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十年前、近所の親しい男から、あんた、ホームレスみたいやね、と言われ、腹を立てて口を利かなくなった。コイン精米機の小屋に行って、ぬかをこすぎ取り、売って生活をしているといった時であった。また、精米所に行ってもみ殻を取り、売ってもいた。わずかな収入であったが貴重な収入であった。ところが、今年の夏はもみ殻の売れ行きが悪く、一日に一袋しか売れなくなっていたし、直売所に行ってみると、返品の札が二袋に貼ってあり、店員に聴くと虫が入っていて苦情がでたという。酷暑の折、畑を耕す者もおらず、埃だらけの精米所でもみ殻を掬い取って袋に詰めることにうんざりしていた。
それで、二か月ほど、取らず、放置していた。
すると、昨日、店から電話があり、お客さんがもみ殻を欲しがっているという。半ばいやいやながら起き上がり、コイン精米機にポンコツ車で行った。すると、45リットルの袋に四袋のぬかが採れた。それと虫の入っていたもみ殻から虫を取り除いて、六袋ほど店に出した。それを終えると店のそばにあるいつもの精米所に行ってみた。、二か月前にはからであった倉庫にもみ殻が山積みされていた。マスクをはめて十袋ほど採り、店に戻って四袋置いてきた。お客さんがぬかがない、って言ってましたよ、と女店員が言った。これで当分は間に合うよ、と返事をしてやった。
先ほど、ネットのニュースを見てみると、老男が食料品店の倉庫に入り、ブドウや桃を盗って、逮捕されたと出ていた。
我が身を思い返して、独り笑いをした・・・。
酷暑が去り、朝夕、少しは涼しくなった。この夏、室温が三十八度の生活に老骨が耐えたことは褒められていいことである。七百坪の敷地の草刈りは何とか進み、一巡しそうである。次には、二か月前に刈った場所をまた刈らねばならない。それが終われば正月に備えての木の枝の伐採が待っている。豪邸に住んでいる、と言われても農作業者にすぎない。
虫の数がめっきり減った。四十年前と比較すれば自分の周りから絶滅したのも多い。カミキリムシは一匹もみなかったし、ゴミムシ、ハンミョウ、マイマイカブリなどは一匹も見なかった。夏には親指ほどの幼虫がうろついているはずであったが一匹も見なかった。
それに引き換え、セミや蜘蛛は健全である。直接、地面と接触しない生活なので農薬から身を守ったのであろう。草刈りをしていると、蜘蛛の巣に顔をふさがれることが多い。考えてみると、必ず、目線とぶつかるのである。蜘蛛はどの高さで人が歩き、そこに蚊やぶよが寄ってくることを知っている。それに巣の張り方は匠と言われるほど精緻である。誰に教えられたわけでもなく、DNAに従っているのであろうが、神業でもある。一本の基線は風に垂らして枝に寄せ、絡みついた縦線から決めていき、基線は三十本も張って、横糸を千本近くもつないでいく、一日では完成しない大作業である。それをもくもくと続けるのである。人間顔負けでくある。オスはメスの百分の一も小さく、網は張らず、かかった餌を食い、交尾する。
雨の降った後など、巣を見ると、まるで銀河のように輝いている。神の作った宇宙を見る想いになる。人からは無視された生き物が細々と生きていることに心が打たれる。自分だって、その一匹にすぎない。
昨日、ユーチューブを見ていると、路上でパーフォーマンスをするドイツ人の論議が行われていた。若い男で世界をめぐりながら、路上で逆立ちを何度も行って観客の目を引き、彼が作っているズボンの販売の宣伝をしているという。許可も取らずにあちこちでやり、彼は自己PRを面白がっている。
わたしは興味をもってみていたが、そこで迷惑になるからしないほうが良い、という言葉が出たので、近ごろの報道の仕方に疑問を持った。元気があって良いし、自己主張をすることには良いことだと思っていた。彼は迷惑が掛からないようにやっていると言い、それで世界を一周しているのである。人は若いころがどうしても基準になるのであろうがわたしは昭和四十年の頃を振り返る。今とは、段違いであったことにいつも気づく。駅のホームにはたばこの吸いがらやつばが散乱し、吸い殻入れからは燃え残りのたばこが煙をもうもうと吐き出していた。町の街路樹の下では酔っ払いが寝、髪やひげを伸ばした男が腰を下ろして、目の前に茶碗を置いて投げ銭を待っていた。それが風俗の一つなのであった。今の時代、日本が良いといって訪日客が押し寄せ、路上にはゴミ一つない、と称賛している。マスコミはそれを書き立てるが、若者の自殺率が世界一であること、農薬の使用量も世界一であることには触れない。
路上にゴミ一つ落ちておらず、枯葉もゴミとして処理され、自然の一つとしては理解されない。その息苦しさが若者たちを自殺に追いやり、エアコンの奨励をして、ますます酷暑をあおっている。
破れや風穴を理解できない社会なのである。
風穴があれば風が通り、破裂もいないはずである。
こんなことが数日前に、あった。
左足の甲がむずむずるので、見ると、小さな虫みたいなものが食いついていた。驚いて、指でつぶした。すると数分後に痒みが増し、赤くはれて手の甲の大きさまでに広がった。自分の部屋には小さな蟻や南京虫が住み着いているので、いつものようにメンソレータムを塗って放置していた。次の日の朝、眠れないまま目覚めた。右手の皮膚に異変をおぼえていた。見ると、右手の付け根から脇の下まで、赤い斑点が広がっているではないか!何度も見つめたが赤い斑点は消えなかったが、もしかすると?と考えた。わたしは時々錯覚や幻覚を見ることがあったので、もしかすると?と考えてもう一度、見てみた。すると赤い斑点がすべて消えているではないか?
だが、赤い斑点を自分の目で見たことは間違いなく、あれはなんであったのか?と、考え込んでしまった。数か月前に、自分の車に知らない女が運転席に座っているのを見た時もそうであった。はっきり見たのにすぐに消えていたのであった。
昨日、カート整理のアルバイトをしているときに、思い出して、スマフォで検索した。量子力学で話題になっているスリット現象である。壁の小さな穴に量子を二個飛ばしてみると、二個ともが同時に通った。とことがそれは人が観察していない状態の場合であった。今度は人が観察している状態で二個飛ばしてみた。すると一個しか通らないのであった。何度試しても同じ結果しか出ないのである。
この結果を考え直してみると、人は同じ穴には一個しか通らないと信じているのでその観念が反映されていると考えられている。
つまり自分が右手に赤い斑点を見たのは、ここも刺されているという自分の固定観念の反映でしかなかったのである。そして、運転席に若い女が座っていたのは、ある女から自分がつけられていて、これから別の女のいる場所に行こうとしていた時で、自分は付けられているという固定観念があったからである。
このことから考えてみると、自分も含めて人間社会は先入観や固定観念に支配されていて、量子という目に見えないものに動かされているのかもしれない。神や精霊も自分の意識が投影され、量子が形作っているのであろう。
明け方に大雨が降った。窓を閉めたが、眠れずにいた。虫たちの鳴き音が止んでいた。台風が接近してるので雨が降ったことが分かった。
扇風機をつけていなかったのは明け方には涼しくなるからであった。夏が終わろうとしている。地獄の夏、であったと言っても過言ではなかった。エアコンのない部屋は三十五度以上になり、扇風機の風で何とか耐えた。死んでしまうよ!と知り合いから言われながら、付ける気はなかった。日中に畑に出て、草刈り機で草を刈った。厚い作業服の中は蒸し風呂の中に入ったのと同じで、体は三分と持たなかった。熱中症にかかりそうなので草の上に腰を下ろして、休んだ、木陰はなかった。
二週間ほどかけてなんととか刈り終えた。
左足で踏ん張るせいで股関節を痛めていた。時々、痛むが一か月以上たっても治らない。
だが、今年の夏は体が持った。
来年の夏も鈴虫と同じように畑でいきているであろうか?
昨日は、予定通り大手スーパーのカート整理に出かけた。13時から16時までであったが部屋にいても熱いだけなのでエアコンの入った店に二時間前に着いた。やはり、エアコンが入っていると涼しくて気持ち良いが、店が払う電気代は相当な額だと考え、これも環境破壊になっていると思った。
ロビーの椅子に腰を下ろしていると常連のAさんがやってきた。彼も暇つぶしのためによく、訪れ、友達みたいになってしまった。妻と娘は家を出ていき一人住まいなので食材などよく買っていき、話好きでもあるが、時々、妄想ではないか?と思われることをしゃべったりするし、彼も私の話はどこかおかしいところがある、という。
そこで、子猫の目は産まれたころは見えないけど、なぜだと思う?ときいてみた。すると、考え込んでしまった。
それはですね、目が見えると興味を持って危険なところに言ったりするじゃないですか・・。
そこまで言って、だから神は目隠しをして大きくなるまで待ってるんですよ。
と言いたかったが、神という言葉は口に出さなかった。
宗教に興味のある男であれば、聖書の創世記に書いてあるように神はすべての命を作り、繁栄するようにしているのです、目が見えて自由に動き回れば川に落ちたり危険が多くて死ぬかもしれないのです、と言っていたあろう。そこでそんなことがわかるまで神は目隠しをしているのです、とも。
そこで彼はまじめな顔で話し始めた。
そんなことは言わんほうがいいばい、人から変な目で見られるよ。
よくこの言葉で自分は言い返されることが多かったが、彼も同じことを言ったと、自分は少し落胆した。それから彼は私が会話の時に刑事が追及するような口調になったりして、良い印象ではないとも言った。
だが彼も時々妄想じみた話をすることがあった。
「この前な、部屋で居眠りをしよったら、燐家の女が入り込んでおれの背中をつついた、別の日には梯子に上って庭に入り込みビワを盗んだ、ともしゃべった。考えてみれば、どちらも同じ穴のムジナかもしれない。子猫の目が見えないことは今度、教会の先生に聞いてみようと思う。
うちの庭には四本の栗の大木があり、実を落とし始めた。いつものように収穫して店で売り、知人たちに分け与えようと考えた。すると先客がいて、タヌキかアナグマと思われるが、身を開いて食べていた。例年は千個ほど収穫できるのであるが、今年は暑さにやられてその三分の一ほどくらいのようだ。。
火箸に挟んで採り、バケツの中に入れながら、考えた。一時間もやると腰が痛くなる。栗よ、お前は果実の中で一番食べにくいことを知っているか?まず、イガイガ頭だ。こんなにたくさん生やして、小さい子供たちをを守っているんだな?だけど大きくなると、身を開いて、さあ食べてくれ!とうったえるじゃないか?だけど、渋皮をびっしり張って身を守るってどういうことなんだろうかな?それに実が二つ入っているっていうのは、野生動物たちが一つは食べて、一つは落として、それが地面から芽を出すことを考えてのことだろうな?
だが、その仕組みは誰が考え、つくったのだりうか?地球を征服するまでに賢い人類だってわかりはしないし、答えることはできない。結局は自然を作り、繁栄しろ!と聖書で訴えている神としか考えられないが、できれば私がその謎を解いてみたいと考えているんだ。
今年の二月ころ、スーパーでジャガイモを買った。親指ほどのサイズで、一袋が百円ほどであった。これを畑に植えてみようと考えたのであったが、F1のものもあり、それは一世代だけしか芽を出さないのであった。
畑はいくらでも空いているので、三畝ほど植えた。芽を出すかどうかもかわからなかったので肥料もやらなかった。
一か月ほどで芽を出した。それから勢い良くなって、葉が伸び、茎も大きくなっていったが、葉だけが元気良くて実ができないかもしれない?と考えていた。一本を引きぬいてみると、小指ほどの実がに三個、付いていたので、失敗だったjか?と思った。花が咲き、茎が枯れ始めたころ、雑草が伸び始めた。草刈り機で刈っていった。すると刈った地面からげんこつサイズのジャガイモが現れたのであった。すべての根についていた。
ポテトサラダをつくって食べたら、すごくおいしく、ジャガイモのほくほく感があった。知り合いに分け与えると、喜ばれた。
収穫時期が種植えの時期であったので、今度は小さなジャガイモは連作を避けて違う畑に植えることにした。来年の二月には収穫できるはずである。
そこで、考えた。このやり方でやっていくと、金を使わずにいつまでもジャガイモが採れ、生きていけるというわけではないか?永遠の命である。聖書の創世記にあるように、人は神からエデンの園を与えられ神は人に永遠の命をあたえてくれていたではないか?ところが人は神の言いつけを守らず、死ぬ運命を与えられてしまった。自分が死んで畑を放置することになってもジャガイモは邪魔されない限り、永遠の命を生きるのであろう・・・・。
昨晩は、布団に入る前にこんな句ができた。一日が発句に始まり、終わるといっても過言ではない。夜になればわが草の宿は演奏会が始まる。クツワムシの鳴き声が秋に入りかけていることを教えてくれるし、カネタタキがまるで金を叩くように鳴いてくれるし、鈴虫も澄んだ音色で歌ってくれる。マツムシも松葉のような声を出す・・・。午後九時ころ寝につこうとすればコオロギが床下から声をかけてくれる。
また、夢を見てしまった。集金の仕事の事務所、それに仲間が現れた。自分はいったん心筋梗塞を起こして退職していたのであるが復帰の呼び出しがかかっていたのであった。福岡放送局に着いていたのであるが、打ち合わせの予定されていた部屋がわからない。顔見知りの男は復帰の書類を手にもって動いているではないか?復帰の書類ではなく、集金緒報告書であった。受信料の金額、件数、地域などが書いてある。部屋に入って探してみるが見つからない。そこで万札が数枚入った財布がポケットに見当たらないことを知って慌てた・・・・。
二十三年間働いて去った仕事が十年後に現れてくる。体をよく動かしたと思う。知らない地域に行って知らない人間に会い、金をらって7バイクであちこち走り回る。良い景色に出会えばカメラにとり、このホームページに載せて、日記を書く・・・。十年後の今は歩くのにふらふらしてよちよち歩きになっている。
夢や幻想の中で生き返っている・・・。そこには豊富な体験や懐かしい人々の顔が待っている。心が動き、笑い、時には涙することもある。
毎日、句を作っているので、今日はなににしようか?と考え、あれはガガンボという名前だったと思いつき、句が浮かんだ。昨日は一匹のスズメバチが部屋の中に入り込み、飛び回りはじめた。驚いたと同時に怖くなり、どうしようかと考えた。ハエ叩きがあったので、打ち殺そうとしたが、自分の体が不安定になって倒れることを恐れた。カーテンの隅に行ったスズメバチを、叩いて、殺した。次は、夕方になって、風呂に入ろうとしたら足長蜂が飛んでいた。これも叩き殺そうとしたら、どこかに消えてしまった。
草の生え放題の家には、めっきり少なくなってしまったが、虫たちも住みついている。
その中でガガンボは刺すこともなく動きも鈍く、何を食べているかわからない、変わった蚊である。人間であればまるでホームレスみたいである。だがそれが今の時代まで生きているのである。まるで、わたしみたいに・・・・。
目覚むればががんぼさ迷う草の宿
そういえば、飛び方もふんわりしてさ迷うような感じである。