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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

法律なんて金でつくれるじゃない!

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日記
執筆 : 
nakamura 2014-2-7 16:59

 これも名もない人の言葉で、今でも心の中に残っています。

 NHKの集金契約業務で、宗像市のある戸建て団地を回っている時でした。契約をお願いするわたしになかなか同意してくれないので、受信料は放送法で払うように決まっています、と言ったのです。その応えが、そんな法律なんて金を出せばつくれるじゃないか!という反論でした。わたしは驚き返事が出来ませんでした。法律とは国家体制の維持、経済生活の維持、社会生活の安定、犯罪の防止など必要性があって定められていると考えていましたがこの意外な言葉に圧倒されるばかりでした。NHKが金を出してつくらせた、とも受け取れる言葉に尻尾を巻いてしまいました。雇用関係がある立場であれば会社に帰ってから上司や同僚にたずねることも出来ますが、仕事が終わればそのまま帰宅する毎日です。どう考えてもわからず、毎日毎日が禅問答のような仕事に追われ忘れてしまい、その言葉には二度と出会いませんでした。

 今振り返れば、その中年男性が意味した言葉にはある種の真実がひそんでいることに気づくのです。彼とは一度しか会っていませしどの家に住んでいたかも記憶にありませんが、今度会うことがあったら膝を交えたいものです。そうなのです、金を出せば法律は作れるのです。もちろん、国会での議決が必要ですが、議員や政治家に多額の献金をし、選挙の応援をしてやればかれらは要望に応じ活動します。法律も金で動く場合があります。

 この世の仕組みとは教科書に載っていることでもなく、識者や権威者が言い、マスコミが話すことでもありません。それは闇の中に隠されたまま、わたしたちをしっかりと咥えているのです。社会の底辺で働き、NHKの集金をしているというだけで蔑視されたわたしにはその闇の姿が普通の人人よりはっきり見える自信があります。

名もない人の言葉

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-2-5 21:43

 わたしがNHK集金人の仕事を23年間もつづけられた理由の一つには名もない人の言葉や考えに触れることが出来たという環境があります。それは学校の授業やマスコミからは仕入れることの出来ない貴重なもので、時々思い出しては感心します。自分の貧しい想像力でも思いつかないものでした。

 (受信料を払うと何か良いことがあるのですか?)

 ある主婦の質問でした。

 当然わたしは受信契約をするように言ったのでした。

 その返事がその言葉でした。

 わたしは説得する言葉が思い浮かびませんでした。放送法の条文を持ち出すことは簡単でしたが、  その言葉はそんな次元のものではありませんでした。

 (何か良いことがあるう?)

 と反芻しながら、何もいいことはありはしないじゃないか、という結論におちいり、(お邪魔しました)という言葉を残して去った記憶があります。今でもそんな質問をもし受けたら答えられないでしょう。

 そんな仕事の中に置かれて、ある日の全体会議でこんな質問を局長にしてしまいました。当時は委託集金人は月の1日に出局し、営業部や放送部の管理職を前にして座り協会内部や業務の話を聞いていました。わたしがそんな質問をしたがためにその後、質問の場は無くなりました。

 (受信料制度のある国とない国とではどんな違いが出ますか?)

わたしは手を挙げて、尋ねました。

局長は答えることが出来ませんでした。多分あまりに突拍子もない質問なので答えきらなかったのでしょうがわたしにとっては重要なことだったし、大事な内容だから局長レベルであればやすやすと答えられると考えていたのです。

 局長が答えないので議題は次に移ってしまいました。

 全体会議が終わった後、わたしは担当の統括係長に呼ばれました。個室だったので秘密裏の話だったのです。

 (あなたは誰かの紹介でこの仕事についたのですか?)

 (いいえ、新聞の求人広告で知りました)

 (あー、そうですか)

 それだけで話しは終わったのです。

 いつまでもこの出来事がわたしの脳裏には残っています。彼が本音を出さなかったので疑問と不審が尾を引きました。わたしそしてその質問の背後を探ろうとしたにちがいありませんしそんな質問はするな、ということしか理解できませんでした。現場でほとんどの集金人達が悩まされるこの疑問にNHK自体が答えられない、という不信感に絶えず困窮させられました。

 公共放送は視聴率や採算に左右されることのない良質の番組をつくることが出来るのです。視聴者に事実と真実を伝え、そのことが日本と世界のためになるのです。だから受信料制度を日本はもうけているのです。

 10年ほど前までNHKは営業のパンフレットに以上の文面をもうけていました。昨今経営委員の発言をめぐってマスコミの批判にさらされていますが、すべては役職者の見識にかかっています。番組のPRや料理番組、スポーツなど無難な領域の制作づくりしか評価しない役職者ばかりであれば先は見えていますが、そんな状況を見据えて本当に必要な番組づくりをすれば観る者は観ています。ともかく良質の番組をつくるべきです。

 

NHKは国営放送である

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-2-5 11:27

 昨年の12月24日をもって、わたしはNHK福岡放送局営業部の委託集金人を解約しました。解約届けの用紙は白紙のままでしたが、統括係長のいうとおり一身上の都合という理由を入れ、わたしにも異存はありませんでした。

 仕事をはじめて23年間になりましたが、老齢と心労・不摂生が加わって狭心症、心筋梗塞、バイパス手術と体に異変を与えました。手術後は体調は良く散歩、野菜作りと体をうごかせたのですが左目の半分の失明、時々のめまい、右目のショボショボ感などが治らず、冬場での長時間のバイク運転は無理だと判断しました。体が凍えてしまうような状況は心臓にも良い筈がありません。今でもこの判断は正解だったと思います。

 NHKという摩訶不思議な組織、時には素晴らしい番組をつくる放送局の一集金人として働いたことはわたしの人生に経済的メリットを与えてくれたと同時に稀有な体験をさせてくれました。あらゆる人間を訪れ受信料をいただく(番組を観ても観ていなくても)という仕事は国民との関わりにおいてわたしという男をリトマス紙のように炙り出してくれました。あらゆるトラブル・活動の中で自分の姿がはっきり見えました。

 今後はNHKのこと、そこで働いた自分のことを書いていきます。

 さて今回のテーマですが、マスコミの紙面づくりのローテーションのひとつです。天皇制、教育、経済指標、北朝鮮問題、中国問題とメニューはたくさんあるのです。何ヶ月おきにテーマを代え、読者を飽きさせないためのものですが、NHKの籾井会長の発言が端を発しました。戦争中は従軍慰安婦の問題などはどこにでもあった、ドイツやオランダには飾り窓があるじゃないか、という内容ですが、NHK経営委員を安部総理が任命したという時点から今回の事態は起こってっていたのです。総理が自分の意にそう者を任命できるというこの制度じたいが大いに問題をかかえているわけですが、同時この件に対して抗議をしない日本放送協会労働組合に対しても不審を感じます。経営委員と同じ考えだとみなされても仕方ないでしょう。

 次に起こったのは、百田経営委員が都議選の選挙運動の中で、南京虐殺はなかった、と言ったことです。個人的な活動の中で言ったたことなので経営委員の立場ではない、と答え、それはそうだと思いましたが、今日の朝刊には長谷川経営委員が、新聞社で自殺した右翼を礼賛した、と第一面に報道されています。マスコミは素材を連鎖的して報道しますが、各経営委員の本心を連続させたこの流れは、内部者の告白でありNHKがみずから国営放送であことを検証したにすぎません。同時に政治の方向性に強いベクトルを与えました。

 それにNHKの番組の偏向、いい加減さが如実に現れてきています。特番においても政治的・社会的重要番組をとりあげない。一週間前はめずらしく(東大全共闘)をとりあげていましたが、公平中立が使命だからという理由で問題提起になりそうな番組はつくらないが、安部総理の顔写真だけはほとんど毎日テレビに出し、事前運動の片棒をかついでいる。ニュース番組においても昼のニュースに使った場面をそっくりそのまま夜のニュースで流したり、BSのチャンネルを三波も持ちながらBS2をかってに中断したり、BS1と両方で流したり民間会社ではしないことを平気でするようになった。視聴者への説明もない。

 なぜ、このように変質していっているのでしょうか?

 それは受信料を法的に取り立てる自信があるからです。支払い拒否者や滞納者を法的督促にかけ、裁判にかけていったからです。現場の委託集金人を法人委託に代え、経費を削り資金的な余裕があるからです。これからも法人委託を進めていくでしょう。どんな番組をつくっても受信料が入る、ということはNHKにとっては都合のいいことですが、自ら自分の首を絞めていっていることに経営委員たちは気づかないでしょう。職員たちも40歳にして平均年収が1000万円をくれる組織に批判なんてしません

 テレビがパソコンと入れ替わる日はちかいのです、映画がテレビと入れ替わったように。そんな時でもNHKの番組だけは絶対に必要だといわれる基本姿勢を持っていなければ、国営放送に戻るか消滅してしまうかでしょう。

 受信料制度が変われば日本は変わる、変わらなければ(長いものに巻かれる)国民性はいつまでもかわらない。集金業務を始めたころからわたしは考えていました。

 

 

 

凸と凹の不思議な世界

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-1-21 2:50

 

 

 

        凹

 

 この絵は何に見えますか?わたしはこれがデコに見えるかボコに見えるか問うています。

 ボコに見えるという人、デコに見えるという人がいるでしょう。ボコに見える人は下から見、デコに見える人は上から見ているのです。見る位置と角度によって物事や状態は正反対のも見えるのことに気づきませんか?快感・苦痛、素晴らしさ・つまらなさ、幸福・不幸、善・悪、楽しさ・苦しさ、生と死など人間世界のあらゆる対立観念をこの絵に入れてみれば真逆な世界は見る角度が異なるだけで、実は同じものにすぎなかったことがわかります。

 わたしたちはいつもその時に立っている位置、そこから見える形に振り回されています。金持ちになったから良かった、貧乏になったから不幸、健康になったから良かった、病気になったから不幸、良い異性に出会ったから幸せ、いやな異性に出会ったから不幸、などと気分の落ち着くことは少ない日々です。

 上の絵は異次元世界に反転してみればぴったり重なり、同じものであったことになります。

 鍵と鍵穴の関係にも似ています。

 社会の出来事や人間模様も単純化してしまえばエネルギーの作用と変化にすぎないでしょう。

 楽は苦の種、苦は楽の種、とわたしの母親はよく言いましたがその言葉が思い出されます。楽が多ければ多いほどその裏には苦が潜んでおり、苦が多ければ多いほどその裏には楽が潜んでいます。いつまでも苦しい状態がつづくわけでもなく、いつまでも楽しい状態がつづくわけでもありません。

 冬の寒い時、暖かい風呂に入ればすごく幸せな気分になります。ところがいつまでも入ってはおれません。外に出て冷気に当たり、また体が寒くなって暖かいものを求めたくなります。

 これが人間の一生です。単純といえば単純なもので、けっして難しいものではありません。

 こんなことに近頃、気づきました。

 

 

 

 

                

   凸

     

恵まれぬ子供と名指されて輝く目

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2014-1-10 20:49

 新聞の広告で、こんな写真をよく見ませんか?開発途上国の幼児の顔がモノクロ写真で現れていて、恵まれない子供達に愛の募金をお願いします、というタイトルで、食料やインフラ、筆記具や本を与えて幸福な社会生活をさしあげましょう、と書いてあるのです。書いた本人はもちろん高度資本主義社会に住む人ですが、広告をよく見ると、その幼児の輝く目は近頃の日本ではうしなわれたものだとわかるのです。開発途上国に資本主義が導入され利便性や快適さでうるおったとしても、それと反比例して輝く目が消えていくことを想像させられます。広告の文章を書いた人は仕事上そんな言葉が浮かんだのでしょうが、それにしてもその広告の文章を見るたびにわたしは逆に文明生活の精神的な貧しさ、文明人の思いあがりを自分もふくめて感じとってしまいます。

 昨年の10月に岡垣町町議会の傍聴に行きました。その場でこんなことが議員から提案されました。小中学校の教室にエアコンを設置してくれということです。それには一億円以上の費用がかかるということで否決されましたが、団塊の世代である議員が述べたことにおどろきました。その世代の者が小中学生の頃は寒い時は体を動かして暖めろ、と教えられたはずで、今でも子供はそうすべきだとわたしは思います。

 すっかり世の中が変わってしまいました。昼下がりに住宅街をあるいてもほとんど人と出合ったり、見かけたりすることはありません。寒いので屋内でストーブにあたったり、コタツに入っているのです。わたしが幼い頃は大人は庭で畑仕事をしたり、子供は路上で縄跳びや石蹴りこま回しをしていたのです。そこでは歓声が上がり笑いがありました。イシヤキイモやラーメン屋台が呼び声をうねらせていました。

 今あるのは(気配の消えた路上)しかなく、野良犬も野良猫も浮浪者も消えてしまいました。

神は素粒子の中に存在する

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-29 18:20

 素粒子は物質の最小単位である。生命体は物質で構成されているからその最小単位は素粒子であり、分子や細胞の活動の基本にもなっている。地球が生命体と言われるのは動物や植物界の連鎖や循環の活動が人体の血管の構造と活動に似ていることからもからも証明できるが、その活動の根源は素粒子である。破壊されたり消失した臓器をIPS細胞が再生するが、その過程を調べていけば最終的には素粒子の活動であり、逆に増えすぎる人口やその男女の割合を調節しているのも素粒子の活動である。人体でいえばウイルスが進入してくれば白血球を送って攻撃するのは生命力であるが、人類だけではない地球の生命体そして宇宙の生命力を保っているのは神であろうが、そのエネルギーは素粒子にある。

 では素粒子の活動を支配しているのは何か?

と言う疑問がわいてくる。

 それは素粒子自身の性格と特性にあり、支配や被支配といった人間用語では説明出来ない。支配・被支配、進歩や退化なども物理化学の世界では単なる変化でしかない。素粒子どうしの結合や衝突、分離、変化などはそれ自身の動きであり、大宇宙と小宇宙がリンクしてるようにそれ自身の活動の原点が神であり、その活動の総体も神の力である、と言える。キリスト教で(人は神の子)というのはその意味で真理をついている。このように考えると神とは物質のエネルギーであり、それは素粒子のエネルギーにもとづいており、総体としてもっとも強いものの力によって左右され総体自身も変わっていく。生物界において雄と雌をつくり、競争原理によって強くなりすぎた人間の数を減らそうとする力も総体のベクトルが物理的に反転したにすぎない。物理的な反転は神の意図だとなぞらえることが出来るし、自然界のエネルギーと活動そのものが神の力の表現である。環境破壊が人災を産み、人間に犠牲をあたえるはも自然の法則であり、神の意図だとも言える。 

水も肥料も農薬も要らない野菜作り

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-23 8:36

 近所で自然農法を実行してる男性と知り合いました。石丸さんと言う方で、65才です。話をうかがって、一番驚いたのは山中に菜園を作っていて、肥料・農薬はおろか水さえやらないというのです。

 「水はどうされてるんですか?」

 と訊くと、

 「ほら雑草を野菜のそばにじゅうぶんに植えてますから野菜はその水を吸収します。また枯れ葉を畝の上に敷き詰めていますから水分の保全をしてくれますし、夜露がおりて水になり、畝の土に吸収されます」

 と淡々と話してくれました。

 自然農法で肥料・農薬を使わないのは知っていましたが、水も要らないというのは初めてでした。

 石丸さんの農園は道より三メートルも高い位置にあり、その北側は崖に近い状態で、土は赤土です。成育状態を見るとサトイモは根の部分が一般のものの二倍もあり、ホウレンソウ、大根、ごぼう、白菜などは野生の顔をしていてパワーがみなぎっていました。

 「でもここまでくるのに五年間かかりました」

 と彼は言い、

 「今では畑を耕したり草をぬくこともありません。畝の通り道に置いている枯れ葉を畝の上にのせたり、雑草の根から上の部分を切って苗のそばに置いたりします。雑草の根が耕してくれますし、葉っぱが肥料になります。わたしはナマケモノですよ」

 と言うのです。

 そう言いながらも私は彼の苦労がじゅうぶんにわかりました。畑の周りは竹垣で囲んでイノシシが入らないようにしていますし、枯れ葉を拾って運んできたり作業はいくらでもあります。でもそれは自分の王国をつくる楽しいものです。小中学生達にこの作業をさせればきっと顔を輝かせることまちがいありません。

 この農法は家庭菜園には通用するが大規模農園では無理だ、ということですが、このやり方が増えていけば肥料をやって害虫が増え、その結果、農薬を大量に使用する事も減り、自然にとっても人間にとってもありがたいことです。

 わたしは彼の教えをいただいて、自宅で毎日自然農法に取り組んでいます。

超自然の免疫力とは?

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-22 19:01

 超自然は生物を雌雄に分離し、競争原理を働かせてかれらを増殖・繁栄させていった。その中で人類は知能を発達させ、文明を発明して天敵を遠ざけ、生物界の頂点に立った。異常に繁栄ていった。資本主義・多数決原理を維持するために快楽や利便性を利用した。原爆・原発を作り、除去するのに十万年以上もかかるという放射能まで作り上げてしまった。ここで超自然はこのままでは超自然まで破滅させられると考え、ベクトルを変えることにした。人類の異常増殖を抑えなければならないと判断したのだ。消化器官や皮膚、肺を通して汚染物質を人体に吸収させ、あるいは体内で変化させて生殖機能にブレーキをかけた。性同一障害者、認知症患者、草食系人間を増やし、人口の抑制をしていった。最終的には単細胞時代に戻せばいいのである。単一種になれば、感染症にかかった場合は全滅するし、競争原理も失って弱体化するだけである。そうなれば超自然をおびやかすこともない。

 わたしは現代という時代をこのように理解しています。超自然を(神)と名づける人もいますが、わたしは宗教が嫌いだから、X(エックス)と名づけたい。Xは存在すると信じていますが、特定するのは不可能かもしれません。自然の総体をコントロールしているものです。

 超自然の免疫力と言えるものです。

「片割れ」?次回作のプロローグ

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-15 18:05

 人間がアメーバのような単細胞であった時代、雄と雌の生殖器官はないというよりまだ未発生の段階であった頃のこと。動物と植物は分かれておらず、性別もなかった。細胞分裂で二つに割れ、際限なく増殖するわけだから性差は不要であった。ところが大きさ小ささ、高い低い、あるいは暑さ、寒さなど差異と格差がたがいにエネルギーを産み多様性をもたらすこと、それがひいては地球の繁栄になることを超自然は知った。それは普遍的原理になり、生物達はそれに支配された。その指示によって生物は動物と植物に分かれていった。次に生殖器官を発生させた。動物達は雄と雌に別れ、植物は雄しべと雌しべをつけた。初めはその二つは同じものであったが突然変異が起こり、交接・交配して多品種が生まれ、競争原理が生まれたのだ。超自然の狙いであったのだ。精嚢と卵巣も本来は一つのものであったが動物の体の中で分かれて誕生した。クリトリスとペニスも分かれて発生し、付属器官を広げて発達していった。それが男と女である。その二つはその状態で世に出てしまい、異性を求め続け繁殖していった。元の片割れを求め合うことは本能として残り、死ぬまで狩と求愛行動をつづけ、結合するまで安定しなかった。激しさのあまり殺し合いをすることもまれではなかった。

木の葉の生涯

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2013-12-14 12:26

 いつも散歩する山道に車で出かけ、枯葉を集めました。十センチほども積もった枯葉は乾いていて、触っても気持ち良いものです。両手で包むとサラサラしました。薄い朝日をあびながら松葉ホウキではき集め、両手で大きなビニール袋に入れる作業はすがすがしく爽やかなものでした。田舎生活に感謝しました。10袋も詰めるとワゴン車に積んで自宅に持って帰りました。

 自宅の畑には畝が30ほどもあり、土の表面に枯葉を敷くつもりでした。前回は耕した土の中に入れてしまい、失敗でした。(不耕起栽培)の本を読むとそれでは枯葉の活用が出来ないから、土の表面に置くということでした。それでは風に吹き飛ばされるのではないか?と案じることがあって埋め込んだのですが。

 一輪車に積んで枯れ葉を運び、畝の上に置いていきました。土に毛布をかぶせてるような気持ちになり、いい気分でした。風が吹きました。枯れ葉を見ると飛ばず、畝の土に逆に張り付いているのです。そうだ、舗装された路面の場合には飛んでも地面の上では飛ばないんだな。

 なぜだろうか?

 木の実は丸くて、出来るだけ遠くにまで転がるようになっている。それは遠くにまで行って芽を出し、種を広げるためだ。葉は木の下の地面に落ちる。大事な仕事があるから動いたり遠くに行ってはいけない。日光をさえぎり湿気を保ってミミズやバクテリアに住処をあたえ、かれらが土を団子状にしたり枯れ葉が分解していくのを助けている。枯れ葉の縁がギザギザ状になったり内側外側に曲がっているのは風が吹いても木の下から離れないようにするためである。腐葉土になってスポンジ状になるのは根に養分を吸いやすくするためである。

 枯れ葉になる前は若葉であった。その頃は光合成を盛んにして木に養分を与え、酸素を出して動物たちの生命を守り、大気の汚染物質を付着させて雨とともに地中に戻していた。

 老いて枯れ葉になってもきちんと役割を果たし、死ねば養分になって木の成長を助ける。吸い取られて本体の中に戻り、回帰し循環している。

 もの言わぬかれらだが、自然を利用するだけの人間達よりはるかに価値があるのではないか?わたしも人間の一員だが、自然への恩返しをしたい、と考える。やがて枯れ葉みたいに本体の中に回帰するのだが。

 

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