ブログ - 202011のエントリ

体罰

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-21 22:10

  昭和29年、わたしが小学校二年生の時であった。

 地域の集会があり、わたしの教室は他のクラスの生徒に使われた。私たちは別の教室に行って、そこで地域の集会をやったようであった。

 記憶には少し曖昧な部分があるが、それから先のことは鮮明に、ほぼ昨日の出来事のようによみがえってくる。担任の先生は本田といい、戦争jから引き揚げて来たばかりで精悍な顔をしていた。サッカーが得意で、黒のジャージーを着て、すばしこく元気いっぱいであった。

 「お前ら!臭いち言うたな!廊下に並べ!」

 その声に私たちは廊下に整列した。

 地域の集会が終わり、それぞれが教室に戻った時であった。

 何かが起こる予感はあったが、四十人ほどの生徒の一番端から皮膚を叩く鋭い音が響き、近づいてきた。ビンタだとわかった。

 あっという間に、頬が痛み、焼け付いた。過ぎ去った。

 全員が叩かれ終わると、席について授業が始まった。

 (臭いち言うたな!)

 その言葉を思い出して、おれは言ってない、と考え、・・の施設の生徒の座った跡であるから、塩っ辛く臭い臭いが残っていたのだとわかった。その施設は戦争孤児が多く、黒い顔の子供、顔は黒く頭髪は金髪という子供がいて、汚れた服をいつも着ていて特殊な印象があったのである。当時は差別が問題にされない時代であったが、子供心に良くない、弱いものを苛めることは良くないことだとわかっていた。

 本田先生が叩いた意味はやがてわかった。自分は臭いとは言わなかったが心の中で思ったことは間違いなかったのである。

 およそ60年前の出来事を思い返しながら、今の時代の視点と比較し、考え込んでしまう。まず、(差別)の問題である。顔の色が黒い、というのは顔色の相違点を表現してるだけであるが、そこに優劣の意識が入った場合、差別になるから問題になるのであり、公言することによって拡散させてしまう怖さがある。差別された者の心の痛みは加害者にはわからない。

 顔色の違いで人の優劣はわかりはしない、と賢明な者は理解してスルーしてしまうが拘る者がいるから始末が悪い。アメリカの黒人差別問題はもっと根が深く、解決できそうもない。

 次に、(体罰)の問題である。わたしは自分が叩かれたことによって、差別をしていることに目覚めたのであった。叩かれなければ目覚めていなかったかもしれない。

 現代の体罰は骨折させたりして、体罰の域をはるかに超えている。罰せられて当然である。加害者はその前に暴力をふるうことがどんなことであるかしるべきである。自分は空手で、一撃必殺を学んだ者であるから、もし、相手を殴る場合は殺してしまうことを覚悟している。だから、暴力は絶対に振るわないし、振るう時は自分を殺すことだと理解している。

 

田舎暮らし

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-20 21:44

  町内の大手スーパーマーケットで、買い物籠の整理の仕事を始めて二か月がたつ。やっと慣れて、仕事の流れが身についてきたが、不思議な体験に、考えることがあった。

 まず、先輩から、暇なときは、そこの客室の隅で休んでいればいい、と言われ、彼自身は暇な時、そこでスマフォでゲームをやっていた。その言葉に従って、暇なときにATMのそばで座って休んでいた。

 「こんな所でそんなことしてたら、いつまでも終らせんばい!」と話しをしたこともない制服警備員が叫び、言い返そうとしたら外の駐車場に出ていった。おまえの仕事と何の関係があるんか!と言い返すつもりであった。すると次に出会った時、彼は駐車場に置かれていたカートを室内に押して来た。お礼を言うと、あそこは見落としやすい所なんだ、と言い、手伝ってくれていたのであった。が、不思議に思った。どの世界でも他人の仕事に手を出すことはよほどの場合でない限り、タブーであるが、そこでは、掃除におばちゃんが放置されたカートを頼みもしないのに押して来てくれたり、店長や社員などもそのようにしていることがわかった。

 同じ店の中での仕事であるからそんなことは通用するのかな?と考えていた。だがもし、駐車場のカートを警備員が押していて、ベンツを擦ったりしたら、責任はどうなるのか?など考えると、他の部署の仕事を手伝うのは良いことではない、と思い返した。

 だが、他方、手伝ったり、助けあったりすることは良いことではないか?昔の日本人は他人の子供を自分の子供と同じように育てたり、損得勘定なしの善行をしていたではないか?それが共同体を支えていたではないか?と思った。今では互いの見守りがなくなり、子供や妻の虐待が増えている。

 前に進むことばかり考えていて、コロナがやってきた。

 コロナ事変を機会に、温故知新、を見直すべきである。

黒ダイヤ母に抱かれし赤子の目

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-13 21:02

  独り暮らしをしていても、ほぼ毎日、食材の買い出しに出かける。それだけ食べていることは健康な証拠だと思うが、献立に迷うことがある。今日は、ススキの冷凍が残っていたので、鶏肉を買い、(鍋)にしようと考えていた。その残りの汁にうどんや餅を入れれば数日は献立を考えなくてもいい。

 いつもの安売りスーパーに行って、白菜、豆腐、コンニャク、鶏肉を買い、レジで計算をしてもらった。係の女は黒のツナギを着たいつもの老人を憶えているようであったので、今日は安売り品じゃなくて、定額よ、と言ってやろうと考えながら、金を払った。

 台に持って行って、ビニール袋に詰めていた。何気なく、となりで同じことをしている若い女に横目が向いた。人間の形をした小さな像が彼女と向き合い、一心に拝むように見つめていた。赤ん坊であったが、すごく小さく痩せていた。それでも目鼻立ちはしっかりしていて、まじかに迫った母親の顔を一心に見つめている。あまり見かけない体勢なので少し驚くと、若い母親は紐でしばって赤子を抱き、両手で食材を詰めながら、赤子と向き合っていたのであった。可愛いですね!と言葉を出そうとして、心の中に留めていると母親から私の気持ちを計るような気配が伝わって来た。

 そこで、(句)を考えていた。

 ダイヤのような赤子の目、・・黒ダイヤだと家に帰りついて思い浮かんだ。

 あの赤子の黒目、それはまさに祈りの中にいる目であった。頼りは目の前にいる母親しかないことを幼いながら知っているにちがいない。幼少時の頃、自分はあんな目で母を見ていたに違いない。赤子にとって母親は神に近い存在であり、自分のように老いても同じ気持ちをもっているのである。

 若い女性の自殺が増えている。このコロナ禍において子供を育てることは冒険に近い覚悟がいる。自分は、迎えを待つ身であるがあの児には未来が待っているのである。どうか、元気の育って欲しいと、心から思った。

目覚めてもまた抱く布団母の胸

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-13 7:56

  七十三歳になって、余命をあと十年だと考えることがある。あの世に逝った父母のことを想うが、父ではなく母のことがほとんどである。

 自分にとって母は特別な存在であり、今でも愛着、畏怖、不可解が残り、重すぎる存在でもある。幼少時に母に抱かれた記憶がない、と考えていたら、その頃の写真を取り出してみると、抱かれた写真があった。母の膝に抱かれているが、なんと元気のない栄養失調の青白い顔である。戦後間もなく、食料がなく、母の母乳が出ず、脱脂粉乳で育てられたのである。

 その頃、母は自分を独り、家に放置して出かけた。残された自分は這い這いをしながら、玄関間に行き、痛みがまた来ると思いながら土間に落ちた。庭まで這い出し、母を追って泣き叫んだ・・、それからどうしたか憶えていない。

 小学校に入ると母は受験勉強に追い立て、国立大付属中学校に入学(無理やり)させた。友達をつくることも勉強の邪魔だといい、受験奴隷にしたが、一流大学には入れず、最終的にはNHKの集金人になった。それを終えて、現在は年金生活の貧乏暮らしである。

 老後になって、母は子供を育てる自信がなくなった、と言いながら、それでも父の多額の借金を返し、三人の子供を育て上げ、良い家を建てて、財産を残した。

 自分が大学は卒業したが、定職にはつかず、帰郷した時のことであった。母は体調が悪くて、ベットで寝ていた。母のそばに立って、就職の話をしていたと思う。寒い冬で脚に畳の冷たさが張り付いていた。

 (そんな所に立っといたら寒かろう?こっちに入らんね・・)

 母は言い、自分は驚き、黙り込んで、去ったのであった。

 母は布団をめくりかけて自分中にいれようとしたのであった。

 ショッキングな言葉と光景は一生、心から離れはしない。

経済至上主義の破綻。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-5 22:26

  今回のコロナ禍をどのようにとらえるか?という重大局面に出くわしているのに、有識者も知名人も哲学者たちも確固とした反応を示しきれていない。政治家たちさえ、トランプとバイデンの争いになっているがどちらが当選しても経済至上主義の流れが変わるはずはなく、時代は相変わらず、モグラ叩きを飽くことなく繰り返し、マスコミはお祭り騒ぎで儲けるでろう。こちらのモグラを叩けば、あちらからモグラが顔を出すのである。

 スーパーマーケットの買い物籠の整理を週に二日ほどやっている。お客さんたちにいらっしゃいませ、ありがとうございます、と声をかけながら立ち動いていると彼らの表情に気持ちが見えてくる。ありがとう、と優しく声をかけてくれる老婦人が多く、気持ちがなごむが、男たちの鬱目ばかりが目に付いてしまう。大赤字の店ということもあって店長や次長には笑顔がなく、意地の悪い態度が垣間見える時がある。

 アメリカでは、トランプとバイデンの争いが支持者たちの内乱にまで発展しそうな雰囲気である。そこにあるものを感じる。英雄、スーパースターを私たちは待っているのである。この耐え難い鬱を叩き出してくれる熱狂を待っているのである。トランプが、おれを見ろ、コロナに勝ったじゃないか!俺についてこい。おれは神だ!などと叫び始めたら、熱狂的な群衆はついてくる、と思う。ヒットラーが出現した時代のように、群衆はスーパースターを待ち望んでいるのであるし、時代はそんな神がかり的な人間を産むであろう。

 時代は経済至上主義が破綻したのであるから、自然の普遍性を認め、自然への回帰を始めるべきである。それを言う者が出ればわたしは熱狂的に支持するであろう。自然破壊や食糧危機が叫ばれている時に、GDPやGNPを取り上げることに何の意味があっるのか?順番が逆ではないか?

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