ブログ - 202002のエントリ

時代が(レア)に追いついた。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-2-8 20:41

  このホームページを開いて、およそ二十年になります。前は、レア・ピープルと言う名前でしたが、その間、方針や姿勢が少しもぶれていないことに自信を持っています。閲覧者数やクリック数も安定していて、私の知人もかなり、見ているようです。

 今、太宰治の(人間失格)を読んでいますが、百年たっても愛読者は増える一方で、太宰治は時代の先を生きていて、彼の変わり者ぶりを作品化し、彼を(人間失格者)だとタイトルづけしており、その勇気に敬服します。

 (レア)などまだかわいいほうで、今の私は自分を名付けるなら、(廃棄物)と言いたいほど落胆している時もあります。そこで考え、悩み、思いいたることがあります。このブログの中でわたしはまだ、自分の十分の一も本性を出していません。それは恥ずかしいからと言うより、作品化する自信がないからですが、(人間失格)を真似て書いてみろ、と言われれば書けるかもしれませんが、太宰治ほど自分に拘り、卑下した作家はいません。彼は家庭の事や女のこと、身内のことは一切書いていませんが、わたしのつたない小説と逆です。

 性的少数者や障害者たちが人権のもとに社会参加をし始めた現代において、わたしは自分の本性をもっとさらけ出すべきだと思います。どこか、避けてる節があれば、文章は力をもたないのです。余命を十年と考えて、十分の一を十分の五に持っていきますが、モデルの人権に触れることは控えます。

新型コロナウイルス。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-2-8 7:21

  中国発の新型コロナウイルスの世界せいで、世界中は大騒ぎである。中国の町が閉鎖され、客船から数千人の乗客が降りられない、帰国が出来ないなど、まさにパニック状態である。治療薬が発見されたとはいえ、簡単に終息し、平和が戻るとは思えないし、東京オリンピックだって開催が危ぶまれるかもしれない。経済に与える影響は甚大である。

 話は変わるが、二月になり、そろそろセリの出る時期だと考えて、野山を探してみるが見つからない。見つかったとしても小さく、食べれる量ではない。昔は,米と鶏肉を焚いて、出来上がった頃にセリを入れて食べたものであった。あの香ばしい野の味は、忘れられない。

 昨日、友達から、宗像市の・・に生えてるよ、と教えられ、バイクで行ってってみた。湿地のススキの枯草の下に隠れるようにしてたくさん生えていた。後日、長靴を履いて来ようと考えて去った。

 そこでわかった。農薬のせいで、、人が生活する、あるいはその下流ではセリは殺され、滅んでしまったのである。その湿地帯の上には田も畑も人家もないからセリを殺す者はいないのである。当然、生活排水の溜まる川の縁でも見つからない。ドジョウ、ザリガニ、ドンポ、メダカなど人が生きるために殺した種は数が知れない。

 ウイルスは単独では生きていけず、増えることもできない。(生物と無生物の中間)に位置しているので捕食ができず、生きていけないのである。人に寄生して養分をとり、生きるしかない。

 人間も単独では生きていけず、他の生物を滅ぼしながら生きているのである。

 果たして、ウイルスは敵であり、蔑視されるべき存在であろうか?

 

水平思考。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-2-6 7:02

  町役場の開くワークショップに、三度ほど参加したことがある。講師はアメリカに留学してワークショップを学んだ男性で、日本は垂直思考(トップダウン)が強く、水平(真横の関係)が薄い、と話した。参加者たちは十ほどグループに分かれて、町の問題について自由な意見を言い、講師はそれを集約して、発表した。

 ところが、町の政策にまで踏み込んだ議論はなく、意見は狭い範囲のもので、広がりはなかった。例えば、ゴミの収集に対しても、体の不自由な人は家のは入口に置いておけば取りに行ってあげる、といったようなことで、それはそれで良いことであるが、環境問題にまで進みはしなかった。

 わたしのキリスト教会での体験は以前のブログでも書いているが、あれから牧師からの電話や信者からのメールがあった。どうして来なくなったのですか?牧師も信者達も心配している、という内容であった。話し合っても良い、とも考えたが、立ってる位置が異なるので平行線になると考えて、黙殺している。わたしが貧乏だと言っているのに、さらなる献金を求めたことに対して、彼らは、それがキリストの精神に反するとは考えず、生活費をもっと切り詰めてでも献金すべきだと考えたにちがいない。

 要するに信者の生活より、神の方に目が向いているのである。垂直思考である。釜ヶ崎のホームレスの散髪をしてやった牧師もいるので、すべてのキリスト教徒が垂直思考だとは言わないが、仲間・信者の生活より神の事しか考えない者は仲間でも何でもない。富裕階級のサロンに用はない。献金や寄付をしているから自分たちはキリストの精神を受け継いでいると、考えて、手を汚さない連中は、聖書の中にあるように、キリスト自らが、貧民の汚れた脚を洗った、という出来事を思い起こすべきである。

バイクと私。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-2-1 5:24

  ホンダのカブ(50cc)に乗り始めて、30年以上になる。集金の仕事の必要性から乗りはじめたのであるが、自分の妻や友人以上の存在になってしまった。思えば、10年前に、仕事中、盗まれ、ボックスに入れていたカメラ、ビデオカメラを盗まれ、カゴに入れていた弁当や水筒があたりに投げ出され、不吉な光景を見せつけられた。バイクは発見され、戻ってきたが、それから私は狭心症の発作が出始め、カテーテル治療の失敗で殺されかけ、転落の人生が待ち受けていた。バイパス手術で命をとりとめた。

 そして、今、退職後、毎日そのカブにのって産直店に行き、友人宅やスーパーを走り回っている。昨日は、鉄条網を買いに行き、気まぐれ天気に振り回されて、雨に会ってしまった。カッパを着ていたが、顔は正面から雨に叩きつけられ、ずぶぬれになった。いつまでも家に着かず、泣きたい気分になったが、カブは音を立てて、走り続けた。

 そんなカブに感謝をすることもなく、洗ってやったこともない。タイヤのスパークは錆びつき、座席の下の部分は青い苔が張り付き、年季が入っていますね、と人から言われる。盗まれて鍵が壊されていたので、その部分はそっくり交換し、正確な走行距離はわからないが、10万キロはいっているはずである。

 もうすぐ、エンジンが止まるはずだと予想しながらも、走り続けている。

 まるで、自分の人生と瓜二つである。

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