ブログ - 日記カテゴリのエントリ
わたしは外国に行ったことはなく、外国人との付き合いもない。外国に行ってみたかったが、もう75歳ではおそいすぎる。興味はじゅうぶんにある。五年前、宗像市の福岡教育大学で異文化交流という公開講座があったので参加した。東南アジアやヨーロッパなどの留学生が講義を受け、大宰府の史跡を見に行ったり、相撲の観戦をしたりした。かれらとしゃべり、楽しかった。
スペインの学生がこう言った。日本の相撲部屋は外国人は一つの部屋に一人しか入れないのですね。これは差別ではないですか?わたしは初めて耳にする言葉に驚き、返事が出来なかった。そんなことはニュースになったことはないし、ほとんどの日本人は知らないことである。
考えて、後に返事をした。無制限に入れたら、国技である相撲は強い外国人たちに占領されてしまいます。それはいけないことなので国技を守っているのでしょう。そう言うと彼は納得したようであった。だが、外国人としゃべったからそのような異見がでたのであってそれがなければ自分は知らないし、外国人の日本への見方が理解できなかったであろう。相手の立場に立つとよくわかるのであるから、彼の言うことだってもっともなことであった。
これが誤解のまますすむと戦争にだってなりえるのである。その公開講座にもしロシア人がいて今のようなウクライナ戦争が行われていれば、双方の立場と考えが食い違ったまま戦争に進むかもしれない。ウクライナ戦争は双方が自分の国を守るためだと言っているのである。相手を侵略するためだなんて考えてもいない。
こうして、戦争は始まるのである。今、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、ウクライナを侵略して泥棒やレイプをした国民として見るかもしれない。すると相手もそれを察して悪感情をもつだろう。近頃のマスコミはプロパガンダや広告じみたものが多くなって見分けることが難しく、引き込まれてしまいそうである。
このブログのように公平な立場で表現しなければ、そのうち太平洋戦争の時の大本営発表みたいになってしまう。外国人と付き合う時は、国家より個人として見る目が必要である。
昨日は弁当配りの日で、いつものように運転手の男としゃべりあった。同世代なので考え方もあう。ウクライナ戦争、日本の政治、韓国の徴用工問題、中国の動きなど話題は広く、一時間半の時間などあっという間にたってしまう。
ウクライナ戦争を契機にどの国も軍備拡張の方向に走っているが、相互不可侵条約を結ぶことなど考えないのかな?ロシアもウクライナも戦争で疲れているではないか?と問うと、そんなことが🅂出来るはずはないしそんなことをしても相手は攻めてくるんだ、という答えだった。いや、出来る出来ないじゃなくてそんな考えがなぜでないのか?ということなんだ。
すると、あなたの考えもわかるが・・・・。
と言う返事で仕事を終わり、帰途の時間になった。
そして、昨夜のことになる。十二時ころ、目が覚めて眠れない。うとうとしていると目の前に光る棒が現れた。部屋の境の戸の隙間から廊下の小さな灯かりが射し、刀身のように見え、いつもの幻覚だとわかった。ところがその刀身は反対側の机の椅子のそばに現れたのであった。手で払おうとしても消えないのである。幻覚が消えないと言うのはまさか本物ではないだろうか?と考えながら、布団の上にあったジャンパーで強く払うとやっと消えたのであった。
若い頃、流行った吉本隆明の(共同幻想論)を思い出した。刀身はもしかすると本物ではなかったか?われわれが幻覚だと片づけているものは本物であることだってありえる。信者達が祈る神であっても本当に実在しているかもしれない・・・。
それから考えは跳んで、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、どんな気持ちになるだろうか?と考えた。国家と国民はちがうからロシア人はプーチンに洗脳されているだけだ、と考えてはいるが、ウクライナで泥棒やレイプをしたロシア人だから同じことをするのではないか?と警戒するのではないか?と考えた。
これはすでに共同幻想にはまっているのであるが、すごく現実的な話である。こうして、戦争が始まってしまうと考えると怖くなった・・・。
私たちの心の中で戦争はすでに始まっている。
余命をひかえて二つの大事件が世界を揺るがし、新年になってもまだ続きそうな気配である。コロナとウクライナ戦争である。どのように捉えて良いのかわからず、ニュースを傍観することしか出来なかった自分にもどかしさをおぼながら、今、なんとかもつれた紐がほどけそうになった。
負けるが勝ち、という言葉が自分の若い頃にはあったが、時代はいつの間にかwin winになってしまっている。勝つことばかり知りて負けることを知らざれば害その身にいたる、という家康の言葉はすっかり忘れられてしまった。謙虚や譲るという言葉も消えている。
まずコロナについて言えば、世界的な感染は尾を引いてきたが中国では人口の半分以上が感染し、国が崩壊するのでは?という危機に陥っている。ゼロコロナを目指していたのにオール・コロナになってしまった、国民に何の説明もない独裁国家の豹変ぶりである。理由は、感染させるだけ感染させて免疫をつけ、あとはワクチン接種で対処する方向である。インドが一時爆発的に増えたが、免疫ができたのとワクチンで収まったからである。
この対処法は、負けるが勝ち、という論理である。
そして、ウクライナ戦争にもこの論理は通用する。ロシアかウクライナのどちらかが、負けました、盗った領土は返します、あるいは盗られた領土は差し上げます、と言えば終戦になるのであるが、そんな方向変換はできそうにない。発想も貧しくて、浮かばない。現代は科学の発達で応用力もすごく貧弱になってしまっている。
こんなことを書く自分が負け犬であり、だから書くのである。年賀状は元旦に来たぶんだけに返すことにしていた。文字を書くことさえおぼつかなく、文字の書き直しがおおくなっているからである。七枚の賀状が来てその中の一枚は大学時代の親友からであった。会社で会長になりました。もう少し頑張ります、という内容であった。五年前には社長になりました。もう少し頑張ります、と書いていたのにである。わたしは正月の二日からスーパーのカート整理をしながら、この店は赤字なので出勤日数を減らしますという店長の言葉が耳に残っていた。
だが、今の生活は快適でもある。週に三日ほど三時間のアルバイトをし、あとは農作業ともみ殻取りだからである。電車に乗ることもなく、仕事のノルマもないのである。負けるが勝ち、でもある・・・。
霊感商法による被害者のことがいつも取り上げられるが、ちがう観点からみてみたい。どちらが良いとか悪いとかは外しての話である。物事を信じやすいタイプの人がいて、振り込み詐欺でもなんにでも取りつかれてしまうタイプ、またその時の心理的背景である。
わたしがNHKの受信契約の仕事をしていた時のことである。訪問先のほとんどの人は気安く金を払い、契約書に印鑑を押してくれた。なぜ払わなければならないのか?と聞く人は少なかった。わたしはこんなに簡単に印鑑をつき、見知らぬ男に金を払っていいもんか?と驚いた。中には目が悪いのでと言って、通帳を持って来て押印署名をしてくれと言った老人もいたのである。こんな人にとってはオカルトの勧誘をする方は楽である。もちろん彼らはオカルトと考えて、勧誘はしないはずであるが、その世界に引き込まれた以上引き返しが出来なくなった人間である。
最初に引き込まれたのは創価学会である。当時は折伏の全盛期であった。アルバイトでしり合った男に誘われて民家の集会に行った。そこで聖教新聞を読まされ、ドモリながら読んでいると、なぜ言葉がもつれるのか?先祖の祟りではないか?と言われ、入会してしまった。が、一か月後に経文を川に投げ捨てた。
次は統一教会である。若者たちが、一人住まいであったアパートの部屋に来て、毎晩キリスト教の話をしたが、遠い世界のこことしか思えなかった。中に、きれいな女がいたので、教会に行って皆で手作りのカレーライスを食べたが水っぽかった。けっきょく、入会しなかったが、中村さんを落とすのは大変だ!という言葉を残して来なくなった。
次はエホバの証人である。
毎週、個人レッスンをしてくれたが、テキストには聖書に関する質問と回答がそなえてあり、その通りにこたえなければならなかったのに、わたしは個人的な見解ばかり言い、この会を利用していると言われて通わなくなった。また、聖書に書いてあることは100%が真実だという見解にも賛成できなかった。
次はプロテスタント系のキリスト教会である。神父が神学部を出た男で、聖書は物語的に書いてあるという言葉に賛同して一年以上通った。古くからの信者が私の献金額が少ない、と言っていることを耳にしてやめた。プロテスタントは従来の宗派が教会の独善に走っていることを知って改革のために立ち上がったのにこれでは同じことではないか?と考えた。
今、通っているのはプロテスタント系であるが、ここで私は新しい発見をしたような気持になり、満足している。つまり、人の体には神が生命力として宿り、護ってくれていていっしょに生きているという実感である。
自分が信仰に目覚めたのである。
夜が明けても、庭はいつまでも明るくならない。夜は明けないのか?と、布団の中で不安になる。
いつものように胃が少しムカついている。酒の飲み過ぎで胃をやられ、壁が薄くなってうづくのである。一年間も胃薬を飲み、酒はひかえているのに一向に良くならない。慢性胃炎であろう。ところが胃の中のもう一方の壁はグーと鳴って朝飯を要求しているのである。内臓は自分の意志では動かないのでもしかすると神の意思が入っているのでは?と考えたことがあったが、神であればどっちつかずの判断はしないはずである。
今日は13時からカート整理のバイトだから、もう少し寝ようと思っていると、左脚のふくらはぎがチクりと痛んでいる。ヒッツキ虫がズボンにくっついたまま、早く取り外せ!と叫んでいる。そうしないといつまでも刺し続けるぞ!と叫んでいる。手を伸ばしてもどこにいるのかわからない。ヒッツキ虫は遠くに行ってそこで芽を出さねばならないのである。
ヒッツキ虫にはさんざんやられた。庭の草刈りをしているといつのまにかズボンにつき、部屋の帰って横になっている時に体を刺し、取り外させようとするのである。賢いやつだ。
そんなことに気をとられていると布団の中にいるのがいやになり、起き上がり、トースターに食パンを入れることになるのである。
夜中に目覚めた。目のあたりを指で触ると、おかしかった。出血していた。どうやら、熟睡中に起き上がり、顔を何かにぶつけたみたいであった。記憶はまったくなかった。血液サラサラの薬を毎日飲んでいるので出血は怖かった。鏡で顔を見ると、左の眉あたりから少し出血していた。タオルを押し付けていれば血がとまることは知っていたのでそうした。
今日は大手スーパーに松竹梅のかざりを35束持って行く予定であったので、準備をはっじめた。開店前に置いておかねばならない。一個が130円であるので売れ行きはよく、この金で歳は越せそうである。
インターネットの記事を見ると日本が貧乏になるものが多くなった。それは当然であろう。ウクライナ戦争、中国のコロナ拡大、日本のコロナの拡大とまさにこの世の崩壊の気配である。わたしは今年の株式投資も損をして、20万円くらいは持って行かれた。
だが、経済ばかりに目を奪われ過ぎてはいないだろうか?60年前には、名もなく貧しく美しく、という映画が上映され、身体障碍者が主人公になって観客の涙をさそったものであったが、それを思い出す高齢者は少ない。
日本人が失ったのは金ではなく、実は日本精神であったのだ。わたしは若い頃は左翼かぶれであったが、一党独裁主義は単なる独裁主義にしか過ぎないことがロシアのウクライナ侵略でじゅうぶんにわかった。民主主義も侵略をやってきたが、言論の自由があるので反省の機会をもっているが社会主義・共産主義にはそれがないので始末が悪い。
毎日、プーチンの顔を見るだけで憂鬱になる。
今の私はすっかり老いてしまい、貧乏なので、(清貧)の生活を送っている。けっして心が清く美しいわけではなく、さんざん悪のおいしさを味わってきたが、悪をやるエネルギーがなくなっただけのことである。
だが、清貧のもつ安らぎがわかってきた。もう、突っ張る必要もなく、死を待つだけの生活なのである。そこにはそこの気楽さがある。
今年の二月から始まったウクライナ戦争は国際社会を脅かし、わたしたちの生活まで苦しくしている。戦争は大きくなり、ロシアが核を使うのではないか?とか、これは第三次世界戦争ではないか?とか取りざたされている。平和と民主主義に安住していた私たちは、今の世に、武力で侵略する大国があるなんていまだに信じられないのである。
だが、プーチンはそれをやってみせた。
数百万人の犠牲者が出るかもしれず、それは第二次大戦につぐ数である。
戦争の悲惨さよりもどこか裏で何かがううごめいているのではないか?と気味悪い予感がする。もしかするとロシアとウクライナ、あるいはアメリカとロシアは裏で手をつないでいるのではないか?という疑心さえ湧いてkるる。得をするのは誰なのか?と問えば軍需産業であり、それは武器をつくっている会社だけではなく金属、電気、半導体などすそ野が広いのであるから特定できず、GNPに貢献していることはまちがいない。
だが、わたしはこれをちがう観点からとらえてみたい。対立者どうしは対立することでつながっているのである。エボナイト棒をこすれば、両端にプラスとマイナスの電気がおなじ量だけ発生し、棒をいくら小さく切っていっても消えはしない。一心同体である。物学の法則であり、真理である。
宗教の世界でも神とサタンの関係にみられるように、神がいるからサタンが存在し、一方が消えればは他方も消えるのである。男と女であっても、いつも喧嘩ばかりしていても別れない夫婦がいるのと同じである。だから、今回のウクライナ戦争でもどちらかが負けて消えれば戦争は終わるし、それがなければいつまでも続くことになる。
豊福さんという女性が来年の県会議員選挙にこの町から立候補することを知り、選挙事務所に通い始めた。もとよりわたしは政治学科を卒業していて、政治にはすごく関心があるので彼女としゃべっていても楽しい。誠実で美人であるこtが私の関心をそそっていることもあるが、あまりにも話題が多くて散漫になりがちである。ウクライナ戦争、コロナ、統一教会問題など議論はつきない。
彼女は立憲民主党の党員であるが、わたしは今度は次のことをしゃべってみようと思う。
立憲民主党は以前の民主党であった頃、政権をとったことがあるがあまりぱっとしなかった。
その原因を考えると、いろいろあるであろうが、まずこんな事を考える。組織はその構造そのものが権力を持ってしまう。例えばプーチンが追放されたとしても後継者が現れ、組織は同じように活動し、ウクライナ侵略という構図は変わらない。
だが、民主党が政権をとった場合自民党と同じ組織では同じことの繰り返しにしかならない。いや、不慣れな部分があって悪い方に進むことだったありえる。だから組織の改革も視野に入れなければならない。いろんな省はそのままであったとしてもどの省に最大の権力をあたえるか?である。これまではその優先順位がなかったので経済が繁栄すれば環境が破壊されるという矛盾がはびこり、モグラたたきの繰り返しで会った。環境省に最大の権力を与えて、まず、命の大切さから実行すべきである。そうすれば国民の眼から見てもわかりやすくなるはずである。
これは政治だけではなく、メディアも同様であるし国民もそうである。どれが一番大事なのか?たえず、考えておかねばならない。
若いころの夢にはよく女が登場していたが、不能になった今、女は登場しなくなった。それは当然のことであろうが、ここ二、三年の夢はタイトルのとおりで、NHKの受信料の集金をしていた頃が、舞い戻っている。決まって、見知らぬ土地への不安となにがしかの期待感がこもっていて、追体験していることがわかる。あの頃は住宅地図とけ契約リルトを持って、バイクで大牟田や久留米、大川、柳川のビジネスホテルに泊まって、見知らぬ未契約先を訪れたものであった。振り返ると貴重な体験であった。
数えきれないほどの体験をした。生活者たちと金のことで交わり、教えらたり、発見したりまさに冒険であった。それは夢となって昇華し、ふとした何気ない景色が現れたりするのである。無意味としか言えない景色が自分の心を打つことがある。なぜ心に残っているかわからないが残っているのである。ふとした家の物陰、通り道、野草など・・・。
なぜこんなことを書いているのか?といえば、サムエルベケットの短編、(鎮痛剤)を読んだからである。彼の小説は変わっているというより、こんなことをよく小説にするな?と不思議な気持ちになるからである。
わたしがいくつの時に死んだか忘れた。どう考えても年とって死んだことはまちがいなさそうだ。九十歳ぐらいかな、それにしても長生きしたもんだ。(白水社刊・鎮痛剤)
死んでいればいくつの時に死んだかなんてわかるはずはないのに、作者はそんなリアリティは無視しているのである。こんな文章で書けるのだな、と感じ入ってしまう。
次は(追い出された男)である。書き出しを要約すると、階段を上ろうとして、最初に置いた段を一段目と呼ぶべきか?二段目と呼ぶべきか?迷う場面から作品は入るのであるが、それは当然一段目であるはずであるが読んでいる方はその迷いが正しいような錯覚に落ちてしまうのである。頭がおかしくなる感じがする。
ベケットはノーベル文学賞をもらっているが、天才であることはまちがいない。もしかすると、自分もまちがっていえば、天才なのかもしれない。先ほどの自分の夢を作品にしてみたい。
神とは,あらゆる時代、そしてあらゆる国に存在する普遍的な存在である。人が超人的な力に頼り救いを求めるのは本能的ともいえるが、近代の個人主義の教育をうけて以来、自己に頼ることが当たり前になってしまった。
信仰に入っておよそ十年にしかならないわたしは最近、神はもしかするとドッペルゲンガー的な存在ではないか?と思うようになった。ウイキペディアによればドッペルゲンガーとは自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で(自己像幻視)とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身。第二の自我、生霊の類。と、ある。それは仏教でいう大宇宙、小宇宙という言葉とも重なり、自在に変幻するものでもある。神とは生命体の中に住んでいて、生命力の本尊となって成長を助け、危険が生ずれば注意信号を出し、本尊として死ぬまで見守ってくれるものである。仏教でいう成仏とは信仰に励み、そのはてにたどりつく境地であり、そこで本当に仏・神になれるのである。
断っておきますが、ここでは仏教とキリスト教の垣根を越えて書いていくことをお許しください。
キリスト教では人は神の子であるが、決して人は神になることは出来ず、そこで住むことさえできはしない区別がもうけられている。だが、仏教のように信仰に励めば仏になることができると言われる方が救いがあるように思える。神も仏も実はどちらもドッペルゲンガーで、同じものだと考える。ともかく、手を合わせて謙虚になって誰をも、愛と涅槃で包めるようになれば人生はすごく変わっていくことは間違いない。わたしもなんとかそのように考えることができるようになりました。
人は神を求め、救いを求めて生きており、それが引き絞られた姿がドッペルゲンガーとして、神の姿になって現れているのである。だから、それは自分自身の姿でもある。けっきょく自分に祈っていることでもあり、他力は自力なのである。