ブログ - 日記カテゴリのエントリ
昨日は、四十度近い気温の中、山歩きをした。全身汗まみれで、脚も疲れているのに、一時間半の歩きである。石ころだらけの道に足をとられながら、まさに修行であるが、それをしないと体が落ち着かない。
折り返し場所に、清流が木漏れ日を陽をあびて流れている。見とれていると、肩に何かがとまった。手で触れると、玉虫であった。七色の縦じま模様が美しい。すっかり姿を消された虫が生きていた。帰宅して、虫ピンでとめて標本にしてやろうか?と考えたが、玉虫は手の中で仰向けに寝たまま、手足を閉じ、動こうとしない。擬死、死んだふりをしていたのである。どうしようかと迷ったが、逃がしてやることにした。放り投げてやった。飛ぶかと思ったがそのまま、草の中に落ちた。
山歩きにもどり、玉虫のことを考えた。敵が去ったことを知り、草むらの中で動き始め、飛ぼうとするにちがいなかった。玉虫に声をかけてやった。(今度はまちがって人の体にとまったりしちゃだめだぞ。標本にされるからな)
話しは変わるが、今朝、スーパーの産直売り場に行って、トマトを五パック、青じそ四パック、赤しそ二パックを置いて来た。他の出荷者の売れ具合を見るために、値札の日付を点検していたが、今日が何日かが、わからなくなった。十八日だとわかった。
帰宅してカレンダーをみると、今日の日付に赤印がしてあって、スーパーのアルバイトに行く日であることに思いついた。明日だと、すっかりカン違いをしていたのである。近頃は、曜日や日にちが混乱しているのである。認知症になっていきそうな気がする。認知症がひどくなれば、自分が生きてるのか死んでるのかもわからなくであろう。
あの玉虫は死んだふりをして生きていたのである。人間にそんな生き方ができれば、幸福ではないか?と考えた。バカのふりをして生き、バカになって死んでしまう、それも良いではないか?虫たちの生き方に学ぶことは人間社会以上に多い。
昨日、栗の木の下草を刈って、七百坪の敷地の草刈りが終わった。自分が何歳になるまでこれが出来るのか?と考えながら、空を見上げると、となりの田んぼにはみだしたモチノキの枝が見えた。涼しくなればあれも切らねばならない。枝を切り落とすだけでも大変な仕事だから、幹を切るなんて恐ろしいことに思える。
栗の実を十個ほど、拾った。三分の一は虫食いだった。産直店で昨年、苦情を言われたことを思い出した。虫は花が咲く時から中に入っていて、実を食べながら成長していく。いろんな命は知恵を絞りながら、生きている。コロナだって、そう考えれば生きるために人の細胞に食らいついている。
夕陽に目を向けると、トンボのアキアカネが草にとまっていた。夕陽の明かりに茜色を漉されながら、頭を掻いて、首をきょとんと元に戻した。何とも言えない仕草であった。これが命だと思った。
アキアカネ頭を掻いて夕陽見る
そんな句が浮かんだ。とんぼは時々、頭を掻くようなことをする。なぜかわからないが、可愛いものだ。あんな気持ちでいたいと思う。
今月の半ばにお墓の掃除をし、お参りもした。次は、畑が待っていた。激しい暑さの中で草刈り、草むしり、野菜の出荷もした。カナカナゼミが鳴いて、夏は終わりを迎えようとしている。
だが、何かがおかしい、何かが消えている?そうだ、盆踊りの唄が一度も空に響かなかった。こんなことは、戦後には一度もなかったのではないか?ここでコロナの事態がいかに異常であったか読み取れ、淋しくなる。
自分はあいかわらずの貧乏暮らしであるが、スイカが一つの茎に十個も出来、一昨日は一個が千円で売れた。ミニトマトのアイコちゃんも顔を真っ赤にして、がんばっているし、シソやニラなども売れ行きが良い。自然はまだ生きており、野菜家族は健在である。チップ農法には失敗し、落胆していたが、今後は通常農法とうまく組み合わせてやっていくしかない。
そして、庭の、栗の実が成熟して落ちはじめた。昨日は四本のクリの木の下の草を、刈った。汗まみれになり、何度も休んだ。終わると、栗を焼いて、食べ、酒を飲んだ。食い物に関してはぜいたくな暮らしである。それに、イチョウの木がギンナンを落としはじめた。食べてみると、なんとも香ばしい味がする。酒のつまみとしても最高である。
アルバイトが見つかった。スーパーで、週に二日、買い物かごの整理をすることになった。考えなおしてみると、健康で、体が動くこと、そして、美味しい食べ物、それだけで最高に幸福なのである。
近頃の新聞・テレビは、コロナの感染者数の増加、お盆休みの様子、中国の香港への露骨な支配などでお茶を濁してるように思える。物書きである記者の真剣な姿が見えてこないし、見せようとはしない。舞台の袖口に立って役者を傍観しているだけで、自分達のこととして真剣にとらえてるようにみえない。
香港の人権活動家たちの闘いなど書くことはそれはそれで意義にあることではあるが、日本には表現・言論の自由があって幸福ですね、と裏でこっそりささやいている魂胆がみえる。それで読者に満足・自慰をさせていることに気づかないのであろうか?
自称・小説家として書いているわたしからみれば、そんな茶番劇が透けてみえてくるのである。小説の文章を書くだけでかなり苦痛であるのに、そこでセクハラ、差別、人権などのタブーが絡んでくると筆が止まってしまうことがある。(美由は女だてらに薄笑いを浮かべた)と書こうとして、筆が止まる。(女だてら、とはなんですか?女だったら薄笑いを浮かべてはいけないんですか!差別ですよ!セクハラですよ!)という口火からSNSやファイスブックなどに飛び火して騒がれることは目に見えている。
コロナ騒ぎからますます縮み志向がひどくなり、物事の真相は遠ざかっていくのである。
それに身体障がい者の動きなども書きにくくなっている。(彼は大きく前につんのめるような動きから、後ろに大きく仰け反り、それを反復動作させ、まるでアニメーション・ダンスのをするように歩いた)と書けば大変な非難になるし、一流作家は書けないことである。これでますjます表現が狭められ、真相を縮小させてしまうことになる。
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小説(磁場)を書いていて、これまで謎がとけなかった状況が見えてくるようになった。人生では、魔の瞬間、と言われる事態がある。このままでは同じ失敗になり、困った状況になるとわかりながら、はまってしまうのである。女との出会いにおいて、こちらから誘ったわけではなく、相手から転がり込んで来て、体の関係が出来ると、なんであの時、私を抱いたのよ?とか、もう一人の女の男からは、俺の女に手を出しやがって!と怨まれたことがあった。こちらは家出をして行く場のない女を慰め、救ってやった(一人の女は自殺をしにやってきたのであるが)のに逆恨みをされるのである。
思い返してみると、不思議なことに二人とも家出をしてきた女であった。
そんな時、やばい!と思いながら、転がり込んできた女を追い出すわけにはいかず、なんで家に入れてるんだ?追い出せ!と男から怒鳴られ、女は追い出されたら自殺します!と叫んだのであった。四十年前のことであるが、殺人事件にも至らなかったことが不思議である。自分には落ち度はない、と考えながら、女が家出する前から相談にのったりしてちょっかいを出してたとも言われた。
自分の意志とは無関係に手が伸びてしまった、というしかない。言葉で説明できるものではないし、それをすれば言い訳になってしまう。磁場、なのである。磁力に曳きつけられた鉄粉みたいな頼りない自己に縮小されてしまう。だが、年をとると、磁力も弱まり、曳きつけられることも曳きつけることもなくなった。
小説の中で、なぜ、その時、おまえは俺の前にいたのか?と女に言い返してやった。
小説(場)は(磁場)に変えて、書いている。半ばまで進んだが、理論武装の男を登場させ、ラストに持って行こうとして筆が止まった。ツマと非接触システムの生活の中で、家庭内離婚を続けていた老男が家出をし、シングルマザーの女の隣部屋に住み始めるが、元の非接触システムの中に戻る、という流れである。作品は、理論武装の男にそのテーマを説明させるやり方で書いて、納得できなかった。読者がいれば不満であろう。筆が止まってる間、ある老男のことが思い出され、かれを登場させ、日常的な心理をからめて、磁場が物理的に元に戻る、ということで決定した。
その老男は女に狂って借金を繰り返し、自己破産をし、主人公が棲み始めたアパートの住人であった。作品の主人公と親しくなり、非接触システムの生活をきいて、心を打たれ、女の扱い方を教えてやることになる。よりを戻すように働きかける。
磁力に関する本を読んだ。その中で、古代ギリシャの哲学者・ターレスが、磁石には霊魂がある、と話していたことがかいてあり、やったあ!と思った。自分の夢は古代のように、哲学と科学が一つであった世界を書くことであったので、磁場というタイトルとテーマがうまくはまったと考えたのである。
今、世間は右を向いても左を見ても、コロナにうちひしがれた者ばかりである。自分の生活はどうなるのか?夫婦関係がおかしくなった、という愚痴ばかりで、すっかり元気を失ってしまった。そこで、こんな小説を書いている老男がいる。
不幸が強ければ強いほど、素晴らしい作品になることがある。
そうなれば、コロナも歓迎である。
今回のコロナ禍は、感染者数が世界で一千万人になったとか、何十万人が死んだとか、それはそれで大変な事態であるが、わたしは、これは何千年に一度の地殻変動、時代の揺れ戻し、ではないか?と考え、自分が恐るべき位置に立っている?と思いついた。日本の歴史をひもとけば、卑弥呼の時代から国が出来、奈良、平安、鎌倉、安土桃山、江戸と一千年ちかい時代がゆったり流れたが、明治維新になってからおよそ百年までの流れは急激すぎて、おまけに人間生活がAIに変わるという信じられない変化を起こしてしまったのである。
岩石が大きく揺れ、そして、揺れの戻しが来た。コロナというウイルスの作用で大量生産、大量消費、多数決主義、などという多数派の時代が、三密、非接触、少数という考えに逆転し、揺れ戻しを起こし始めたのである。時代が逆行することはあり得ないと信じられていた概念がコロナによってあっという間に揺れ戻されようとしているのである。それはもう物理学的変化と言うしかない。
この流れはもう止まりはしないし、コロナが起こる前の状態に復興しようなどと言う考えは甘い。スロウなブギにしてくれ、という音楽が流行り、その言葉が時代の心を現した時期もあったように時代の精神もそんな変わり方をするに違いない。
少数派、レアの時代、の到来である。
わたしは口唇ヘルペスを持っている。冬の寒い時、辛い物を食べた時、大食をした時などの唇のまわりがただれ、皮膚が破れて、痛む。この病気を持っている人は多いが、ヘルペスのウイルスは体の奥深くに住み込んでいて、退治することは出来ない。感染者は一生、いっしょに生きていくしかないのであるが、それ以上の悪さはしないので生きる上において、問題にはならない。賢い生き方である。コロナは被害が大きくて、死を招くので人間の敵として殺される運命にある。
だがコロナは、陰性だったのが陽性であったとか、陽性であったのが陰性であったなど不可解な部分が多く、謎に満ちている。そこが、口唇ヘルペスの謎にも似ている。陽性でもあり陰性でもある、というのは人体の免疫力が強い時には陰性になり、弱いときには陽性になるなるのではないか?とかってに推測してしまう。自在に変幻するということであるが、人間の常識や医学では太刀打ちできず、どこか異次元世界の考え方に学ばないと解決できないのではないか?と思う。
異次元世界は量子力学の関係する分野であるので、量子力学の発展と共に解明させられ、同時に、そこでコロナの正体がはっきりするのではないか?もしかすると、コロナは異次元世界からの使者ではないか?人間世界の悪行を懲らしめるための・・。
作品は半ばごろまで書き上げて、止まっていたが、キーボードはまた、元気よく打たれ始めた。主人公のオトコは二十年間もオンナ(妻)と口も利かず顔も見ずに同居していたが、若い女と知り合い、家出をし、彼女の隣の部屋に住み始める。その隣部屋の老男とも親しくなり、女を紹介すると言われ、関心を持つ。非接触システムから接触システムへ、場が変わったのである。
この作品は十年前にも取り組んで中断したのであったが、ここで閃いたのであった。つまり自分が書きたかったのは男女の情念や心の移ろいではなく、それらをとりもっていたのは実は、(場)であったということである。
ウイキペディアで調べると、場、とは、(物理量を持つものの存在がその近傍や周囲に連続的に影響をあたえること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと)と載っている。そして、(反対の電荷を持ち引き付け合う二つの粒子)、とのっている。(反対の電荷)とはオトコとオンナがそれぞれ繊細さと荒々しさという対立する性格を現していて、この二つが部屋は別々でも同じ屋根の下で別れもせずに、同居しつづけていた。小説の中では、それから、オンナは引っ越した男の部屋の前で無言で立ち続け、オトコは家の畑のキュウリが実をのばし始めたことを思い出して、家に戻る、というラストが出来上がったのである。
そして、(非接触システム)での生活を始める。
こんな話がある。山奥の道で、カエルがじっとしていた。おかしいな?と思って、その先を見ると、マムシが鎌首を持ち上げて、飛びかかろうとしていた。食われる、食う、という真逆のベクトルが場を持ち、引き付け合っていたのである。その瞬間、カエルは呑み込まれてしまったのである。人間同士の暴力の場合でも被害者は加害者の攻撃エネルギーに呑み込まれてしまう場合がある。
今回のコロナ禍でも、こんなことを考える。接触システムの場が非接触のそれに物理的に変わった、のではないか?と。
カエルはそこで逃げ切ったとしても、またマムシに出会って、睨まれる、とじっとしてしまうのではないか?
昨夜は午後八時ころ、酎ハイ、ウイスキーを飲みながら、夕食を一人で食べ、風呂に入って、寝てしまった。午前一時に目が覚め、四時まで眠れない。布団の中で、ラジオ・深夜便を聞きながら、うとうとする。エンニオ・モリコーネの(荒野の用心棒)の音楽など聴きながら、馬に乗っている心境が巧みに表現されていると感心した。
ラジオの声に混じって、どこかソワソワする鳴き音が聞こえてきた。そばの田んぼのカエルたちであった。一晩中、セックスの相手を求めて、頑張ったのだろうが、夜明けになって疲れが見えたようである。
でも、君たちは、いつ眠るの?もうすぐ、夜明けが来るよ。