ブログ - 日記カテゴリのエントリ
これはわたしが吃音矯正所にいたころ、発声練習で口にした言葉です。非常に懐かしく、意味深く、わたしの人生の哲学になったと言っても良い言葉です。誰の言葉かは知りませんが、じぶんの人生の支えにもなりました。腕時計の時間を見る暇も無い自動車組み立て労働、雨の日、風の日に負けず、バイクで回ったNHK集金労働の中で、転んでも只では起きん、この中から何かを発見してやる!という姿勢は崩しませんでした。名も無い人生が終わり、結局、成功らしい成功はなかった結末ですが、この姿勢で良かったと考えます。
今の若い人で悩みを持っている人はたくさんいるし、老いた人でも悩みはあります。悩みとどのようにして向き合うかによって変わって来ますし、そこでその人の人生観が出てくる場合、出てこない場合があります。出てくるように向き合ってみましょう!
(悩む力)というベストセラーになった本を書いた大学教授がいますがそのタイトルは素晴らしいの一言です。画家や作家の中には不幸や悩みを作品の肥やしにした人がたくさんいます。わたしは(ガラパゴスの女)を書き上げ、文学賞に投稿しました。結果はどうであれ、一つのことに取り組んだ生活に意義を感じました。そして、次の人物を作品にするために取り組んでいます。
(反物質)というタイトルなのです。主人公を物質として現さなければならず、困難を極めそうですがこのブログで書いてきた内容の集大成になるかどうかの、勝手な自己判断です。
一ヶ月ほど前に、フランスでIS国のテロが百人以上の観客を競技場で銃殺した。犯人は警察官によって銃殺された。新聞報道によると普通の若者であったようだが内面まではわからない。ニューヨークでの3.11事件も含め、大きなテロが起こっている。
わたしは四十年前の連合赤軍・浅間山荘事件を思い出す。大学を卒業したかどうかもわからず、そのことに関心もなかった私。卒業証書はどうなったのか知りもせず、それまでの学友たちとの関係も自然消滅し、就職もしていなかった寒い冬。その寒さは私の心の寒さであった。その時、浅間山荘で学生運動をしていた学生のリンチ殺人事件があったことが、新聞やテレビニュースに出た。わたしは直接、学生運動には関わっていなかったが、テロを実行する者の気持とわたしの気持がどこかで通じていたことがわかる。ただ、権力と民衆の区別はすべきであることは知っていた。リンチ殺人事件には仲間の異性との関わりや嫉妬が起因していたことを知って、わたしはかれらがその分野を乗り切れなかったことに深い絶望を抱いた。その事件は学生運動の終焉であると思い、マスコミも識者のその意見を出した。学生運動は消滅していったが、統一教会の原理運動や創価学会が勢力を盛り返し、学生運動をエネルギーを吸い取っていった。
オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、多くの市民をサリンで殺した。教祖は逮捕され、刑務所に入れられたまま、まだ生きており、その宗教は名前を変えて存在し、信者も復活している。
IS国を運営・管理する立場の者にとって民衆は寄生の対象である。対象が利益を求めて寄ってこなければ国家は成立しない。北朝鮮は王制・宗教国家である。IS国が欧米型民主主義を否定し、イスラム原理主義の立場を取るのであれば神格化された教祖が必要になってくる。日本には万系一世の天皇が存在してるが、イスラム国はそこがはっきりしない。IS国の革命は連合赤軍のような末路を辿りそうである。
連合赤軍の未熟な学生たちは民衆が現世の利益を望んでいることを理解できず、それは革命思想によって超克できると信じていたが彼ら自身が超克できなかったのである。わたしも出来なかった。
福岡教育大学の日本事情Bの科目に通い始めて、十回目ほどになる。このブログに書いているように良い刺激を受けてる半面、いろんなことが見えてくる。八十%ちかくを占めている留学生達の活気のなさ、元気のなさである。ほとんどが韓国、中国人たちであるが、彼らにとってここは異国に地なのである。日本語を憶え、日本人を理解するだけでも大変なことであろう。日本人は冷たい、と(考察用紙)に書いているという報告を二件ほど先生から公開された。なるほど、とわたしは思った。日本人学生その者でさえ元気がない、活気がない、曖昧なのである。時代のせいである。産まれてから冷暖房、水洗トイレで生きてきた者達に活気が出るはずはないし、小学校の教室に、冷暖房設備を入れろ、と要求する時代である。自己主張や正論、暴言を言ってはいけない国である。活気がないのは当然であり、自己主張の強い韓国、中国人たちから見れば、冷たい、と感じられるであろうし、国境問題、従軍慰安婦問題、南京虐殺など難しい問題が噴出した時代である。
わたしは国内において(変わり者)で通る人間だから、外国人の立場に近い。留学生の心境はじゅうぶんにわかるが、日本人の曖昧さが逆に一神教をつくらず、自己主張をしないことが内乱を防ぎ、米国への軍事的依存が戦後、外国との戦争を防いでもいる、とも考える。そこを留学生や外国人に伝え、彼らに考えてもらいたい。
近頃、物忘れが増えてきた。昨日は公開講座を終えて帰ろうとしてして、女子留学生の手提げ袋に手を伸ばしてしまったり、シクラメンという花の名前が思い出せなかったして、なんだか認知症にすすむ気配を感じる。パソコンの機能にもあるように脳に削除システムが働き始めているのではないか?と考える。68年の人生を過ごしてあまりにも多くの経験・知識を蓄えたため、パンクする前に記憶容量を放出しはじめたのだろうが、80歳、90歳で元気バリバリの一般人、学者、スポーツ選手がいる。
若い頃に読んだ、深沢七郎氏の小説(楢山節考)を思い出す。高度成長期のあの時代に、母親を息子が背負って山に捨てに行く物語、を書くなんて、作者はまさにレアである。高齢になった母親は歯が丈夫なことを恥じ、石臼に歯をぶつけて抜け落とそうとし、楢山参り(姥捨て山)に行くのを楽しみにしてるという、その書き出しにはわたしも言葉が出ない。息子は雪の降りそうな日に母親を背負って山に向かう。背中の母親は息子が帰り道を間違えないように目印を道に落としていく・・。息子は母親を山に置いて帰宅するのだが、わたしは死ぬことにも力が要るのだと考える。精神状態が異常になって自殺するのではなく、正常な状態で生存本能に逆行するわけだから、生きるのに等しい力が必要である。今のわたしには出来ない。
野生動物の死体は不思議なことに見られない、とある男が言った。それは他の動物に食われるからだ、と私は考えたがそうではないみたいだ。山歩きや竹の子堀りなどでよく山に入るわたしは野生動物の骨さえ一度も見たことがない。彼らは誰にも決して見つからない所が、死に場所としてあるのであろうし本能的にそこに向かうにちがいない。(楢山節考)の姥捨て山みたいに
今日は公開講座・日本事情B(福岡教育大学)に参加して、良い刺激を受けた。先生が先週の生徒たち(留学生が70%を占める)の議論の内容を公開し、その中に、日本人は多宗教なのか?ということが出ていたと話した。わたしは宗教に対しては哲学的な興味はあるが、信者でになったりなることはないだろう。一神教があるからその存在感を持つために、静電誘導の原理と同じで多神教やサタン(キリスト教)が対立物として出現したと考えた。
グループに別れて、生徒たちの議論の時間になった。わたしは韓国人、中国人の二人の女子学生に次の質問をした。この教室に入る場合、日本人だと知らない生徒がいても頭を下げるがあなた達の国の場合はどうか??知ってる者がいれば声をかけるが頭は下げない、知ってる者が居なければ頭を下げることはない、と言う返事であった。
それから、一人の日本人女子学生が次のように言い、わたしは日常的なことであったが、驚いて目からウロコが落ちた。?わたしは部活でバドミントンをやってるけど、体育館から出る時には誰がいなくて練習場に向かって頭を下げる。
その心理は非常によく理解出来た。わたしが大学で空手をやっていた時、校舎屋上のコンクリート床であったが、そこでも出入りする時はそのようにした記憶があった。なるほど、日本人は日常生活の至る所に神の存在を知り、祭っているのである。井戸の柱、便所の柱、玄関の柱、庭の祠(ホコラ)にしめ縄をかけるし、十年前までは自家用車のボンネットにまでかけていた。相撲取りの化粧回しもしめ縄である。中国や韓国にはそんなことはないし、道祖神もないと言う。
大樹をしめ縄で囲ったり、神社の狛犬にしめ縄を巻いたり、日本人はすべてに神の存在を知り、祭ることが伝統になっているのだ。言葉の中にまで神が宿っていると信じ、それが言霊信仰であり、多神教だと言われる理由である。日本文化の素晴らしさを知ったが、こんな機会がないとそれを発見することはなかったであろう。
ある友人にケイタイで電話を入れたが、出なかった。待っていたが、向こうからも掛けて来なかった。5年ほどの付き合いで彼が私を嫌った理由はわかったが、それを詫びて関係を戻す気持はない。
嫌われる力、なんてタイトルをつける私はやはり変わり者だと多くの人は思うであろうが、それは自由である。自然界で動物、昆虫、植物には嫌われることで身を守っているものはたくさん居る。きれいな蝶が幼虫の頃には体中に棘を出し毒々しい姿で身を守っているし、植物でもバラは鋭い棘で身を守っている。マムシ草は茎をマムシの斑模様に似せて守っている。彼らは嫌われなければならないのだ。
わたしは身を守るために嫌われるようにしたわけではないが、孤立無援の状況は身を守ることでもある。人に好感を持たれると、金を貸してくれ、借金や部屋の賃貸の保証人になってくれ、健康食品を買ってくれ、投票の依頼、女であれば男から体を狙われる、男であれば女から金を取られるなどなどさまざまな被害が出てくる。嫌われてもかまわないと言う姿勢になると、人も寄ってこず、人に好かれようと無理な態度をとる必要も無く、我が道、を歩くことが出来るのだ。
組織で働いている人はそうはいかないこもいれないが、自分の心が徹底していて揺れなければそれでやっていけるものだし、逆にまわりの八方美人たちは尊敬さえするようになる。会社に対して本当のことを言ってくれて感謝してる、と言われたこともあった。ーあんたは皆から灰汁が強いち言われるやろう、と初老女から言われた。今の時代に産まれてくるべき人ではなかったとも管理職から言われた。少し気にかかったが無視した。
仕事で不利益を受けたことはなく、逆に管理職からは怖がられ、機嫌をとられた。
今日は福岡教育大学で日本事情Bの講義を受けた。女先生はマスコミはスポンサーが付いているから情報は100%は信じられないし、NHKは国寄りの報道しかしないから信じられないし、そうなるとネットしかないがここも錯綜してるから峻別するのが難しいと話し、生徒の中にNHKの関係者がいるかどうかは知らないと話した。わたしは彼女の話の内容にすべて同意していた。
次に先週、提出したレポートの内容に移り、42件のうち27件が良かったが、ネットをコピーしたのや問題意識がはっきりしないのがあったと言った。レポートを書いて問題を提出することで議論が深まるので書くことに異議があると、言って良い話をしてくれた。
講義が終ると、私は先生のそばに行って、わたしの書いたレポートー(公)について、の評価を訊ねた。評価?と訝しげな顔になったので、感想を聞きたいというと、まだ論文には・・、と言い、論文には至っていないのですか?と言葉を向けるとうつむいたまま、はっきり言わない。エッセイのレベルですか?と言うと、うなずくように黙っているので、失礼しました、と言って去った。
おかしな雰囲気だったがわたしは気づいていた。レポートの中で、公務員は貴族階級に近く、責任のない者もいる、と言う言葉であった。国立福岡教育大学なので先生は国家公務員なのである。わたしはレポートを書きながらそのことを少し気にかけたが、無視した。
私は6ヶ月9000円の講義料を払ってる自由な身分だから不利な取り扱いを受けることはないが、生徒や関係者の立場であればこうはいかないし、そんなことは書けないであろう。業界というのは簡単に踏み込んではいけない世界であり、誰でも業界の利権の中にいて生活しているのである。わたしも三年前まではNHKの委託集金人であったのだ。
昨日のカラオケ教室でこんな世間話が出た。
90歳の母親がガンにかかり、母親の娘は最後だと考えて、病院に延命治療の拒否を申請していた。母親が熱を出して苦しみ始めたが病院側はいっさい治療をしない、それは酷いと言うのだ。娘はゴム管で鼻から流動食を入れたり、点滴で栄養剤を入れたりする延命治療を拒否してるたのに風邪の治療を拒否したわけではない、と言うのであった。わたしはよく理解出来た。3年前の入院生活で寝たきりの患者が鼻からゴム管を入れられ、何度も外そうとしてボクサーのグロウブみたいのを両手にはめられた現場を見たからだ。
末期患者の世界は時々、ニュースに出るが、すさまじい所である。排泄物を回りの者に塗りつけたり、暴言をはいたり、暴力を振るったり、介護士たちがいないと無法状態になる。ニュースは介護士たちを加害者として扱い、かれらの仕事の実態をあまり書かないし、普通の犯罪でも加害者の動機は伝えない。昔は寿命が短かったし、末期は自宅で迎えていた。座敷牢に入れられた場合もあったが家族が最後まで看取っていた。
人ごとではない、私自身の未来でもあるのだ。
安楽死制度を早くつくれ!と言いたい。死を引き受ける教育をしろ!と言いたい。
階級制度は少数派が頂点に立つピラミッド型になっていて、その逆の型は絶対にありえない。貧乏人の子だくさんと言われるように搾取される側は必ず余りが出来ようになっていて、搾取する側を絶滅させないように出来ている。
食物連鎖の構造では食われる側はそれを前提にして出産数を多目にして、生命世界が壊れないようにしされている。封建時代(現代にも続いているが)において、農民が一番多くいて、武士、貴族、天皇の階級システムを護るようになっている。多数派が少数派を搾取する構造がもし出来たとすれば少数派はあっという間に食い尽くされシステム自体が崩壊してしまう。
こんな物理的な推察をすると事態がすっきりした形になって理解出来るが、誰がこんな秩序をなしえたのであろうか?
ネットの進展は怖いくらいの早さである。わたしなど、(岡垣町 ・・・・)で検索すればすぐに出てくる。・・のHPにどんなメールを送ったとか住民投票議会で何を話したとか、頼みもしないのに公開されている。今年の反安保で若者たちがネットで仲間を作って団結したとか、中近東でアラブの春が訪れたとか、そんな事実からある大学教授はこれで日本にも変化の時代が来た、と話していたが、わたしは残念ながらそうは思えない。現在、とくに私の住む田舎町を例にとればわかるように噂話、蔭口はネットが出現する前から情報局であった。暇を持て余した主婦や男達が他人の悪口をいうことで自分が善人であるという錯覚に満足・快感を覚えていて、わたしが姥捨て山のカラオケ会から断りもせずに他のカラオケ会に移ったことなど、行動に移った二週間後にはすでに情報として流れていた。カラオケ会の女先生に惚れてストーカーをしてる、という有られもない話を広めている女の話が耳に入った。わたしは笑いながら、話を聞いていて、出所の当人に抗議をする気もない。聞いた者がそのデマを信じようがそれが広まろうが関心はない。
多数派が石垣を作ったピラミッド社会では多数派が頂点を攻撃し、壊すことはありえない。頂点を攻撃するのは石垣から外れた異端者である。多数派は見て見ぬふりをするだけで主張はしないから、変化はもたらさない。蟻の巣の中で働かない蟻を排除すると、働いていた蟻の一部が働かなくなったように構造は変わらない。社会も変わらない。民主党が政権をとったがすぐに利権政党にとってかわられたのと同じである。
ここで話は重力の法則に跳ぶことになる。重い物が下に集まる法則は山をつくり、左右対称系をつくり、数と重量をj減らした次の段が上層部を支え、それが次の段を支えていくのである。太鼓の時代から山やピラミッドは地震がおこってさえも崩れない。同様に社会の構造も壊れず、変わらない。封建時代、民主制時代と表示は変わっても同じなのである。食物連鎖の下層には弱小生物(これは一面的な考えで弱さは強さでもあるが)たちが上位を支え、それが連鎖しているのと同じである。