ブログ - 日記カテゴリのエントリ
今日の午前10時に、Aさん夫婦と車の中で対談をすることになっている。彼は航空力学にも強く、私のつたない物理化学の知識にも助言を与えてくれる。彼はその宗教に入ってくれ、と言う事もなく、淡々と教え、私の質問にも答え、私の考えにも同意することがある。私たちは研究し合っているのだ。
私は聖書を勉強しながら、私であれば次のような聖書を書くであろうと想像する。
神は私たち、動植物を含め地上のすべてのものに命を与えてくれ、元気に生きるようにエネルギーを与えてくれている。エネルギーは質量×重力で現される。地上で最大の質量は地球であるから、最大のエネルギーは地球であり、それが神である。重力は地球がその圏内の大気を押し付けていることから発生している。ゆえに、地球そのものが神である。
地球は自転することで太陽の当たる半球が半日で変わり、昼と夜をつくり、毎日繰り返し、循環している。それは光と陰を産み、すべての現象に二項対立、反転対称形を作っている。自分が不幸であるからと言って、悩むことはない。不幸の裏には幸福が待っており、幸福の裏には不幸が待っているのだ。(楽は苦の種、苦は楽の種)である。不幸であればそれを喜ぼうではないか。幸福であれば気を付けるようにしなければならない。すべては神(二項対立)の意向なのであるから。
神は太陽の光や風でもあるのだから、すべての生物に公平に降り注ぐ。一人とか何人とかにではないが、神から救われるとか幸福が与えられるとか、その逆の場合は神を信じいかに強い関係をもっているかにかかっている。
これが書き出しになるかもしれない。
元旦を、竹の子山で、枯れ竹を燃やして迎えた。独りであった。枯れ竹があちこちに倒れかかっていて、中に入れない状態であったが、鋸で切り外しながら進んでいった。いつもはチェーンソウで切るのだが、重くてエンジンの掛かりも悪いので2,300円の鋸を買った。すごく切れ味がよく、孟宗竹を切るのに30秒もかからなかった。
枯れ竹を集めて、火を焚いた。晴天が続いていたので、良く燃えた。両手の指で丸めきれないほど大きな竹は、時々、砲撃音みたいな音を辺りに放って、燃え盛った。
年末から野菜を売った小金が入り始め、チップ農法の結果待ち、普及活動、年金の会の活動、カラオケ会の発表会など今年はやることが多い。何をやってもうまくいかなかった人生に転機が訪れてくれれば良い。
昨日の2日は岡田君と出会い、そこの枯れ竹をまた燃やし、しゃべった。(正月くらい飲んでもいいやろう)と、酒好きの彼は昼間から酒を飲んでいた。彼は手伝ってくれた。枯れ竹を切って、焚火の中に投げ入れる速さは私よりはるかに速かった。10歳も若い。
焚火に向き合って腰を下ろし、話をした。
「ノーベル賞をもらった利根川進さんの、(精神と物質)を読んでいるけど、人間のDNA を全部解析するにはあと7000年もかかるらしいね?」
私は言った。
「俺たちが死ぬまでにもわからんのよね」
彼は答えた。
「そうだ。俺たちがこうして焚火を囲んでいる光景だって、DNAに録画されてるかもしれないよ」
私は言った。
今週の木曜日に、エホバの証人の布教者と話をした。彼はわたしに(聖書は実際に何を教えていますか?)という小冊子の中味を音読させ、ページの下に書いてある質問に従って尋ねた。
「宗教の教師たちがどんなことを唱えたので、多くの人たちは、神は冷たい方だと思うようになりましたか?」
「悲惨なことが起こると、それは神のご意志だ、(彼らが)言うからです」
わたしは自分の手に持っていた小冊子のページの中から答えた。
「そうです。よくおわかりになっていますね」
彼は満足気に応えた。
この講習は王国会館の集会においても同じ手法である。
日本共産党の支部会議、その学習会でも、綱領や中央委員会の報告内容を音読させ、質疑をする。わたしはそこに上意下達の構造を知り、奇妙さを感じる。この町のカラオケ会、障害者の会、年金の会などにも通っているから同じ構造を知った。本来であれば自分の日常生活への疑問や悩みなどが基本でそのことから出発すべきであるが、運営者はいつも御かみの意向を窺うような姿勢(上からの目線)である。
「神とは地上のエネルギーを総まとめにしたものではないでしょうか?エネルギー=質量×重力、ですよね?」
わたしは布教者に尋ねた。
「そうです。その方程式は知っています」
「地球上で一番重い物は何でしょうか?」
「・・・・」
彼は考えた。
「それは地球なのです。つまり地上で一番強いエネルギーは地球そのもの、つまり自然なのです。あなたたちは人は神の子だと言うけど、人は自然の子でもあるのです。自然も人もそのエネルギーつまり生命力をもらっている。それは守ってくれているとも言えるが、自然が人間の面倒をすべてみてくれるというのではない。人は塵から産まれたとエホバ神が言った。神は塵の一つ一つの面倒を見ているのではなく、全体を見ていて、様々な動植物を作って、生きよ、育っていけ、と言っているのではないですか?」
「おお、素晴らしい話です。ぜひ、入信して私たちの力になってください」
別れ際に彼は言い、彼の妻とともに私に(ありがとうございました)と言った。
女が好き、酒が好き、バクチが好き、な私が入信することも許されることもないであろうが、わたしにとって彼らとの対話は自分の考えを試せることもあって非常にワクワク感の出るものである。出会った布教者が理系に強い者であったこともわたしに知的な収穫を与えてくれている。
今年はチップ農法を知り、(年金の会)に入り、エホバの証人とも知り合い、親しい友達が出来て、良い年であった。来年はそれが実を結んでいくにちがいない。無農薬百パーセントの野菜を作り、いろんな会の仲間に売り、チップ農法を普及させていき、日本共産党の官僚主義やエホバの証人の教義に改革を与えるかもしれない。
今年もこのHPを読んでいただきありがとうございました。来年は読者とのやり取りが出来るように考えたいと思います。
わたしと同世代の人は連続射殺魔として彼の名前を憶えているであろう。四人もの警備員をピストルで撃ち殺し、逮捕され、死刑囚として刑務所で生きていたが、20十年前、死刑が執行されたのであった。今日がその日から二十年目であることから鎌田というルポライターが今日の朝刊に、「根は今も」という題で彼の事や今の時代を書いている。わたしは懐かしさと同時に自分の時代が終わったことを感じた。
永山さんは当時、青森から集団就職で上京し、底辺の労働をしていたが、19歳で無縁の人を殺した。事件は大きく報道されたが、彼は独房の中で多くの本を読み、貧乏が自分を殺人に走らせたと考え、評論(無知の涙)や小説(木橋)を書き、(木橋)は新日本文学賞をとった。わたしは大学卒業後、臨時工の仕事をしていて、東京・東中野にあった新日本文学学校に通っていて、(木橋)の合評会に出ていた。(殺人者が文学賞をもらう資格はない)と生徒からの意見があった。わたしがその作品を読んだ時、何と拙い文章であろうと反発を覚えていたが、読み進むうちに作者が独房の中で故郷を思い、母親と駅員の不倫の現場など思い出して描く熱意に心を打たれた。子供の描く絵と同じく、拙ければ拙いほど作品は生き、輝きを放っており、わたしは殺人者であるから書く資格はない、とは言い切れないと考えた。
彼が賃金奴隷であったのであれば、私は受験奴隷であった。どちらも青春を時代に売り渡し、幸せではなかった。ある時、私がビルの建設現場でコンクリート破片や木の屑を集める仕事をしていた時であった。仕事を終え、飯場で夕食を済ませて、ある部屋の前を通りかかって、驚いた。大広間に四十人近い子供がきちんと並んで寝ていたのであった。何事かわからず、関心も消えて通り過ぎたが後になってわかった。集団就職で上京し、建設現場で働いていた中卒者たちが早めに寝に就いていたのであった。遊び盛りの彼らが3K(きつい、汚い、危険)の仕事をしていたことに思いついて、わたしは胸を打たれていた。
永山則夫さんはその子供たちの中の一人であったのだ。(無知の涙)の中で、貧乏が自分を殺人に走らせた、と書いていたがわたしは理解出来ず、言い訳だと考えていたが(木橋)を読んでの感動は忘れられなかった。
ルポタイターの鎌田さんは大学卒業後、トヨタ自動車に季節工として入り、自動車組み立て労働をしながら、(自動車絶望工場)を書いた。わたしは日産自動車に季節工として入り、自動車組み立て労働をしながら世に出ない小説を書いていた。
昨日はSさんから電話が入り、13時にいつもの衣料品店の駐車場で待ち合わせ、車の中で論議をすることになった。論議、と言っても彼にとってはエホバの証人の布教活動なのであり、私にとっては、宗教及びエホバの証人の研究である。わたしは(人間や神の行うことは間違いが多く、AIが神になりますよ)と訴えるつもりであった。
Sさん夫婦は約束の時間に駐車場にやって来た。わたしは後部席に乗りこみ、Sさんと隣り合わせに座った。彼は聖書の内容の全体を知るためにはこの本が良いのです、と言って(聖書は実際に何を教えていますか)と言う本を私に開かせ、第一章から朗読することを求め、わたしは読んでいった。日曜礼拝と同じように、下段に質問と答えが用意されていて、答えは読んだ文章の中に書いてあるのだった。彼は質問し、わたしは答えたが、(神に関する真理とは何ですか)などの質問に対しても(求めつづけなさい。そうすれば与えられます)と言ったようなありきたりの答えしか書いていない。
わたしは言った。
「モルモン教は一夫多妻を行うが、あなたたちの宗派はそれを淫行と言って否定している。同じキリスト教で使っている聖書も同じなのに何故そんな食い違いが起きるのか?」
「モルモン教徒は聖書を読んでいないからですよ」
「物理化学の法則や方程式にはそんな間違いは絶対に起こらないから、わたしはそちらの方が真理だと思います」
私の言葉に彼らの反論はなかった。
「聖書に法則や方程式は無くても金言やしんごんじみたものがあればそれは真理でしょう」
私は言い、(求めつづけなさい。そうすれば与えられます)と言う言葉は(求めよさらば与えられん)と言う言葉で記憶していたことを思い出した。
電車の中でも、待合室でも歩きながらでもスマホを見ている者が多数を占めるようになっている。(金欠病で苦しんでいますがどうすれば良いでしょうか?)と打ち込めば、(働いてみますか?どんな仕事が希望ですか?)と返事が返り、仕事を探してくれるだろうし、(一人ぽっちで寂しい)と打ち込めば出会い系サイトを紹介してくれるであろう。
エホバの証人たちがいつも聖書を持ち歩き、不安や疑問があったら開いて相談や助けを求めるように今はスマホが聖書になってきている。
「やがて、AIが神にとって代わりますよ」
私が言うと、「AIもけっきょくは人の造ったものです」
Aさんは応えた。
「パソコンやスマホは正確に打ち込めばほとんど間違いなく答えてくれる。知性が純粋培養されたものですよ。だから人間を超えていきます」
わたしは言って、それが神になっていく、と信じた。
この言葉は三島由紀夫の小説(愛の渇き)に出てる言葉であるが、わたしは若い頃に読み、今でも心に強く残っている。
昨日、近所のA君宅を訪れた。彼はその前に私の家を訪れたが、わたしが不在だったので家に戻ったと言う。彼は週に一度はわたしを訪れて、愚痴をこぼす。この町の人間はすっかり表情を失ってる、若い頃はみんな元気があったのにとか、老いた母の足腰が立たなくなって心配だ、下の世話が大変だとか話し、私も身障会やカラオケ会、年金の会、パソコン教室に行った時の出来事を話す。二人とも孤独で、金がない、世の中を批判的に見ていることが共通している。
彼の貧しい家に上がると、コーヒーを入れ、石油ストーブで焼いた芋を出してくれた。母親は84歳で、奥の間に寝ていて、(お母さん!起きなさい!ご飯、食べてないやろがね)と彼は声をかけ、古いアルバムを開いてわたしに見せてくれた。モノクロ写真がほとんどであったが、酒屋をしていた母親の実家の叔父や叔母たちが純な笑顔でわたしを見返していた。わたしはその時代を知っていたので、彼の今の人は表情がない、という言葉に同感し、写真で以前の日本人を感じるたびに私は強く胸を突かれた。彼の父がカメラを持っていたせいであろう、彼の幼少時の写真はわたしのそれの十倍くらいはあった。
彼が毎週みたいに撮った母親の写真がアルバムに入っていて、わたしはその愛情の深さに驚いた。自分の恋人にでもそこまでする男は少ないであろうが、彼は女には関心がなく六十歳過ぎても独身である。母親が恋人以上の女なのであろう。
わたしは自分の母親が寝たきりになった時、別の家に住んでいたこともあって週に一度も訪れなかった。
母は孤独死してしまった。母はどこか遠ざけたい人であったが、死に目に会えなかったことが悔やまれた。
A君にとって母親が起き上がれないことがよほどショックだったのだろう、時々、涙ぐんだ。昔の家庭の出来事を話し、何度もに母に声をかけて起きるように呼び掛けた。
(中村さんが来とるんよ!あ母さんは中村さんのお母さんと町営の風呂によう行ったやない!)
彼は立ち上がり、母親のベットのそばに行った。
わたしもついて行った。
母親はベットの中にうつ伏せに寝ていて、起き上がろうとしていたが起き上がれないのであった。
わたしは白髪のない黒い後頭部を見た。
そこで軽いショックを受けたが理由はわからなかった。
一日たって、わかった。
私の母が孤独死し、医者が検死をしてる時、わたしは母のベットに行った。体が五倍くらいに膨れ上がり、顔も別人に見えた。わたしは立ちすくんだまま、後頭部の髪の生え際のうねりを見て、母であることを確認したのであった。
その生え際がA君の母親のそれと重なってよみがえったのだ。
愛さえなければ苦しまずにすむが、愛があれば苦しみも減るのである。
A君の母親のことが心配になり、(俺に出来る事があったらしてあげる)と言うと、彼は私の手を握って、また涙ぐんだ。彼の身内も死に絶え、遠方に散っていて、頼る者がいないのである。趣味も山歩きと酒を飲むことくらいしかない。
母親の事より、A君の取り乱した精神状態が心配なのである。
家に入れて、一緒にご飯を食べたりしゃべったりすることになるだろうが・・。
昨日、エホバの証人の信者からケイタイに電話がかかり、会って話をした。夫婦連れであった。わたしにとっては自分の考えを試せる機会であり、面白かった。わたしは逆に布教する側でもあった。
彼は創世記から、禁断の木の実、バビロンの捕囚、ノアの洪水、バベルの塔、と聖書を開いて、話してくれた。わたしは聖書は文学として面白く読んでいますと言い、寓話や比喩が文学的だと付け加えた。まさにその通りであった。神が作家であり、キリストは神の子と言われるように神の分身・主人公なのである。このように捉えるとよくわかる。
神が天と地を作り、あらゆる生命を作られた、と彼は言うので、(そんなに力があるのであれば宗教戦争やイスラム教徒のテロなどなぜ防がないのか?)と問うと、彼らは沈黙した。
(あなたたちの信者は何人いますか?)と問うと、世界的に相当な数がいる、と答えるので、(物理化学の法則は地球始まって以来、全人類、あらゆる場所で通用する。それには到底かなわないですよ)と言うと、(その法則は聖書にも書いてある)(それは言語で書いてるので不確かな部分があるが数式はあらゆる国に通用するのです)と反論した。
二時間ほど議論が続き、妻の方はわたしの回りくどい話に少し、苛立ったようであったが、夫は冷静で、重力やエネルギーの法則なども知っていた。
(あなたたちはキリスト教の側から説明し、わたしは物理化学の方から説明するけど、真理を追及すると言う点では一致している)
と言うと互いに納得した。
一週間ほど前のニュースを思い出していた。(量子コンピューターが出来ました。これまでは1と0
の組み合わせの記号だったけど、は1でもあり、0でもあるという考えに基づいています)という内容だった。これはまさに(シュレディンガーの猫)の論理である。毒ガス装置のある箱に入っている猫は(生きてもいるし、死んでもいる)のである。
どの世界も二項対立で成り立っている。
(あなたたちは邪教とかサタンとか言うけど、それは神が必要としているのですよ)
(・・・・・・・・・・・・・・)
(神の正しさを証明するためには対立物を持ち出すしかない。アメリカがイラン・イラク、北朝鮮などの敵国を絶えず必要としているように)
私は言い、彼らは黙っていた。
別れ際に夫の方が、(今度は権威について話します)というので、了解した。
エホバの証人は布教のために、いろんな家庭を夫婦や子供連れで訪ね歩いている。庭の花々に眼を向けながら、(この世は天国)だと訴えんばかりに満面に笑顔をうかべている。彼らを知ってる者達にはすぐにわかる。
わたしはその笑顔を羨ましく思いながらも、入信することはないと信じている。年収の一割が寄付金として必要だと言われ、それは(満面の笑顔)からみれば決して高いものではないと考えるが、入信すればわたしは(わたし)を捨てなければならない。若い頃、いろんな希望を抱いていたが何一つ達成出来ず、単に生きることしか出来なかった人生であった。が、入信すれば戒律としてとがめられるものが多くなり、わたしは無頼漢に近い男でこれまで放縦な自由を満喫してきた。常識外れの考え方をし、酒色にふけり、煙草を吸い、怠惰や反抗にふけり、時には喧嘩をし、万引きもした。
小説を書くことで自己を可能な限り、見詰め、探求した。なぜ、あなたは(自分)にそんなにこだわるのか?と問われたこともあったが、もっとも身近な自己を探求することは死ぬまで飽きることのない楽しみでもある。
信仰とは自己放棄である。そうでなければイエスや仏を信じることは出来ない。エホバの証人のパンフレットに書いてあるように、夫婦は尊敬し合い、両親を尊び、淫行をしてはいけないし、盗みや人殺しもいけないのである。
四日ほど前の毎日新聞に(共依存の倫理)というタイトルが書評欄に掲載されていて、現代人は(他者の問題にばかり注目する、自己を喪失した病人)と書いてあった。テレビのニュース・ショーやスマホ、噂話、他人の行動の監視に自分自身を奪われている現代人は多い。自分から逃避し、それらに一日を奪われている人は自分と向き合うことが辛いからである。それは過労死に至るまで働くことも(ワークホーリックー自己喪失)ではなかったのではなかろうか?
神権や王権の抑圧体制からのがれるために人権思想が産まれ、民主主義に進み、信教、思想、言論の自由が認められ、個人主義の生活に至った。自己放棄とはその流れに逆行することであるが、個人主義が進み過ぎて、自己の人生に悩んでいる人が多い。家出人が届け出があるだけで八万人と言われている。届け出がない人を含めればその二倍は存在しているであろう。
自己を捨て、神が絶えず自分に付き添っているという宗教があり、それに入る人が多いということは納得できる。絶えず神が自分のそばにいてくれて導いてくれる、これは家出人や自殺願望の人たちにとってはまさに、(救いの神)であろう。
エホバの証人は布教のために、いろんな家庭を夫婦や子供連れで訪ね歩いている。庭の花々に眼を向けながら、(この世は天国)だと訴えんばかりに満面に笑顔をうかべている。彼らを知ってる者達にはすぐにわかる。
わたしはその笑顔を羨ましく思いながらも、入信することはないと信じている。年収の一割が寄付金として必要だと言われ、それは満面の笑顔からみれば決して高いものではないと考えるが、入信すればわたしは(わたし)を捨てなければならないことを知っているからである。いろんな希望を抱いていたが何一つ達成は出来ず、生きることしか出来なかった人生であった。が、入信していれば戒律としてとがめられていた自由をわたしは満喫したのだ。常識外れの考え方をし、酒色にふけり、煙草を吸い、怠惰や反抗にふけり、時には喧嘩をし、万引きをした。
小説を書くことで自己を可能な限り、見詰め、探求した。なぜ、あなたは(自分)にそんなにこだわるのか?と問われたこともあったが、もっともも身近な自己を探求することは死ぬまで飽きることのない楽しみでもある。
信仰とは自己放棄であるし、そうでなければイエスや仏を信じることは出来ない。
四日ほど前の毎日新聞に(共依存の倫理)というタイトルが書評欄に掲載されていて、(他者の問題にばかり注目する、自己を喪失した病人)と書いてあった。テレビのニュース・ショーやスマホ、噂話他人の行動への監視に自分自身を
四日後、エホバの証人は訪ねて来た。今度は美人の女を連れではなく、夫婦であった。彼の車の中で神について話した。彼は自衛隊で働いていたが、人を殺してはいけない、と言う神の教えに従って、38歳で退職した。外国では徴兵制があって、軍隊に入ることになっているが、信者の場合はどうするのか?と尋ねると、アメリカの場合は兵役の代わりにボランティア活動をして免れ、韓国では刑に服すると言い、実行しているという。
昨日、エホバの証人の王国会館で集会があるから、来ませんか?という電話があり、彼の車で行った。百人ほどが会館に集まり、話を聞き、賛美歌を歌い、神に対する好意的な意見を席からマイクで話した。私も歌い、話を聞いた。老若男女が幸福に満ちた顔で椅子に座り、聖書を手にし、一つの神で結ばれていた。二時間ほどで終わると、勧誘者はわたしを周りの信者たちに紹介した。ある老女は衣料品店の裏にある大きなお家ですね?と言って私の家を知ってた。わたしの近所の人の従弟がいて、彼はきちんとした身なりで神について冷静で安らかな表情で講演をした若者であった。初めて私の家を訪れた美女が私に笑いかけ、これは弟です、と言って隣の男性を紹介し、彼は内面から滲む笑いをわたしに向けて、よろしくお願いします、と言った。
若い頃、(統一教会)に誘われて行ったことがあったが、70歳の今とは感じ方が異なっていた。こんな雰囲気の世界に入りたい気分であったが、わたしが観察者の姿勢は崩すことはないであろう。
神は一つであるがそれに帰依する人間がちがうので色んな宗派、宗教が出来ると勧誘者は言った。異教徒たちを悪魔・サタンとみなして自分の宗派に入れようとしたり、悲惨な宗教裁判、宗教戦争を起こしたりした歴史、また、テロなどの現実世界は信者達あの満ち足りた笑顔の裏に必然的(二項対立)
出るものであると考えた。
帰宅後、いつもの山道を幸福な気分で歩いた。急な坂道や石ころだらけの悪路で、体がふらつきそうになることがある。これは単に歩いているのではなく、歩くことで(祈っている)のではないか?と考えた。