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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

写真家は景色の中に絵を見つける

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-5 20:17

23年11月5日。久しぶりに弟と(カレーの路)に寄って、カレーライスを食べ、美味しかった。そこで話が弾み(写真家は景色の中に絵を見つける)という言葉がわたしの口から出た。日頃、考えていた言葉であったが、わたしは店内を見渡し、被写体を見つけず、目の下に空になった皿を発見した。よくみるとスプーンでかき回したカレー粉の跡が虫がはったような蛇行を見せて残っていた。弟の皿も同じであった。そうだ!と考え、この二つの皿をアップで写し、笑顔の二人を撮れば良い写真が出来る、と考えた。特別な地域に行かなくても被写体はまわりにいくらでもある。

(審美眼)という言葉を高校時代に習ったが、審美眼を失わずに生きていこう!

反転対称形

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-4 22:51

この言葉に強く惹かれたのは日頃考えていることを公理じみて表現しているからであった。ネットでも検索できるが、物事を反対に転じて重ねてみると正反対に見えていた物事がぴったりあてはまるということなのだ。たとえば鍵と鍵穴、指と手袋。手袋は指に入れられるほうであるが入れられる方を引っ張り出してみると入れる形にかわり、どちらも実は同じ形ということなのだ。

世の中の人や動きをそのような視点でとらえてみるとスッキリわかる場合がある。私は高校時代から、両極端は一致すると考えていたが、それは反転対称形という言葉に似ている。

例えばある夫婦の場合である。夫は飲む、打つ、買うの男で先祖の資産を食い潰した上に借金まで残した。妻は働き者で必死で働いて夫の借金を返した上に、息子達を大学にやり資産まで残した。夫婦とはみょうなもので相手に不足している部分は片方が補うという形をつくっていく。その夫が真面目な男で働き者であれば妻は働き者になる必要はなかったが前記のようなタイプであったから妻は必然的に働き者になったのである。そのようにして鍵と鍵穴は複雑なギザギザ模様をつくって形をなしていき、それは善悪の入り込めない物理化学的現象なのである。そのように分析すると夫婦の形はクモがはる網みたいにきれいなものに見えるし、方程式で表現することも可能であろう。

風はなぜ吹くのか?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-4 21:46

23年11月4日。きょうは夏のように暑い日でしたね。私は仕事に出るとき、寒さに備えて防寒・防水ジャンパーにズボンというスタイルでバイクにのりました。走っているときに暑さは感じなかったのですが、福津市手光の現場について歩きながら個別の家の点検を始めると上半身が蒸してきました。バイクにのって次の現地まで走ると風が吹いてきて(?)涼気を感じました。

おかしいと思ってバイクを停めると風は止むのです。また走り始めると風が吹いてくるのです。

実は風は吹いていなかったのです。バイクが停滞した大気の中を走ることで風が吹いているように感じたのです。自らが風をつくっていてそのスピードはバイクの速度と同じだったはずです。

こんなことは日常の人間関係でもよくあることです。自分が原因をつくっていながら他人事のように気付かず、指摘されてもまったくわからない。やっと何十年かたって初めてその時の自分が見えた経験がいくつもあります。人は誰しも自分の顔は鏡がないとなかなか見えないものですね。

良い事も悪いことも自分がつくっている場合があります。この風のように動きを止めてはじめてまわりの動きが止まり、状況を把握する場合があります。

愛とは親和力である?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-3 19:33

(愛)とは何か?なんて問われるとむずかしくて答えられない人が多いと思う。私だって答えられない。

そこで(親和力)という物理用語を持ち出してみた。ゲーテの作品にその題名の小説がある。

親和力とは原子、分子に一つの電子をあたえた時に放出または吸収されるエネルギーであり、放出は正、吸収は負と定義する、とヤフーで検索できた。これは男女の愛、あるいは子供への愛、人間同士、あるいは動物、植物への愛につうじるものであろう。そんなふうに解釈すると普遍的なものが感じられるが男女の(愛)はもっと複雑だからそう簡単には分析できないとおもう。

だからそのテーマはいつまでも途切れることがなく、好奇心をそそられるのである。

物理化学的人生論

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-2 23:07

高校時代の科目では(倫理・社会)に興味があったが、(人生論)に踏み込んで習うことはなかった。受験勉強ばかりであったから勉強が面白くなかったのは当然である。教育業界で働く者にとっては受験や進学こそ大事でなければメシがくっていけないのである。生徒達はある意味でメシの種にされている。大学入試など廃止すればいいものをメシの種がなくなると困る者がたくさん出るからそれはとんでもないことなのである。

人生論をもたなくてどうして社会で活動ができるのか不思議でならない。

アメリカに占領された国は独自の思想を持つことは出来ず、(人権、民主主義)をお題目にとなえるしかなかったがそれは効能を失い始めている。

話は飛ぶが(自然科学)とは自然を数学を使って分析し論理づけ、法則を探し出す学問である。では人生をそのように出来ないであろうか?と私は思う。それが出来れば思い違いや誤解や迷い、悩みが少なくなって快適に生きれるのではないかと考える。

わたしはこれに挑戦しようと思う。

人間の幸福とは?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-2 22:37

人間の幸福について64歳になるまで考えてきたが、結論がでたようにおもう。常識概念を持ち出すとややこしくなるので物質を例にとったほうがわかりやすい。酸素が燃焼し、エネルギーをじゅうぶんに発散している時、満足感、幸福感がうまれてくる。先ずは体調である。酸素をじゅうぶんに燃やせる状態であることが条件で、それは暖かい大気に触れているとき、スポーツをしている時、勉学、恋愛、ボランティア、仕事などともかく活動している時である。

そんなことはわかりきったことであろう。

ここで常識というものをいったん外してみよう。すると、人殺しをしている時、レイプをしている時、苛めているときなど常識を持ち出すと反社会的な行為であることも当事者にとっては快感をもよおし幸福なのである。だから犯罪行為はいつまでもなくならなず、これにストレスが加わると触媒の作用がくわわってはげしくなってしまう。

犯罪のない集落というのが実際、存在するのだから犯罪をなくすことはできるかもしれないが(犯罪も快楽をうみ幸福にさせる)という事実を知っていなければ犯罪がなくなることはないであろう。

時間の観念、その不思議さ3

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-31 23:29

(今日、ぼくは10キロメートル歩いた)

(今日、ぼくは1時間歩いた)

上記の二つの言葉は同じことを表現していて、空間と時間は同じものである、ということを言っている。(時間と空間は同じものである)と以前言われてその言葉を理解できなかった私は上記のように表現してみて初めてわかった。

では、時間はどんな形で流れるのであろうか?と考えてみた。

直線的であろうか?

そうであれば一直線に歩くような生活、たとえば旅をするような生活であればそうであろうが、ふつうは日々くりかえしの生活が多いわけだからリング状ではないか?しかし、まったく同じことの繰り返しをしているわけではない。

(螺旋状である)同じことの繰り返しのように見えながら昨日とはちがう部分があるから、ラセン状であると考えるべきであろう。これが正解ではなかろうか?

みなさん、どう思いますか?

時間の観念、その不思議さ2

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-31 0:17

35年前の女は別れて以来一度もあっていない。わたしの心の中ではいつまでも25歳のままである。すこしも歳を取らず、頬の光沢を浮かべてわたしに笑いかけている。近くのオンナが白粉の下からシワを時々覗かせて離れるのとはちがう。

並列している時間なんてありえないし、それは時間ではなく空間かもしれない。時間の遠近、その秩序が乱れてしまえば時間という観念さえなくなってしまうであろう。狂人の仲間入りをすることになるだろうが、そこに真実があったとしたら?

少し怖い話になってしまいましたが、時々わたしは(また、今日が終わって明日が始まる)なんて思うと時間が憎らしくなってしまうことがあるのです。

みなさんはどうですか?

時間の観念、その不思議さ

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-10-30 22:52

35年前に付き合った女の顔がまざまざとよみがえる、数秒前に会って来たといわんばかりの鮮明さで。振られたがゆえに魅力を復活させているが、今どこに住んでいるのか、生きているかどうかも分からない。二度と会えないという絶望感が渇望をうんでいる。だが、近くにいるオンナは数秒前に会話をしたのに数百年前のような時間差、隔たりがあると言うより、存在さえ消えている。この矛盾は時間の観念に不審をうんでしまう。35年前と数秒前が逆転してるばかりでなく、35年前の女は生々しく生きているのに数秒前の女はユウレイ同様なのである。いったい、時間とは何なのであろうか?確かに時間を導入することにより、文明は発達し、信じられないような機器を生んできた。例えば、カメラ、テレビ、携帯電話なと持ち出せばきりがない。昔の人からみればこれらの機器の中には超能力が入っていると考えるであろう?

だが、もしかするとこれらの機器は人間が昔もっていたテレパシーを機械に切り替えたに過ぎず、テレパシーは自然の力の一つにすぎないのではなかろうか?

 

NHKで(助けを求めない孤独死)というような題で報道されたのは3年位前のことであった。30過ぎの青年であったが,職を失い食べるものがなくなって餓死してしまった。考え直してみると、(助けを求めないのではなく(助けを求めてはいけない社会)というべきではないか?困った時に友人や親兄弟、親戚、社会に助けを求めるのは恥であり、相手に迷惑をかけることなのである。たとえ、死にかけていても。これは極端な考えだと反論されるであろう。確かにその部分はあるが、その傾向があることは否めない。

日本は困ったとき、助けを求めてはいけない国なのであり、苛められたときも助けを求めてはいけない国なのである。これは(恥の文化)と密接に絡み、戦後60年たってもこの伝統は残っている。だから世界一の自殺者を生み、イジメ、セクハラが頻発するのである。

(馬車馬のように働いて得たものは破壊された自然と空虚な心、幸福とはなんだろう?)

このテレビのコマーシャルを憶えているのは団塊の世代である。当時は高度成長期のまっ只中にあり、このコピーは少し浮き上がっていたが、資本主義の終末を予感していて恐ろしい気がする。

東北大震災を契機にして(破壊された自然と空虚な心)から(豊かな自然と満ち足りた心)の時代にかわろうではないか!

嬉しい時や困った時は大きな声で叫び、自己表示をきちんとしようではないですか。

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