に次の質問をしたのです。(なにを議案にするかは誰が決めてこの場に出すのですか?)(執行部です)と彼は町の各課の課長(20名あまり)が座る席を指しました。
(それはおかしい)
わたしは言いました。
(彼らに都合の悪いことは案件に出さないことが出来るじゃないか。議員が区の集会や日頃の活動で住民から議案を集め、出すべきじゃないか)
(そうですね)
彼は応えました。
(請願や陳情という方法もあります)
彼は言いました。
(へええ?わたしたち税金を払ってる側が町にお願いをするのですか?客がものを買ってる会社にお願いしろ、というのですか?)
彼は応えませんでした。
(わたしなら、町に指示する、という言葉を使います。町は政治運営を代行してる機関にしかすぎないじゃないですか?)
わたしは興奮していましたが、あまりの視点のちがいに驚くばかりでした。
わたしの腹の中には懸念があったのです。海老津駅南口の開発には政府が8億円の補助金を出すから住民の税負担は少ない、と宮内町長は言っていましたが、それが3億8百万しか出ないことになり、住民達の噂になっているのです。今回、10日間ほど行われる議会の場で町側はそれを伏せ、取り上げない可能性が出てくるのです。議員たちも自分の身を大事にする者が多いので、言い出せないことも考えられます。傍聴席の者には発言権がなく、声を出そうものなら、神聖な議会の業務を妨害したと言って警察を呼ぶでしょう。前回も呼ばれました。
町長や執行部が町の運営を牛耳る独裁体制が出来上がっているのです。傍聴をした意見をご意見箱に入れるようになっていますが、その内容は議員控え室に張られ住民の目に届かないようになっています。返事は貴重なご意見有り難うございました、という文章しか返って来ません。町の催すコミュニティ活動のシンポジウムには参加者の質疑応答の項目がありましたが、その順番がくると一方的に閉会しました。
24件の議案があっても結果的に議員たちは賛成し、成立するのです。すべては仕組まれていて、予告されたとおりになり、誰も阻止できないのです。国会の場合だってそうです。(秘密保護法案)も強硬採決されて成立しました。NHKの予算も成立しました。これまで通らなかった法案があるでしょうか?わたしは思い出すことが出来ません。
宮内町長はいつも言います。?住民の皆さんのご協力とご理解をお願いします。
自分のやってることに気づかないのですね。
町の職員たちは住民のことを(お客さん)と呼びます。
町長と同じレベルですね。
けっきょく、民主主義とは多数派による独裁主義なのです。独裁者が顔にお化粧をして丁寧な言葉を使うだけです。
小説「片割れ」に取り組んでいますが、半年間も筆が止まったままで先に進まないのです。散歩中や農作業中に思案したりしましたが、どう書けば良いのかわからなくなってしまった。何を書きたかったのか?はっきりしていたはずではないか?ストーリーも決めていたじゃないか?なぜ書けないんだ?それがわからなくなってしまった、と言うことだ。
作家でもないのだから放棄してもいいのだが、気持ちに芯が入らない。なにかにひたむきに取り組んでいる時にこそ満足感は唾液のように口の中を満たすのだが、これではそんな気持ちにはならない。いつまでもだ。死ぬまでこんな状態なんて耐えられない。
今、わかった。
作品を書くということは現在の生活と自分を客観視し、そこに作品のテーマと素材を考え探すことだ。自分と他者の立ってる位置を知り、確認することで行き先もはっきりさせることなのだ。禅の修業ににているが、これでわたしの人生はだいぶ救われている。どうしようもなくなって若者が通行人を車で次々と跳ね飛ばすニュースを耳にしたりするとあれは昔の俺だったかもしれない、と思い返したりするし、そんな人達に何か助言でもしてやりたい。(敗残者の講演会)など実際に開いてみてはどうだろうか?
傑作小説は書き出しで、問題提起をしている。カミュの「異邦人」?きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。養老員から電報をもらった。ーどういうこと?自分の母親が死んだというのにこの他人事のような言葉。それに死んだのが今日だったのか昨日だったかもはっきりさせない作者。この非常識さは何を言いたいのだろうか?
(自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた)ーマルケスの「予告された殺人の記録」。ー自分が殺される日を予感できる人間なんていないはずである。この書き出しは何を意味しているんだろう?と不信に思いながら読み進めていくと、あの男が殺される、という噂にまでなっているのに誰も止めることが出来ず殺されてしまう。この不条理を書き出しで暗示していることがわかる。
わたしの作品は書き出しの部分から道を反れてしまい、書いてる側も緊張感を失ってしまい、迷路に迷い込んでいたのだ。本道に戻り、題名の「片割れ」で何を言いたいのか再確認し、書き進めていくことにした。
次の文章が浮かび、道は決まった。?(遊民)のママは言った。「そんなことじゃ出て行くはずがないじゃない。わかってるでしょう?兵糧攻めにするのよ」
東京での遊学時代に、E・フロムの「自由からの逃走」という本を読みました。人間性にはまったく逆の方向性があることを知り、驚きました。第二次大戦前のドイツ国民のことです。ワイマール憲法の下で民主的自由体制を持っていましたが、ヒトラーが現れると独裁主義の監獄体制にみずから入っていったと本の中で考察していました。なるほどと考えました。わたしは今、無職で自由の身ですが、働きたい、なにか活動したいとという欲求があります。同時に集団の中で管理されたいという願いが潜んでいます。
北朝鮮の独裁体制はいつまでつづくのでしょうか?人民はそろそろ自由な生活に入っても良いのではないでしょうか?わたしの知人に精神科の授産施設で生活している人がいます。もう15年にもなります。つい最近まで退院したい、と口癖のように言っていましたが、近頃は言わなくなりました。四畳半くらいの個室で、日当たりも悪く隣部屋から咳払いも聞こえる所ですが、軽作業をしながら規則正しい生活を送っています。お金は自由に使えず、外出にも許可が要ります。酒もタバコも女もダメです。わたしが病院に入院していた頃を思い出します。脱走をはかったがために財布もケイタイも取り上げられ、5階のフロアから動かないように指示され、新聞も読めませんでした。ところが軟禁生活に耐えられない、と同時にどこか心が安らいでいました。
今は自由の身ですが、老人ホームに入れば生活や病気、死の心配もしなくて良いのにな、と考えることもあります。老人ホームは有料ですが刑務所は無料だな、などと突拍子もないことを思いついたりします。戦時中には精神を病んだ者がほとんどいなかった、ことを知り、(天皇陛下万歳の精神)でも産まれた時から叩き込まれれば、(金政権万歳)などはすぐそばにあるのがわかります。日本が右傾化の方向に進んでいます。NHK会長も(従軍慰安婦など当時はどこいでもいた)と公言してるではないですか?この変化を意識していないとまた(恐い時代)が口を開けて待っているのです。
15年ほど前に退職した営業職員は、「わたしが辞めた後、NHKはペイテレビ(有料放送)にかわっているかもしれません」と言い、わたしはその言葉を思い出します。電波を一方的に流して金を取るほうが儲かる」と言った職員もいますが、それはボッタクリですから良いことではありません。NHKの言い分は、公共放送だからこそ、視聴率に左右されない良質の番組がつくれるのです、ということですがそれは都合の良い言い方です。どんなメーカーでも大量に売れる商品ばかりを生産してるわけではありません。この商品はあまり売れないが我が社の顔みたいなものだから生産し、採算は二の次というものがあります。NHKは大河ドラマ、連続ドラマ、試してガッテン、ニュースなどは高視聴率ですが、教養番組や障害者向けの番組は低視聴率です。でもその番組を必要とし、生活に役立ててる人もいます。それは番組の配分にかかっていて、そこから採算をはじき出すわけですが採算という分野では計り知れないもののことも考えねばなりません。採算の基準を超えてもなお希少なものをつくる姿勢が本当の評価になるのです。
同時にわたしはここで(官)と(民)のちがいを考えてみたいのです。(官)の言い分は、費用対効果を考えなくていいから公共の仕事ができるんだ、ということですがそれは自己正当化にしかすぎません。鉄道の仕事だって民間がやってるのだから高速道路や一般道路だっても民営でやっていけます。そうしたほうが痛んでもいない道路を予算消化のために掘り繰り返すこともありません。交通量が増えることを予想して道路を作ったとします。最初は車が少なくて不採算でしょうが見込みどおり車が増えれば採算が取れます。
結局、NHKの民営化ということはすべての業界において官と民のちがいがなくなり、官は民に吸収されるということなのです。だから、NHKが変わらなければ日本は変わらない、と以前から、つまりNHKの依託集金人をはじめた時からわたしは考えていたのです。
NHKが有料テレビに変わって採算が取れなければ、総務省にチャンネルを半分も返し、リストラをしていくべきです。政府からの独立も出来ます。(真っ直ぐ真剣)でNHKは番組をつくり、それで勝負しなさいよ、とわたしは依託集金人の時よく言われました。
町の市民会館(サンリーアイ)の中を歩いていたら、有名人の講演会のポスターが目につきました。聞いてみたい人の名前(三浦雄一郎氏など)がありましたが、変人のわたしは成功者の話なんて聞いてなんの意味があるか?逆に敗残者の話のほうが奥が深いし、面白いのではないか?と考えました。
わたしは一般世間の目から見れば敗残者でしょう?いちおう家庭を持ち二人の息子を成人させ、自分の金で生活しているわけですから敗残者ではないかもしれないが、周囲の者達の目は容赦のないものでした。特に内実を知り尽くしている親戚の目は自分達がどんなに崇高な階級なのか振り返ったことがあるのか!と怒りたくなるものでした。
NHKの集金人をしている、ということが彼らの言い分でしたし、世間一般の人もそういう目で見る人もいます。うちの家系から集金人が出た、と言ったのは母親の弟夫婦でしたし、そんな仕事をしてるなんて人に言うじゃないよ、と言ったのは母親の妹の亭主でした。わたしはおどろき腹を立てながら、そう思われても仕方ないな、とも考えました。アメリカ人に集金先があって彼にそんなことを話すと、必要があってその仕事があるんだよ、と合理的な意見を言ってくれました。
今では(レアな仕事だな)と考え、レアを自称するわたしにふさわしかったのではないか、と考えます。先ほどのヤフーのニュースでNHKの理事全員が辞表を会長に手渡していることを見て、これはただ事ではないな、考え、わたしがこのブロッグで書いてることの臨場感を感じました。次は会長が耐え切れずに辞め、経営委員全員がやめるでしょう。ナビゲーターがいなくなります・・。
話が飛びますが、カルロス・ゴーン氏の(ルネッサンス)という本を読んでいます。経営危機に落ちた会社をいかに更正し救ったかが書いてあります。事実が正確に書いてあり表現力も素晴らしいので夢中になっています。白紙の状態で人や物事をみる、物事に優先順位をつける、出来ることはすぐにやる、会社全体をすぐに見れる部門をつくる、わたしはヒーローではなく働く労働者がヒーローである、など経営危機を予測されるNHKに必要な要素がたくさんあります。わたしが彼の経験と思想に興味を覚えたのは岡垣町役場のような国からの補助金と住民の税金にぶらさがっている公共団体を民営化するにはどうしたら良いか?を彼の本から少しでも勉強させていただきたいからでした。ゴーンさんは成功者です。わたしが敗残者であったとしてもお互いが社会で学んだこと、そこから出た知恵・教訓はほぼ同じなのです。両極端が一致するのです。世間はゴーンさんの方にに耳を傾けるでしょうがわたしに耳を傾けても同じなのです。
いつか、(敗残者の講演会)というものが開かれることを期待しています。
NHKと同じく存在に疑問を向くのは公務員であり、公共団体である。特にわたしに身近な地方自治体ー岡垣町役場の存在を考える。ここは封建時代の領主の世界で高い年貢(税金)を取り立て、職員、町長、議員その同族たちが団結して利益・利権を漁っている。一部の議員には良心的な人がいますが、住民のために頑張ると利権屋の中で孤立する状況です。この世界には競争原理や責任がないので開発という美名?のもとに自然破壊がまかりとおっています。
なぜ、公務員という制度があり公共団体でなければならないのだろうか?民間とどこがちがうのだろうか?わたしに言わせるなら、役場の仕事など法人に委託させ競争入札をさせるべきではないか?低い予算で良い仕事をする会社に任せたほうが良いのである。専門性を要する仕事は研修で教え込めばよい。地方公務員試験に合格しなければ出来ない仕事ではないし、逆にペーパーテストに合格し世間のことも世間の仕事もしたことのない者に町作りや運営を任せること自体がまちがっている。人に満足を与える仕事をしていないからストレスがたまり、公務員は不祥事を起こしやすいのだ。職員も依託された会社の社員になり、業績が良ければ出世し高給をもらえるようになったほうがやりがいがあるはずである。町役場や市役所などに用事があって行った時、顔を出す職員には独特な雰囲気と表情があり、それは民間の社員とはあきらかに違う。安倍総理はオリンピックや憲法九条改悪に精を出すより公務員・公共団体がほんとうに必要かそこから手をつけるべきではないか?
NHKの委託集金人の仕事を離れて一年半になりますが、時々思い出したり夢に見たりします。調査や偵察の面があるので一般の労働者とは異なる心理状態があります。仕事である地域に入り、バイクで回っていたとします。目の前のアパートの二階のベランダに若い女が姿を出し、洗濯物を干していることがあります。未契約者だとすぐに判断し、バイクをアパートの前まで走らせます。気づかなければいいが、と願いながらバイクを止め、階段を上ります。部屋の前に立ってチャイムを押し、返事を待ちます。いつまでも返事も物音もないのでもう一度、押し、ドアをノックします。返事も物音も返ってこず、中は沈黙状態です。
諦めて階段を下り、ベランダの下まで行って部屋を見上げます。窓は閉まり、カーテンもぴったり閉ざされています。
彼女はアポなしではドアを開けないタイプか、わたしの正体を見破った者かどちらかですが、無理押しはできず、次の対象物に向かうだけです。
ある営業部長は現場の仕事にすごく熱心な人でした。(部長、台風が近づいてますね。こんな時はバイクで箸ってはいけませんよね)と言うと、(そんな考え方をするのはあなただけですよ)と言い返され、唖然としました。
ところが彼はある日、次のように言いました。
(この仕事はまるで空気をおしているようなものですね。ドアを叩いても返事もない)
わたしは彼が現場を理解したことを知り、満足でした。
仕事である地域に入ります。ワンルームマンションが三棟あり、一棟につきおよそ百人の入居なので全部で三百人、未契約者はその半分だと検討をつけます。百五十軒の部屋のドアのインターホンを押していけば悪くても一件の新規契約・住所変更・BS契約はとれるだろうと想像します。時期にもよりますが、四月五月の移動シーズンを除いた場合ですが、インタアーホンへの返事はほとんどOです。二時間三時間インターホンを押していっても、(空気を押すような仕事)がつづくことは珍しくありません。会長発言による視聴者の苦情や支払い契約拒否が現場でおこっていることは想像できます。移動が始まる直前の状況です。年度末の業績確保の圧力がNHKから現場担当者に来ています。
わたしは今その戦場から離れています。
23年前、NHK福岡に採用され、集金・契約の仕事をはじめましたが、テレビとは異なる印象をうけて驚きの一言でした。目を疑いました。近くの競艇場に古株の職員が仕事中に通ってるという話を耳にしたり、集金人をうまく使って業績をあげんかい、と人に聞こえる声で営業部長が話していたり、引越し人夫(引越しの作業員)という言葉を彼が発したり、私達は名刺を持たないのですか?と訊くと、おれたちだって名刺を持ってお客を訪問しない、という言葉が職員からかえってきたり、私達の事務費(給料)の明細書がボックスの中にむき出しで入れられていたりしていました。まだいくらでもありますが、わたしは内実を告発するのが目的ではなく、NHKに立ち直って欲しいから書いているのでスキャンダルを必要以上に暴露する気持ちはありません。あなたはNHKのお世話になりながらよく批判するね、といわれたこともありますが、民間企業であれば自助努力でやってるわけですからお世話になったという気持ちになりますが、税金みたいな形でとりあげているわけですから払ってくれた視聴者に感謝しかれらに本当のことを伝えるのが使命だと考えています。
職員たちは与えられた仕事をやっているだけで組織のスローガンが何なのかあまり考えません。この前、岡垣町役場に行って職員に役場の今の目標は何なのか?と訊いたところ答え切らなかったのと同じです。民間企業の社員であればすぐに答えられます。それはあって良いことですがセクショナリズムの弊害が出ていました。自分のチームさえ良ければそれで良い、自分さえ業績がよければそれで良い。放送部がどんな番組を出そうと営業の目標達成ができれば其れで良い、という考えです。(紅白歌合戦)の制作担当者が数億円を金を使い込んだ時、営業のセンター長はみんなの前で次のように言いました。あれは放送部のやったことで営業部がやったことではありません、と。
NHKの場合、同じ営業部でもチームがちがえば別会社と同じ、という話を職員から耳にしたことがあります。4チームまでありましたが、目標の達成率でチームどうしあるいは全国の局所どうし、集金・契約スタッフどうし毎週結果を出して競争をさせていました。業績がわるいと委託集金人の給料はさがりますが職員は関係ありません。自分たちの給料は経費削減されているよ、といいますが定期昇給はきちんとあり下がってはいないのです。公言していることにはすべて裏がありそのまま信用することは出来ませんでした。
ある部長はいろんなことをわたしが追及すると、役割分担という言葉を用いましたがその言葉の持つ弊害には気づいていませんでした。委託集金・契約人が新聞にでるようなトラブルを起こし、NHKがコメントを求められる時、あの人は職員ではないのでNHKと直接関係はありませんが、という前置きからはいるのです。新聞販売店の従業員がトラブルを起こした時、新聞社はこんな前置き・責任逃れ的な前置きはしません。
NHKは数百年までの徳川・幕藩体制のままです。身分制度、セクショナリズム、無責任体制、権威主義、非効率など悪い見本がたくさん残っています。(幕藩体制・官僚主義)といったほうがいいでしょう。これを改革するのは内部の者では出来ません。カルロス・ゴーンさんみたいな外国人が的確でしょう。
まず、組織の中心点・基本に戻ることです。公平中立な番組、決して視聴者のご機嫌をとるのではなく人類・自然からの視野にたった啓発的な番組、普遍性に基づいた番組をつくり、政府の介入を毅然と拒否すべきです
団体交渉(労働組合での)や営業のチーム会議においてあまりに喋り、また興奮するので職員や集金スタッフから一目置かれていました。NHKのご意見番と言われるのは良いほうで、陰でキチガイともささやかれていました。わたしが話した内容は団体交渉での議事録にのっていて、上層部が採用したのも少しはあります。
何を話したか思い出せるものを書いてみます。慰安旅行、集金スタッフの送別会、忘年会、新年会の廃止など経費削減はしていますが、電気代、電話代、パンフレット、書類の削減はしていませんし、削減の目標もありません。パンフレットや書類は年に一度は更新されますが、古くなって廃棄される量はそうとうなものでそのデータもつくっておらず、発覚しないように局に持参させるようにしています。本当の経費削減に取り組んでください。
今回のような大問題が発生した場合には集金人にチラシを持たせて、苦情のある視聴者は営業副部長に電話を入れるようにしています。NHKのほうから電話を入れて対応すべきではないでしょうか?受信料の領収書はハガキで郵送していますが、二枚目の用紙は住所変更届け、衛星放送契約書になっています。情報や金をとることに熱心なのはわかりますが、そこに視聴者の意見や番組への感想を書いてもらうべきです。職員や視聴者からのNHKへの批判・意見・クレームは感謝をもってとりあげ、改善・改革に反映すべきです。職員やスタッフに改善提案をさせて良いものは評価すべきです。民間のメーカーはそれを義務付けて賞金まで出しており、それによって働く者の参加意識を高めています。会長や経営委員は総理大臣が任命するのではなく、内部や外部から立候補してもらい職員がネットで投票してはどうでしょうか。このままではいつまでも為政者の私物になってしまいます。
受信料の法的督促はやめるべきです。良質の番組をつくり、それを観る人が払う体制でじゅうぶんだし、これまではそのやりかただったのです。日本人の90パーセントは良心的な人で、観てるのに払わないという人はほんの一握りです。番組のPRばかりでなく受信料の案内・PRもすべきです。職員の報酬が高すぎると指摘しましたが、カットはしています、という答えでした。定期昇給はしているので実はカットにはなっていないのです。
縁故採用はやめろ、職員の給料も業績に応じたものにしろ、スタッフばかりを痛めつけるな、などなどいろんな意見を出しましたが今回の事態です。大きな変革に取り組まない限りいつまでも続きそうです。日産自動車を倒産間際から救ったカルロス・ゴーンさんの本を読んでいます。改革のやりかたで素晴らしいことがたくさん書いてありますが、もっとも印象に残っているのは次の言葉です。この改革のヒーローはわたしではありません。日産自動車の一人一人の社員、および関係者です、と書いています。
この言葉は今でも心に焼き付いている。委託集金人として働いていた20年前、統括係長に言われたのだ。あまりに議論好き好戦的なわたしは集金・契約取次ぎ業務でいつも上位の成績だったが、客とのトラブルも群を抜いていた。(お前が営業の仕事をやってるだと?もっとも不向きな仕事によくついたもんだ)大学時代の親友にも言われ、おまえは権威をかさに着る男でもある、と付け加えられ、見抜かれてしまったわたしは照れ笑いをしていた。
この仕事ほど自分の姿を映し出してくれたものはない。その口の利き方は客に対するものですか?その顔つきはなんですか?お金をもらおうとする者の態度ですか?高圧的ですね。いきなり人の家に来て金を出せ、なんてどういうことですか?警察を呼びますよ、と言われて実際、警察が来たこともあった。
NHk営業部にはわたしに対する苦情の電話がひっきりなしでかかり、担当職員は根をあげていた。そこで、あなたは仕事で個人を出したのですね、と係長に言われたのだ。恥ずかしながら、そこでやっと、仕事で個人を出してはいけないことがわかり、10年、20年とたつうちに放送法32条(当時の支払い義務の条文)を捨てていった。それは剣を捨てたに等しかったが気分が楽になった。客の言い分をじゅうぶんに聞いてやり、公共放送について相手と考え、話し合った。
その心境にたどりつくまで20年ほどかかった。わたしはよほど世間とづれた男であったと痛切に思うが、仕事では個人を出してはいけない、という常識に疑問を抱く。日常生活の中でスーパーに買い物に行ったり、銀行や町役場に行ったり、電車に乗ったりするが、出会った人がマニュアル通りの対応ではなく個人を出してくれた時ほど親しみがわくことはない。出したほうも自分の個性を認めてくれて嬉しいし、満足するのだ。ストレスも少なくなる。
多様性の時代である。多様な個性や意見を出し合ってこそ良い社会、強い組織が出来上がるのだ。優秀な企業はこのことを知って組織作りに取り組み、不祥事はおこりにくい。つまらない組織ほど権威にへつらい、排他性が強く、パーツ(部品)的な者が多い。