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地上最大の力・エネルギーは地球の回転力である。地球は太陽から振り飛ばされるようにして分離し、公転をはじめ、火炎状態の時には宇宙のゴミを体に吸い取りながら大きくなってきた。回転速度は時速1700kmという信じられない速さであるが人間を含め地上の生き物たちは引力によって貼り付けられているのでその速度は感じ取れない。
その回転力は重力、磁力を生んでいる。音波によって音を作り、落差のある自然の形、気圧の変化(風)、四季、日の出、日の入り、潮の満ち干き、気温、台風、嵐、地震などすべての活動を作っている。さらに呼吸の動き、心臓の鼓動、色んな体液の流れをつくり、生命を維持し、また死滅もさせる。
すべての動きは地球の回転力によっている。太陽光線の作用も受けて変化、生命の成長を受けていることを考えると、(神)とは地球の回転力と太陽の光りであることがわかる。古来から太陽を神として祭ってきたことがよくわかる。
私たちの命も地球の回転力と太陽によって生かされているのだ。
これもわたしの知りたかったことだが、ネットで調べても、わからない、と言う答しかない。けれどもわたしには想像出来るし、以前のブログで書いた両性具有の観点からとらえると理解出来る。動物でもそうであるが人間の体には生きる上において不要なものは一つもないし、現在、不要であっても昔は必要であったものはいくらでもある。爪、盲腸、腋毛などいくつか残っている。爪は木に登ったり、敵と闘う時に相手を引っ掻くことが出来るし、盲腸はわからない、腋毛は頭髪、陰毛などと同じく大切な個所の防衛を役を果たしている。腋毛は体臭、フェロモンを分泌する大切な部分である。人間の嗅覚が野生動物並みの能力を持っていた時、今、誰が何メートル先にいるとか、雌や雄がどこにいるかを事前に感知することは重要なことであったのだ。
男の乳首の周りには産毛が残ってる場合があるし、両性具有であった頃、両性人は乳首から乳を子に与え、クリトリスとペニス、精嚢と卵巣、子宮も持っていたのだ。前者の二つはどちらかに選別され、子宮は消えて、その部分は縫合され、(蟻の門渡り)と呼ばれて男性のみに残っている。肛門と睾丸の間に筋があり、ぶつぶつしている。そこが女と同じく、膣であり子宮に通じていたと想像する。
乳首が二つあるというのは双子の出産を想定しているからだし、動物には6個以上あるのはそれだけの出産を想定しているからである。強い動物ほど乳首の数は少ないし、貧乏人の子だくさん、と言われるように弱い者は貧困による乳児の死亡を想定して多く出産するようになっている。
昨日の日曜日は(遠賀川フエス直方)を見に行った。遠賀川の河川敷で行われ、一万二千人の観客が集まり、わたしもライブ・ショウに酔った。若者たちの歌やダンスなどの驚くほどの変化、エネルギーに圧倒された。特にROWSHIの表現(語り音楽)には感激し、何度も涙した。彼は直方の出身で、少年の頃は暴走族でもあり不良であったが10年前からはその経験を糧にして、自分の人生を語り、歌い、叫び、演説し、告白し、祈り、懺悔し、希望をつぶやき、箴言を言い、彼の人生をショウにして、まさに教祖のようであった。多くの若者たちがステージを仕切るフェンスに駆け寄り、手を振り、言葉をかけた。その表現形式は歌や詩や小説などの形に囚われず、自由自在に即興的に歌いしゃべっている感じがして、新鮮な刺激を与えてくれ、わたしの小説のヒントにもなった。形式に囚われなくても良いのだと考えた。自分がいかに今までの小説概念に囚われていたか、文学世界の概念によりかかっていたかの反省にもなった。凄く良い経験あった。鳥羽一郎さんが歌い、無料であるということが参加した理由であったが、思わぬ収穫を得た。
筑豊という地域に関してわたしは差別と反感を持っていた。生活保護の受給率も日本で一番高く、暴力団も多く、市営住宅の上の階から冷蔵庫を投げ落とすなどという噂やその他さまざまな悪のイメージを持っていたが、それは単に貧困が生んだに過ぎないことがわかった。石炭産業で栄えていた地域が石油の出現のために産業自体が消滅したわけだから、住人たちは貧困に喘ぎ、家庭も壊れ、悪が育っていったのだ。
だが、貧困や悪はエネルギーを生んだのだった。そのフェスタには筑豊出身のアーチストが何人も登場し、ステージの上のアーチストたちは(おー、そこのお前、来てくれたな!)などと声をかけ、地面にビニールをひいて座っていた観客たちはすごく盛り上がった。
アーチストや実行委員会の方たちに感謝し、お礼を述べたい。
マスコミは絶えず有名人を悪役に仕立て上げ、売れ行きを伸ばし、収入源にしている。資本主義の世界だから当たり前のことであるが、そのやりかたはある面で事実や真実を目隠しにするという重大な欠陥でもある。悪い面ばかりが強調されすぎて、他面が覆い隠されてしまうのである。太平洋戦争の時に、負け始めているのに、勝った!勝った!と書き続けた姿勢に似ている。大本営発表に従ったまでであるが、今は、読者の生贄への欲望、売り上げ増に従っていて、それはマスメディア本来の目的から離れてしまうことを忘れないで欲しい。
(五体満足)の本を出版した障害者が不倫をした出来事など良い材料である。手足がないのにそれを乗り越えた作者はこれで生命を奪われたに等しい。不倫、というのは一夫一婦制が生んだものであり、雄は多くの種をばら撒き異種をたくさん作る性の仕組みになっているのである。一夫一婦制というのは家族を多く作って人頭税を多く取ろうとする権力の狙いにしかすぎないのである。その不倫を問題視することで権力は一夫一婦制を守ることができたのである。
こんな書き方が出来るのは私くらいしかいないであろう。有識者が書くとまた(悪役)に仕立て上げられる。無名であることはこんな時に強い。
次に千葉大生による中一少女監禁事件。ドアに外鍵が付けられ、脱出出来ないようにされたのは事実であろうが、外部に叫ぶ窓はあったし、加害者といっしょに外出もしている。何故助けを求めなかったのか?誰もが疑問に感じるが、加害者は両親に捨てられ、誰も捜してくれない、と少女に訴え、少女は助けを求める決意が出来なかった、と県警が述べている。毎日新聞はそう書いている。わかったようなわからない言葉である。
わたしの推測は次のようである。少女は最初は監禁されたことに驚き、怖がったが、加害者が食事を与えたり、話しを二年間もするうちに、親しみを覚え、恋愛感情が混じってきたのである。加害者と被害者の交感状態であり、こうなると加害者でも被害者でもない恋人関係であるが、少女は家に戻る時、両親にそんなことは言えず、監禁されている、と110番通報を公衆電話からしている。公衆電話が使える自由な状況であれば、家に帰るか、両親に通報すれば良いではないか?けれども、少女は恋愛関係にあったことは両親に言えず、監禁されている、と先ず訴えることにより自分を被害者であると正当化したのである。女は被害者を装うことが巧みなのだ。
本屋で(オール読物)という文学雑誌を立ち読みし、松本清張賞に応募していた(ガラパゴスの女)が予選で落ちていたことを知りました。かすかな落胆がありましたが、懸念材料が消えて安心しました。障害者仲間でのイジメがテーマだったのですが、彼女らの障害を生々しく表現しており、登場人物のモデルが誰なのかすぐにわかる小説でした。間違って賞でも取って、本が発行されたりすればわたしが非難されることは確実でした。わたしたちの恥部を材料にして、金(賞金は500万円)を取った、と噂されたでしょう。数年前に芥川賞を取った女作家がモデルから名誉毀損で訴えられ、自殺しました。
マスコミに顔写真を出されることも出版社から原稿の依頼を受けることも無く、従来通り、この場で自由に書けるのです。無名であることの自由度は有名になった人にしかわからないでしょうが、無名であるわたしには十分わかります。このホームページは独断で無償で運営しているので実名を出したりしない限り心配はありません。多くの人に興味を持ってもらいたいと思いますが、閲覧者数に惑わされることもありません。
落選したからにはこのホーページに掲載することを考えています。その時には是非、読んでいただきたいです。
小春日和に誘われて、散歩に出ました。いつものコースですが、人と出会うことのない山中です。スマホで(面白山の滝)という新曲を聴きながら、上り坂、下り坂、つまずきそうな石ころ小道、清流のせせらぎ、小鳥のおしゃべりなど交えながら、すごく良い気分になりました。吉幾三さんの(ひとり北国)の歌になると声を出して思い切り歌いました。5月の発表会で歌おうと考えている歌ですから、力を入れました。
小道のそばで(マムシ草)に会いました。昨年は赤い実をつけていましたが、枯れて、新芽が出て伸びていました。マムシのような鎌首を伸ばし、まだら模様の茎で体を支え、(おれはマムシなんだから近寄ると怖いぞ!)と威嚇しているのです。秋になると赤い実をつけて、寄ってらっしゃい!私って、きれいでしょう?と訴えるのです。まさに人間の心です。マムシ草のラッパ状の花は緑色のままで花らしくありません。一匹のハエが花弁に止まっていました。花弁の中を覗きこんで見ると、小さなハエが落ち込んでいて、上ろうとしていますたが滑って上れません。この植物は食虫花でもあるのです。小さなハエは何度も足で花弁を掻くのですがすべるばかりです。
わたしは楊枝ほどの枯れ枝を拾って小さなハエの前に差し出しました。小さなハエはなんのことかわからず足を滑らせ続けていましたが、小枝に足をかけ、上ってきました。わたしの指まで来ると、羽根を広げ、飛び立ちました。
人間社会にも騙したり、脅したりしたりして生きている人がいます。自然界も同じですが、自然界ではずるいとか悪いとかいう考えはありません。マムシ草は野生動物や人間を脅すので、嫌われ警戒されます。それが繁殖力の弱さになっています。人間の場合もそうです。白菜やキャベツなどは美味しい味を出して人間に好まれ、庇護を受けることで繁栄していますが、人間界での嫌われ者や怖がられる者たちは女も近づきにくく繁殖力が弱くなります。
今、国家や和食、文化、工芸、電気製品などの分野で日本は世界的に見直されてきている。アメリカとの戦争で大敗し、何百万人の戦死者を犠牲にした日本はすべての分野において自己否定をしてきたが、経済復興をし、戦後70年にしてやっと自己回復を始めた。一民族、一言語、孤島という環境はまさにガラパゴス国家である。孤立は家元制に見られるように自己培養を育て、純粋さを生んだ。先日、公開講座でベルギー人留学生が次のように言った。ー相撲の世界では一つの相撲部屋に外人は一人しか入れません、これは差別です、と。わたしは初めて耳にした話しに驚き、返事が出来なかった。多くの日本人はこのことを知らないし、マスコミも報道しない。
わたしはカラオケ教室に通っている。2ヶ月おきくらいに各教室の発表会があり、誘い合って140人くらいがステージで歌うが教室の先生との関係によって参加できない生徒が出る。先生どうしの関係が悪い場合には生徒も参加してはいけないのである。
お茶、生け花、日本舞踊、古武道の世界においては世襲制が強く、閉鎖的である。外人は師匠にはなれない。この事実は良い悪いのレベルではなく、逆に純粋培養というレアな効果を生んできたのである。グローバリニズムはガラパゴス国の国境を取り払っていきながら、フラット(平面)社会を作るのだが、また新たな段差、落差が重力の法則によって出来上がるのである。
今日は(ラヴィ)と言う会社のセミナーに誘われて行ってきました。健康食品や化粧クリームをウコンから作り、製造販売してる会社で、紹介販売というシステムを持っています。ネズミ講、マルチ商法だろう、と予想し、ネットで調べて、実態を質疑で暴こうと考えていました。20人ほどいましたが私以外はすべて初老女性でした。一時間半の時間の中で会社概要、システム、成功談(年間収入が2億円の女性)もあって、日頃知らない世界と出会いました。営業部や人事部などがなく、コマーシャルも出していないのでその分経費が節減できるのです。
セミナーが終わり、会員を交え十人くらいの女性たちと昼食を取りながら、質問をし、話をしました。連鎖取引法に抵触するところはまったく見出せず、自然な雰囲気でした。沖縄産の秋ウコンは貴重な成分を含んでいるから他社のウコンとの差別化は図られている、ことなどわかり毎月6千円ほどで購入することにしました。その会話の中で(過去は作り変えれないけど、未来は作れる)という言葉が印象に残ったのです。
なるほど、その通りだな、と考え、自分の未来について考えました。株式投資で設けて、青春の地である東京に旅行する、英会話教室に通っているので外国に行ってみたい、など空想しているのですが、株で設けられないので未来は眠ったままです。
そこで考えたのです。未来は近づいてきて現実、現在になって流れ、過去になるのではないか?すると未来を作ることは過去を作ることではないか?と。
つまり、過去は作れるということでもあるのです。
同時に作り変えれないことも確かです。
わたしは吃りです。68歳になる現在までトモダチ?として仲が続いていることは強い友情があるとしか考えられません。日常生活や仕事の面で障害になり、悩んだこともありますが、他の障害者や健常者の苦労・悩みなどと比較し、客観的に捉えられるようになりました。
毎日新聞の朝刊に三度にわたって、吃音について連載され、興味深く読みましたが、肝心な点が不十分でした。それは吃が機能障害であって、器質障害ではないということです。歌を歌う時や独り言、皆でなで発声する時などは絶対にドモリません。機能障害とは働き方にトラブルがあり、器質障害とは仕組み・構造自体に問題があるのです。器質障害であれば歌や独り言、皆での発声の時にも吃るはずです。
わたしの身内に軽い吃りの人が三人いましたが、ほとんど目立たない症状でした。わたしの母もその中の一人でした。私が三歳くらいの頃、言葉を覚え始めた頃です。誰もそうなのですが、お母さん、と言うべき時に、オッ、オッ、アカアサン、と言ってしまったのでしょう。他の人であれば、少し怪訝な顔をし、放置するのですが、母は吃の血統があることを知っているので、そんな言い方はいけません!、と叱ったのでしょう。それが繰り返され、言葉がしばらく出ない(難発)癖が出来てしまったのです。それが一生、続くことになったのです。条件反射の一つです。
言葉がすぐに出ないことは思考力を養い、慎重さを身につけさせました。表現力も豊かになり、議論が得意になりました。このホームページのブログの数は500近くにもなっています。全部、わたしが書いています。
一つの状態や出来事には良いことと悪いことが必然的に混じっています。良いほうに取るか悪い方に取るかはその人の判断次第です。悩むことがあったら、眞反対の面から観察してみましょう。すると、この世には良いことも悪いこともなく、それは常識に囚われた自分が決めてることがわかります。
何時の時代もどの国の人々も常識にもてあそばれて生活している。隣の家より金があるから幸福だとか、隣の家の娘より自分の娘が美人から自慢だかとか、亭主が立派な会社に行っているから嬉しいとかとか常識に絶えず左右され、比較しながら生きている。他人の眼や噂に振り回されて一生を送り、葬式の時にだって多くの人が参列してくれたから良かった、と死んでまで振り回される。常識は普遍的なものではなく、国家や社会の動きによって絶えず、左右されている。衣服や髪型、思考、ファッションが変わるのと同じである。戦争中に敵をたくさん殺した者が英雄であっても戦争が終ると殺人者のレッテルを貼られる。
権威、学歴、家柄、良い顔、会社などが人の評価の基準であり、新聞社でも人を紹介する時に必ず学歴を書き、評価の基準にしている。作家であれば顔写真を出し、物書きのくせにしてまるで美男・美人コンテストではないか。
だが、若くしてすごい評価を受け、絶頂に達した者には耐え難い悲劇が待ち受けている。元巨人軍の清原氏が覚醒剤所持、使用で逮捕され、釈放されたニュースなどは良い例である。若くして人生の絶頂に達した者はそれ以上の絶頂が周りから求められ、当人も求める。絶頂であったということはすでにそれ以上のものがない、ということである。下降に落ち、うらぶれていくしかない。王さんや長島さんみたいに監督になり、後継者の育成という地味な仕事につけば良かったものを彼はそれ以上の名声を求めてしまった。それが彼の悲劇である。逮捕・拘留の期間で彼が変身できるはずはない。罪をきせられたからにはこれまで以上の悲惨な生活が待っている。
世間や常識に惑わされない自分独自の生き方を少しでも身につけるべきであった。