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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

月夜に甘くなる渋柿

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-18 15:22

(渋柿は時空を超える)の続きになりますが、人里離れた所で育った渋柿はどうなるのか?干し柿をつくってくれる人間がいないではないか?という疑問がわき、それはその通りで、その柿は時空を超えることが出来ず、その場で熟して種を落とすしかないでしょう。

渋柿、フユウ柿、月夜柿、チンガラ柿などいろいろ種類がありますが母から聞いた話を思い出しました。いつもは渋柿なのだが月夜になると甘くなるというのです。不思議ですね、女性の生理が潮の満ち欠けとシンクロナイズするという話は知っていますが、なぜ月夜のときだけ甘くなるのでしょうか?

どなたかご存知の方は教えてください。

渋柿は時空を超える?

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-15 21:58

私の家には柿の木が10本ほどありますが、実のなりかたも木の大きさも樹齢もそれぞれちがいます。今年も車庫の屋根から伸びた渋柿は鈴なりでした。屋根に上って右手、左手と伸ばし、取り放題で、はじめて産直の店に出荷しました。5kg入りの袋で30袋くらいとれました。

そこで想像したのです。なぜ、渋柿と甘柿があるのか?不思議とは思いませんか?果樹の中で甘いのと渋いのが別れてるなんてあまり聞いたことはありませんよね。私の想像では最初は甘柿があって、鳥が実を食べ、種を落としたり糞に混じって遠くに運んだのです。と考えましたが種は大きすぎて飲み込めません。食べるときに種を落とし、遠くに運ばれることはありません。(種を保存)するには遠くに運ばれ、広がらせねばならないのです。

そこで甘柿のDNAは考えたのです。渋柿をつくってみよう。そうすると人間という生き物はそれに手を加え、皮をむいて日に吊るし、保存食にするだろう。魚の干物や燻製を作っている人間の行為を横目にして考えました。

渋柿を誕生させました。人間は口にいれると最初は吐き出していましたが、日に吊るすと甘くなることを知ました。干し柿づくりを成功させました。食べたいときに食べ、あるいは遠出するときに持参し、そこで食べて種を吐き出しました。

甘柿のDNAが考えたとおり、種は時空を超えて芽をだし、繁栄することに成功したのです。

人を襲うイノシシはテロリストである

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-13 20:30

イノシシや熊が人家に降りてき、食べ物をあさったり人を襲うことは日常的になってしまった。ハンターに撃たれて死体を写真でさらし、無残な姿を見せつけられ、そこに哀れみをいだくのは私だけでしょうか?かれらがいったいどんな悪いことをしたというのでしょうか?人間達に自分の縄張りを侵略され、すみかも餌もなくなり、どうしてくれるのか!という怒りを私は感じる。

そこでかれらは人間を襲い、無差別テロに走るのです。

私達はその警告に耳を傾けなければならない。共存共栄なのです。

隣の農家の主人は機械で田植えを終えると、あぜ道に除草剤をまきます。草が枯れて無残な姿を見せます。毒を使って植物を殺戮をするのです。それを草刈り機でかりとり、キレイにします。彼は毒が水生昆虫やカエルなどを殺すことを考えないのでしょうか。さらに稲にしみこんで人の口のなかに入ることを考えないのでしょか?ともかくキレイになればいいのでしょうね?

キレイキレイの発想が自然を破壊しているのです。春秋のいい気候のときに車のドアを締め切り、エア・コンで除湿をする人はその行為が地球のオゾン層破壊になっていることを考えないのでしょうか?

えらそうなことを書きましたが日常生活から変えていきたいと思います。

 

一宿一飯について

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-13 12:00

一宿一飯とは江戸時代の侠客の世界にあった制度である。不始末を犯した者が家出をし、宿も食い物もないとき、初めての侠客一家を訪れ、仁義を切って、一宿一飯に預かり、その恩義ゆえに一家と対立する敵方を殺すこともあったという。ヤクザ映画に出てくる(義理と人情)の世界だが、知人もいったがある意味で福祉制度でもある。見知らぬ者を泊め、食事まで出す制度や習慣が今の世界にあるだろうか?わたしの知ってる範囲内ではないのです。この(人権、民主主義)を標榜する時代にあってですよ。

戦争に負けたからといって、何でもかんでも壊されてしまったことがこれでわかります。封建時代といいながらもそこには(あわれみ)という情緒があって福祉やボランティアに代わるものはいくらでもあったのです。(すべてか?無か?)という欧米の直線理論的思考に支配されるとこのようになってしまうのです。

民間でホームステイと言う名で一宿一飯を実行してみてはどうでしょうか?夢かもしれませんが、それが実行できたとすればこの日本はすごく住みやすい国になり、幸福度においてブータンをこえるかもしれません。

写真家は災害現場に芸術を撮る

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-13 11:41

戦争や自然災害、火事の現場には凄まじいエネルギーの爪あとがじゅうぶんに残されている。新聞や週刊誌に写真が掲載されると、読者は驚き嘆き、自分にふりかからなかったことに安堵する。日常が非日常に変り、隠れていた世界が現実感をこえてあらわにされ、潜んでいた物の正体を見せつけられてしまう。想像力を超えたエネルギーが読者に迫り、ヤワな芸術家の創造力などあしもとにも及ばない。あの福島原発の被害現場。ビルの屋上に大きなフェリーボートが載っていたり、ビルの窓ガラスがすべてなくなり、きれいな壁が無数の爪で引っかかれていたり、まさに悪魔の仕業としかいいようがない。

(ダリの絵)を思い出したのは私だけであろうか?

(芸術は爆発だ!)と叫んだ画家がいたが、(芸術とはエネルギーの表現だ)とわたしはおもう。エネルギーのさまざまな色合い、力を簡潔にあるいは微妙に表現できるものが芸術家であり、そこには善悪などの既成概念は入り込まない。

すべての人間、どんな人間でも、こんな私でも、さらに動植物、物はエネルギーをもっており、それはとらえ方加工の仕方で芸術になりえると考える。その意味でもそれらはすべて平等である。(一粒の麦も死なずば)(一寸の虫にも五分の魂)などという言葉はそのことを言い当てている。

 

マイ・ダーリンと言われた日、呼ばれる日

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-10 22:11

23年1月、3月と狭心症の治療のため、入院しました。40年ぶりの入院だったので、病気のことよりも病院じたいに興味が湧きました。濃い化粧の女の人達が動きまわっていて、・・店に入ったみたいで病室も明るく、刺激的でした。1月は一ヶ月間すごして風船治療をしてもらい、3月はカテーテル治療をしてもらいましたが、あと2本問題のある血管があるということでした。患者さんとの人生談義も面白く、看護婦さんたちとの雑談も面白く、病院生活が楽しく、退院するのがいやになりました。

 カテーテル治療を終えて手術室から出た時はベットに寝たままで看護婦さんが病室まで搬送してくれ、着くと看護婦さんたちがわたしを取り囲んでくれ、VIP並みのお迎えでした。その中で私をマイ・ダーリンと呼んでくれた看護婦さんがいて夜の巡回の時、私のベットのそばに立って、寝ている私の手を握ってくれ、(こんなときなんて言ったらいいのかなあ?)って聞くと(マイ・ハニーっていうのよ)と言われそう返しました。うれしかったです。

退院の日の朝、彼女は夜勤勤務で疲れ、(お腹がすいた)っていうので(あなた憔悴した顔してるからボクの車で送ってあげようか?)って聞くと、(明日はおばあちゃんちに用事があるけん)とこたえ、(どうせまた病院にくるやろう?)って言う言葉を残し、手を握って別れたのです。

その言葉は私の病状を予期しての言葉なのか期待感なのか思い迷いますが、もしかしたら顧客としての言葉かもしれません。(マイ・ダーリン)と呼ばれる日を心の底で待っている自分がわかるのです。

 

 

自然の意志

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-7 22:09

人間や動植物には生存本能、繁殖本能があります。植物にも知性、意識があります。それは変だと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、例えばヒッツキボウです。野原を歩いているとズボンに種がくっついてあとで取るのに苦労したことがあるでしょう。種が遠くに運ばれ、地に落ち芽をだすことを考えてあんな形になったのです。ということは植物が(思考)したのです。人間のはくズボンは綿であり、動物が毛で覆われていることを知っているからそれらに引っ付きやすい形にしあげたのです。人間が違う種類の衣服を身につけるようになればヒッツキボウの形もかわっていくでしょう。

人間、動植物、生命体、それらの意志と意識の総和が自然の意志、意識になり、ベクトルを持つとおもいます。その中でかれらの生存、繁殖を脅かすものが人間だとなれば、人間は人間自身と自然のベクトルから攻撃されます。それは大流行しているウツ病や自殺、暴力、戦争というかたちになって出ているのです。わたしは宗教を否定しますが、この自然の意志と力は信じます。

シュレディンガーの猫

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日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-7 21:39

量子力学に詳しい男から、(シュレディンガーの猫)の話を聞き、驚いたことがあります。致死性の毒ガスがいつ充満するかわからな箱の中に猫を閉じ込めます。この猫は今、生きているでしょうか?死んでいるでしょうか?と問われた時、生きてもいるし、死んでもいる、とシュレディンガー博士は答えたのです。西欧哲学には直線理論的な傾向が強いとおもっていたのですが、(矛盾・対立するものが同居する)この答えにわたしは東洋的な思想をかんじたのです。

私達は日常生活において(白か黒か?)の二者択一的な考えをもたされていますが、実態は矛盾・対立するものが重なり合い同居していると思います。人間は生まれてから死に向かって成長していく、とか、崩壊へ向かっての経済成長だとか例えを出せばいくらでもあります。(人生、塞翁が馬)ということわざはまさに東洋哲学です。今の自分の状態が良いのか悪いのかは断定できず、視点をかえることによってどのようにでも変るのです。例えば病気で悩んでいれば健康に気をつけるようになるでしょうし、病気をしたこともない人だったら健康の価値もわからないものです。

今の状態をいろんな視点から見れるようになれば力強い生き方ができるようになります。

慣性の法則

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-6 20:55

高校の物理の時間に(慣性の法則)というのを習いました。物質には一つの状態を保とうとする習性がある、というのです。これを人間に置き換えてみます(昨日、ある会での討論で、私は人間を特別視せずに物質と定義づけたほうが理解しやすい、と発言し不審を買いました)と、散歩してる状態、休んでいる状態、働いている状態、といろいろありますがその状態を保とうとする習性があることはまちがいありません。その法則から人間の生活・行動を分析するとよくわかります。

ガルシア・マルケスの(予告された殺人の記録)という小説にそのことがよく書かれています。ある男が殺されるという状況の中にあり、まわりの人間達から噂され予告されながら誰も何もすることが出来ずしようともせず、殺されてしまうという作品です。流れは(慣性の法則)のまま止まらなかったわけですね。

こんなことは日常生活によくあります。(わかっちゃいるけど止められない)という言葉もありましたね。

私がいつまでも貧乏でウダツがあがらないのもやはり(慣性の法則)なんでしょうかねえ?

地球の資源は一定である

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2011-11-5 20:32

ギリシアのデフォルト危機が遠ざかったとテレビが言ったとおもったら、今日はイタリアのデフォルト危機のニュースである。マスコミは大きな視点から見ずに、事実を報道するのが仕事であろうがこれでは毎日毎日が危機ばかりになってきそうな予感がする。

単純化していえば(地球の資源は一定である)のに人類が食い尽くしていってるということなのだ。民主主義という政治体制がそれに輪をかけ、国民に餌をばらまいて多くの票をとると言う構造だから始末に悪い。餌はもともと税金であるから、タコが自分の足を食べて生きていたが最期には心臓を食べなければ生きていけなくなったようなものである。そうなると自殺である。

簡単にいえば地球の資源と均衡のとれた世界人口が求められるということではないか。

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