ブログ - 日記カテゴリのエントリ
わたしが何故、(秩序)にこだわるかと言うとそれがわたしという人間を形成したからである。先天的素質が形成される原型になってはいるが、あなたもその秩序によってつくられ、すべての生物・物質もそのシステムの鋳型から逃れることは出来ない。一週間前、浜辺を歩いていて不思議な石を見つけた。親指サイズの小さな普通の石だが、ウズラの卵みたいに真ん丸いのだ。その石の流転の時間を考えた。何百年も波に揺られ、浜辺の石ころたちにもまれた人生だった。その石が特別に柔らかかったとかもっとももまれる場所にあったとかいろんな条件がからんでいるにちがいない。
家庭、学校、メディア、社会、会社、政治体制などすべての秩序が鋳型になり、人間を作り上げている。ほとんどの人は丸い石になるのだが、わたしはいつまでも尖ったままでまわりの石たちとぶつかり合っている。ほとんど(変わり者)と呼ばれる。それが良いとか悪いとかではなく、変わり者を作り上げ、存在させている秩序に興味があるのだ。今、福岡伸一氏の(動的平衡)を読んでいるがすごく面白い。生物化学の研究から人間への哲学的考察に踏み込んでいて、納得させられる部分が多い。蟻の世界には働かない蟻が必ず二割はいる、ということを前のブログで書いたが、その二割は他の八割との間で(平衡)をつくり、バランスのもなっているのだ。この世の対立物はすべてそのバランス状態の上で成立しているのではないか?と、考えた。
(秩序の発生)について考えてみた。参考にするためにネット情報をみたが載ってはいなかった。
すべての生物は肉体的、精神的(精神は肉体と同じであるが)に秩序を持ち、その構造に組み込まれている。物質もそうである。さきほどの丸い石も成分と組成の構造式を持っている。細菌もそうであり、その仕組みから逃れることは出来ない。チリが集まり固まりあって地球が出来、物質が出来たことで空間と時間の観念が出来た。
結論として無秩序というのは物質の無い世界にしか存在しない。
(エントロピーの法則)をネットで調べると次のように書いてある。ある若者が散らかり放題の部屋の整理を始めた。本やビデオを本棚に入れ、机の上のペンや鉛筆を鉛筆立てに入れ、ゴミを掃除機で吸い取った。丁寧にやったので12時間かかった。ところが排尿する時間がなく、部屋の中で漏らしてしまった。部屋は乱雑・不潔な状態に戻り、エントロピ-の数値が増えた。事物は放置しておくと無秩序に還ることを言いたいのである。
これに私は疑問を抱いた。
わたしの部屋は人が訪れることはほとんどないから、整理や掃除はしない。ゴミが溜まればホウキで外に掃きだす程度である。本や、チラシ、醤油や酢漬けにしたビンが置かれ、エロDVDが女の裸体を見せて床の上に置かれている。自分が通る道だけはスペースが空けられている。あるセールス・マンが仕事で部屋に入った時、おたくはやはり(レア)ですね、ビデオをこんな所に置いて、と言ってエロDVDに目を向けて言った。
無秩序のように見えるが秩序を持っている。わたしは肘掛座椅子に寝そべって本や新聞を読み、ビデオを観、考え事をしたりする。ポーの小説が手に一番近い位置にあり、タオル、目薬、ツマヨウジ、耳かき、血圧計なども近い位置に置いている。よく使う物を手元に置き、めったに使わないものは離れた場所に自然に配置されたのだ。これを一般的な整理の仕方でやると、興味のあるポーの小説やその他の本、DVDも本棚に入れられ、わざわざ立ち上げって歩き、取り出さなければならない。非効率になってしまう。合理主義、利便性、快適さなどという観念は良いように見えて実は悪い部分を持っているのである。
自然界は決して乱雑ではなく、人間が考える以上の秩序・役割を持っている。落ち葉の存在を考えてみよう。タンポポの種は風によって遠くに飛び、子孫をばらまくように出来ているが、落ち葉は周辺に刺状のものを作っている。遠くに飛ばせないためだ。また完熟堆肥になって親木に養分を吸収させなければならないからだ。枯葉は親木の下の地面の水気を保ち、雑草の種が飛んできても雑草が芽を出さないようにしている。
人間は自然界の秩序を見習わなければならない。
昨日、福岡教育大学の公開講座・基礎物理学の講習を受けた。講義は(熱と温度)の章に入り、(エントロピーの法則)が出てきたので、興味が湧いた。日頃、目に付いていた法則だったが、物理学という分野できちんと講義を受けると基本的な考えがわかり、うれししかった。(分子の運動はなるべく乱雑になる方向に一方的に進む事実)とテキストには書いてあった。そこで、こんな例を出していた。袋の中に10円硬貨をたくさん入れておいてかき混ぜる。床の上に全部ばらまいてみる。裏面になった硬貨と表面になった硬貨の割合はほとんど同じになる。何回繰り返してみても同じ割合である。その法則から日頃、疑問に想っていたことの謎が解けた。世界の人口における男女の割合、世界最高気温と最低気温の数値のほぼ同一性、世界で一番高い山の高さと一番深い海溝の深さの数値、世界全地域における平和と戦争・紛争の割合、金持ちと貧乏人,幸福と不幸、暑さと寒さの割合などすべての現象はこの硬貨の法則に当てはまる。反転対称形でもある。それらは対立していると人間は判断するが反対向けにすれば同じということで、割合の平衡状態が変わることも無い、ということである。蟻は働き者だというイメージがあるが、その二割は働かない、そのことを書いた本が出ていた。働かないニ割りを住みかから追い出してみる。すると、働き者だった蟻の二割が働かなくなったのだ。真理は一般常識を否定する。真面目だ、ナマケモノだ、金持ちだ貧乏だ、健康だ、不健康だなどという良い悪いの位置づけは誰かが決めている俗論にすぎない。
基礎物理学講座に毎週、通い、いろんな法則を再確認した。新しい発見もあった。重力と引力が同じエネルギーであり、捕らえ方の相違でしかなかったということである。日頃、わたしが考えていたとおりであった。これは様々な現象に敷衍し、応用することが出来る原理になりえる。わたしの書いたこのHPの日記、(飛び込むのではなく吸い込まれるのである)はやはり真理であった。ニュウートンが発見したのは、リンゴは落ちているのではなく地面に吸い込まれている、と言う視点であった。
朝、わたしは目が覚めた。
この視点は自分の意志の作用を現しているが、上記の真理によれば、太陽の光がわたしの生理機能を刺激して起こした、ということにもなるし、曇りの日であればわたしの体内時計がわたしに呼び鈴を鳴らしたということでもある。もしこんな書き方で小説を書き進めると面白くレアな作品が出来上がるはずだ。わたしは奴の腹をナイフで刺した、ではなく、わたしのナイフは奴の腹に強い力で引っ張られた、と言うことになり、時代が天動説から地動説に逆転したような革命が起こると考えられる。
現代人は自由という観念に囚われすぎている。自由意志で行動してるように見えながら重力や引力やそれ以外目に見えないものの力と作用で動かされているに過ぎない。そのことに思いついたり考えたりはしない。わたしたちの日常行動を点検してみようではないか!すべて違う角度から見直してみようではないか。逆立ちして景色を見てみようではないか!
自分の意志など存在しないことがわかる!
あなたは産まれたいと考え望んで産まれて来たのですか?と問われて、はい、そうです、なんて答えられる人はいない。
先週の日曜日、町の娯楽施設に歌謡祭りを観に行って、楽しかった。自分で作った弁当を持参していたので、二階の部屋で独りで食べていた。
「ゴ-ルデン・ウィークの時、息子から電話がかかってきて、息子と話していたら、お母さん言葉が少しおかしいよ、って言うのよ。考えたら、一週間も誰とも喋ってなかったから口が強張っていたのね」
わたしの耳に隣の席でしゃべっていた初老女の話が入り、印象を与えた。
わたしも話し相手がほとんどいない孤独者なのだ。会社を辞め、会社での人間関係がすべて消えた。町内の障害者の会、カラオケ教室、政治活動で知り合った女、男とも関係が消えた。理由を考えた。考え方方が合わないとか相手がわたしを一方的に利用していることに気づいたとかであるが、私自身が変わった考え方をし厳しい男であることが原因でもある。
寂しくなる時がある。
そんな時は歌を口ずさんだり、書いている小説の次の展開を考えたり、株でもうけたら旅行をしよう、あの女と再婚できたら幸福だろう、など空想に耽る。わたしにはなんの才能もないが、世の中ですごいことをやった者は妻子がいないとか変わり者とかいうタイプが多い。孤独が空想し、想像力・独創力を養っているのである。妻子がいれば変わり者だと噂され、妻子が酷い目に会うことがあり、会社勤めをしていれば変な噂は仕事の障害になる。わたしにはそんなものはないしはなくなった。
どこに行こうとなにをしようとすべて自己責任だし、自由なのである。こんな状況を活用しない手はない!
姥捨て山みたいだったカラオケ教室から、違うカラオケ教室に通い始めている。姥捨て山教室は80歳近い女が13人もいて、絶えず男女関係や個人的なことを監視していて、公私の区別が出来ない陰気臭い世界だった。男は私と先生だけだった。わたしが隣の席のバアサンと喋ったりしていると、ジット見つめているバアサンのいやらしい目線があった。女が男の視線にいやらしさを感じる気持ちがわかった。
わたしはパソコン教室の講師をしていたS先生にスカウトされて、S先生のカラオケ教室に通っているが、あまりのレベルの高さに少し怖気づいている。姥捨て山では歌がうまい!と言われていたわたしはプロ並みの生徒と毎週、競うことになった。教室が始まる前にカラオケ屋に行って予習を2時間もして参加するのだが、S先生からは、まだ楽譜どおりに歌えていないと言われ、自信がぐらついてきた。S先生は男勝りで、50歳前くらいで、眉が吊りあがっている。パワーに溢れ、厚化粧をしていて、私に、シゴキがいがある、とか、こき使ってやる、とか、唾をつけてやった、など男でもあまり使わない言葉を投げてくるが、さっぱりした性格でまさに九州男児である。パソコン教室ではエクセル講座をやり、外国では性別する場合、男、女、とあるがもう一つ、その他、という項目がある、と言っていたので、先生は(その他)じゃないですか?と今度言ってやろうと思う。
わたしは町の歌謡祭にも通って歌の研究をし、散歩しながら口ずさんだりしているが、自信のある歌い方が出来ない。S先生は九州大会で優勝した人で、ステージで歌うとプロ歌手より感動させる歌い方をする。。先日、先生の歌っている場面をビデオに撮った。曲のクライマックスの場面では眉が吊りあがり恐いほどの形相であった。
歌の世界にはまり込むと表情まで変わり、手を胸や腹に当てたりして、主人公になりきっているのだ。先ほど散歩しながら口ずさんでみた。すると歌詞の一語一語をかみ締めるように歌い、時分の顔に歌詞の世界の表情(恋心)が現われたのがわかった。
歌手とは歌を通してて演じる俳優なのだ!普通の俳優は台詞や表情で役を演じるが、結局、歌手も俳優も演じ、そして役になりきる点では同じである。これはわかりきったことであったろうが私にとっては新しい発見であった。
歌う楽しさは、歌いながらその世界の主人公になれるということなのだ!
今日の朝、産直の店に行った時、昔の仕事仲間に会った。彼から意外な話を聞いた。NHKの集金をしていた時の労組の仲間だが、話題の中で、彼がなぜNさんの死に様に進めたのかわからない。彼も余命を控えた身だからであろうが、すごく感動した。Nさんが死んだことは数ヶ月前に彼から聞いていたが、深夜に彼が苦しみ始めて、妻が驚いて救急車を呼ぼうとした時に妻を怒鳴りつけたと言うのだから、唖然として何とも言えなかった。Nさんは北九州放送局の分会長であった。わたしが福岡放送局に分会をつくる時に応援してくれ、20年以上の付き合いだった。NHKから苛められる集金スタッフを身を削って助ける、男の中の男であった。営業部長のネクタイを掴んで首を絞め、団体交渉をした話も聴いた。わたしは彼を現代の(無法松)だと思って尊敬していた。彼は退職しても毎年、年賀状をくれた。いつか会いたいと考えていたが会えなかった。
妻は夜中に寝ていたNさんの呻きで目を覚まし、顔を見た。青ざめ、息も絶え絶えに低く唸っている。異常事態だと判断した妻は救急車を呼ぼう、とつぶやいた。馬鹿!貴様、そんなんは呼ぶな!と苦しげな声で怒鳴られ、迷ってしまった。心筋梗塞を起こしていたのだ。わたしは経験があった。あの痛みは心臓を刃物で刺されるような感じで、耐えられないものだった。三年前、病院のベットにいたわたしは心筋梗塞を起こし、看護婦を呼んだ。応急手当を受けてで助かったのだった。あの痛みの中で、呼ぶな!と怒鳴りつけるなんて信じられない。どんな気持ちだったのかは死んだ今では推測するしかない。
Nさんの妻は娘を電話で呼びつけた。駆けつけた娘は救急車を呼んだ。担架に載せられたNさんは病院に着く前に死んでいた。心筋梗塞を起こすと、心臓を取り巻いている血管が詰まって酸素が行かず心筋細胞が死んでいく。三分の一も死ねば心臓は通常の動きが出来なくなると思う。わたしの心臓は五分の一くらいが死んでいるので以前のような元気はない。
こんな推測をわたしはする。Nさんはこう言ったのだ。?お迎えが来たんじゃ!邪魔するな!行かせてくれ。
わたしは逝く時にそんな言葉を残してみたいし、そんな男になりたい。
今年は竹の子、庭に100本ちかく咲いたシャクヤクを産直店に出し、生活費の足しにした。竹の子は半分も売れ残る日があったが、タイミング(店頭に出てる量をみて値を決め売れるかどうか予想する)の判断が出来るようになったせいで4万円くらいの収入になった。激しい労働に心臓も耐えることが出来た。次はソラマメ、梅の実、ニラ、ビワの出荷になる。
だが庭も見回すと花がすっかり消え、葉っぱばかりが残っている。花の消えた庭はなんとも寂しい。わたしには息子はいるがまったく寄り付かない。娘が欲しかったが出来なかった。100本もシャクヤクが花を咲かせていれば観るだけで幸福感に浸れるが金に換えてしまった。大正時代に飢饉が起きて娘を置き屋に出した時代もあった。今でも娘を嫁に出すことだってある。わたしの気持ちには自責の念と寂しさが残った。嫁に出したシャクヤクは今頃マンションやアパートの一室で奇麗な花を咲かせ、そこに住む人と楽しくすごしているにちがいない。
それを良しとし、来年はシャクヤクの花の半分は残し、わたしといっしょに生活をしよう。
こんな単純なタイトルを考え出しすのは、日頃から自然に接する生活をしているからであろう。
まず第一に思いついた答は花には雄しべと雌しべがあり、蝶や蜂が寄ってきて受粉されることで子孫を増やす、美しいことで蝶や蜂を呼び寄せるということである。美を競い合い、美しくなければならないのだ。すると蝶や蜂には審美眼があり、美意識があるということになる。色についての原理は物理化学ではわかっていない、と公開講座で先生が言った。美意識は人間にしかないと考えていたが考え方を変えなくてはいけないのだろうか。昆虫は匂いやフェロモンでも引き付けられるから美しさだけが原因ではない。
ところがダリアやボタン、チュウリップのように雄しべも雌しべもなく、球根で増えるものや隠花植物もある。彼らは蝶や蜂の手助けをしないのに開花植物以上に美しい。これはどういうことだろうか?と考えるとわけがわからなくなってしまう。存在感を示しているとしか考えられない。
今年の八月で、心臓手術後の三年目になる。大手術をした後、普通の生活に戻れたことに感無量だが、医療業界への疑惑が時々、くすぶる。飲酒、暴食、ストレス生活が原因だが、医者や病院の実態、果ては医療業界を知ることが出来た。当時、高血圧症で柴山医院に通っていたが糖尿病を併発した。狭心症の発作が起こり、柴山はグループの遠賀病院の循環器科を紹介し、わたしはその病院が医師会病院だったので信用した。柴山は遠賀病院が仲間内だから紹介したがそれがわたしの人生を狂わせかけた。そこには心臓血管外科がなくカテーテル治療しか出来ず、二十年も高血圧症で薬で抑えたわたしの血管は動脈硬化を起こし、バイパス手術が必要であることは普通の医者なら見抜いているはずだった。柴山は仲間内の関係の方を大事にした。
遠賀病院の近藤医師は副院長もかねていて、わたしの冠動脈に風船治療をした。失敗した。仕事に戻り、二度目の狭心症発作をおこした。遠賀病院で二本目の冠動脈にステント(金属製パイプ)を入れ、成功した。仕事に戻ったが、バイクの盗難にあったり仕事が辛くなった。三本目の冠動脈にステントを入れてもらおうと考えて入院した。その血管は直径が6ミリもある大きなもので90パーセントを血栓が塞いでいた。そこにステントを入れ込んでも血栓が外れれば血管をふさいでしまうのではないか?と疑問を抱きながらも近藤医師を信用した。治療後30分、ベットで夕食をとっている時、心筋梗塞が起こった。近藤医師やスタッフが大急ぎで集められ、血栓をなんとか吸い取った。心筋梗塞のせいで心臓に瘤が出来、弁もおかしくなっていたが、近藤医師は退院させた。肺に水が溜まったままだったので肺炎を起こし、また入院した。そこで他の病院にしたほうが良いのではないか?と考えたがカルテなどの資料をどうするのかわからず、このまま年金病院に行ったほうが良いのか判断が出来なかった。肺炎が治って退院したが、散歩中に狭心症の発作を起こした。遠賀病院に行き、近藤医師はそこで年金病院を紹介した。近藤がもう一人の医者と二人でカテーテル治療をしてる時、もう一人の医者はバイパス治療!とつぶやいていた。血栓が外れることを想定しなかったのか?血栓吸入装置を使わなかったのか?と近藤に尋ねた。脂分が強すぎて吸い取れなかった。近藤は答えた。そのまま放置したのか?近藤は答えなかったが、未必の故意なのである。
民間企業の製品を買ったり契約したりして、不具合が生じると消費者センターが相談にのってくれるが、わたしが上記の内容で迷ったり医療ミスをされたりしても相談する組織が無い。私だけでなく多くの人が病院で酷い目にあっても相談の窓口がないのだ。これはどういうことであろうか?病気は製品とちがって複雑だから窓口がないのではない?と言った人がいたがわたしは医療業界の怠慢・後進性だと考える。年金病院でバイパス手術をうけ通常生活に戻ったが、不整脈が時々でる。その後、体調はどうですか?と訊ねるアーフターケアもない。また、保証という考え方もない。医師会という組織は何をやっているのか?わたしが今のような元気な状態であれば医療ミスで裁判に訴えるのだが。近藤は左遷され、遠賀病院にはもういない。