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愛と性の問題はすごく難しい。女性経験を十分にしてきた今でさえ、わからないことが多い。少しわかったことは自分が世間の概念に惑わされ、愛があって性があると勘違いしていたことである。愛があって性に至ることがほとんどであろうが、関係ない場合がある。女を見ていて性欲をおぼえればそれは愛だと判断してしまう場合があるが愛があっても性欲を感じない場合もある。これは私の場合だけでなく女の場合もそうであろう。
そんなふうにして男と女は勘違いし、結婚に失敗したと考える場合が多いのである。相思相愛、なれ合いで結婚する場合もあるであろうが、ともかくよく考えてから結婚しないと、一生の不幸を招いてしまうのである。
札幌の首切り事件はなんとも難しい事件である。そのケースの場合は愛とか性とかの言葉を持ち出せばますますわからなくなってしまう。女が男とホテルに入ったのは単なる性衝動でしかなく、愛なんて全くなかったのか?そうでなければ首を切り落とすなんてできなかったはずであり、持ち帰って目玉を瓶の中に眺めていたのは親しみがあったからだろうか?女の自白は記事になっていないからすべて想像するしかないのである。
プーチンもゼレンスキーもクリスチャンでありながら、戦争をし、殺し合いをしている。この現実にわたしだけでなく首をかしげるものが多い。ローマ法王もどちらかに加担していて、お互いに戦争をやめろ!とは言わないのである。これが愛を唱える宗教なのか?と疑問を抱くがこの流れは紀元前から続き、変わらない。だが、聖書を読み進めるうちにわかってきた。一神教のせいにすれば話は簡単であるが、そうでもなく、愛、という次元は憎悪も隠れていて、愛憎という言葉で表されるのである。昔から言われてきたが、表裏一体なのである。
統治者は常に相手が侵略してきた、国民を守るから戦い、戦うべきだという。聖書でも福音を伝えるために戦うというニュアンスがあり、汝の敵を愛せよ、とも言っていて、愛という次元に惑わされている。
話は飛ぶが札幌首切り事件の場合はもっと戦慄的である。避妊具をつけずに性交したから男の首を切り落とし、目玉をくりぬいて、瓶に入れて眺めていたのである。これは男と一緒にいたかったからであろうか?憎しみであろうか?想像で言いない世界であるが、もっと考えを深めれば見えてくるようである。
この十日間ほどインフルエンザにかかり、苦しんだ。昨日はカラオケ会であったが、マイクを握ってる最中に咳の発作が出て、外で休んだ。発作が出はじめたら止まらなくなり、喘息の持病がからんで死ぬのではないか?と不安になってしまう。風邪が流行っていてカラオケ会でも全員がマスクをかぶっていた。
咳が出るのは汚れた痰を体外に出そうとするからである。痰は黴菌と白血球が闘った後であり、体外に出そうとするのは当然のことであるが、その仕組みを作り、指示をする者は誰か?となると、体の生命力なのである。命を繫栄させ守る者は神である、と聖書の創世記にも書いてある。ある女信者に、死ぬのが怖くて自殺した男のことを話すと、私の体は神のものだからそんな粗末なことはできません、と言ったと前の日記に書いたがその言葉が思い出される。彼女は四六時中、いや、いつも神と一緒に生きているのであろうが、うらやましくもある。そこまで信仰できれば良いな!とも思うがこんな根性の曲がった男には無理ではないか?と思う。
ふんころがしと言う虫にとっては糞は貴重な食糧であり、なくなれば飢え死にしてしまう。今の人間にとって便は汚いものであるが、つい最近までは畑の貴重な肥料であったのだ。
視点が変わることで価値はどのようにでも変わるのであるから、神だって安泰にはしておられない。
一か月ほど前のことであるが、その日は日曜日で、教会に行って礼拝に参加するつもりだった。裏の門扉を出て歩き始めたが、花を持って来ることを忘れていることに気づいた。門扉に戻って中に入ると、いつものように軽のワゴン車がそこに停まっていた。いつものことであった。だが、驚いてしまった!車の運転席に見知らぬ若い女が座って、自分を見ていた。自分以外に車に乗る者はいないのであるがまた幻覚を見てしまった・・、と考え、素知らぬ顔で黄色い曼殊沙華の花を庭から切って持って来た。予想していたように女は消えていた。女の像は張り付けられたポスターのように立体感はないが鮮明であった。一週間前、その日は午後七時ころ、布団に入って寝てしまった。目覚めて起き上がると、庭に面したガラス戸が室内の灯かりに暗くなって鏡になっていた。そこに少女のような若い女が立って無表情に自分を見ていた・・・。また、幻覚か?と往なしてしまった。若い頃から、夢うつつの時に、棚の人形が踊っているのを見たりしたことがあったが、覚醒時に現れるようになったのは最近である。人は死期がせまると幻覚を見ると、聞いたことがあったがそれが本当になってきた。
若い女が迎えに来てくれるなんて、嬉しいことである。昨日は顔見知りのキリスト教の布教女とスーパーの仕事中に出会い、ロビーで三十分間も神について話を交えたが、彼女は幻覚ではなく現実の女であった。美人であった。
スーパーでカート整理の仕事をしていたら、主婦の話し声が聞こえた。ほうれん草の種をまいたが芽が出ない、言っていた。うちも芽が出ないんですよ、と話の中に入ってみると、大根も播いたけど、小さいうちから虫に食われ、すっかり消えてしまった、と言う。カボス、柿、はっさくも実が出ない、というと同じことを言い返してきた、うちはほうれん草を三度、まいたが、五粒しか芽が出ていない。いつもはまいた量の五十分の一ほどは出ていたのである。虫たちは食べるものが減っていってこれまで食べなかったものまで食べるようになっている。食料は人間との奪い合いでますます少なくなっている。来年も猛暑であろう。食料は農薬と猛暑がからんで食べつくされるであろう。そして、生物の絶滅である。
わたしが政治家であれば、除草剤使用を許可制にすることから始めるが、化学メーカー、農家の大反対を受けるであろう。立候補した時点で落選の運命を与えられるのである。
電気炊飯器が壊れ、買い替える金がないので、お好み焼きをつくった。小麦粉、山芋、鳥皮、ピーマン、卵を混ぜてフライパンで炒めると美味しいのが出来た。出汁はインスタントラーメンのそれを入れた。焼き上がってひっくり返すのがむずかしいが、なんとか返した。ロックのウイスキーを飲んだ、あまりのおいしさに手を合わせた。
あさっての日曜日が投票日であるが、入れたい政党がない。どれもこれも利益供与で票をとることが見え見えである。教育無償化、それはいいことであるが、それで財源をとれば他には行けなくなっていしまう。その事を考えないであろうか?みんなに対して良いことありますよ!などと旧態毅然たるやり方が見え見である。左翼もそうである。
利益供与は薄く広くやるのか、特定の団体にやるのかの違いだけである。それぞれの政党は団体と特別なつながりを持ち、ギヴアンドテイクに関係である。
票をとるのが目的ではありません。私の党の主義主張を聴き入れてくれる方にお願いします!
と訴える党があれば入れるが見当たらない。しょせん民主主義とはごきげん取りの政治でしかないが、中国やロシア、北朝鮮のような独裁国家よりはましであろう。
四日前から、このホーページ(レア仲間に異変が起こった。いつもはクリック数が一日に200ほどであるが、いきなり二万になり、閲覧者数も100くらいなのに、600になったのである。時々、閲覧者数が増大することがあったがそれはどちらの数も十倍ほどでしかなかったのにその増大振りは百倍であり異常である。内容を調べてみるとどうやらホームページの日記の部分であるようだ。数値が増えるのはすごくうれしいがななにか魂胆があるのか?と疑ってしまう。ホームパージの出版権を買いたいとか買収したいということであれば歓迎である。
欲情は女を美しく輝かせ、男をも美しくする、美の根源である。だが、近頃はセクハラなどと蔑視され、舞台の隅に追いやられ、少子化をうみ、時代は活力を失い、そのことを声高に言う識者もいないし、もし声高に言えば魔女狩りにあって、社会地位を奪わされるかもしれないのである。
だが、よく考えてみれば欲情こそ、生と性の根源、生きる力ではないか?決して蔑視されるべきものではないし、聖書でも神が産めよ、増えよと言っている以上、蔑視することはできないはずである。年老いて、欲情がどこかに消えそうになってはじめて、その価値が見えてきた。
たまに欲情が顔を出しかけたりすると、どんな女でもきれいになり、腰の動きが魅力をたたえてくる。遠出を失いかけた自分でさえ、外に出かけてカラオケやアルバイトをするのが楽しくなる。大きな声では言えないが、教会に行くのも楽しくなるのである。
女だって、と書けばセクハラだと非難されるかもしれないが、欲情に生きているのである。そのことはいつの時代、どんな社会でも否定することはできない。
否定することなく、男と女の個性を見極め、互いに尊重しあわねばならないし、学校でも男女学という分野を設けて、理解しあわねばならない。これがレアの考えである。この前、同年齢の男と久しぶりに出会って話をすると面白いことを言っていた。認知症になり始めたので、社会福祉協議会の教室に通って小学生の勉強をし、足し算掛け算の問題を解いていると言う。自分も通ってみようと考えた。老人が小学生と一緒になって勉強するのは楽しいし、社会の活性化にもなる。
落花生は地面の中に実を付ける、と言う話を聞いて、不思議に思い、半年前に種を植えてみた。初めてのことであったが、丸いクローバのような葉ができて、これが落花生だと思い、そのままにしていると成長し、そろそろ実をつけたかな?と思って、掘ってみた。
すると皮を付けた実が、ぞろぞろ出てきて、誰かが言っていたようにジャガイモを収穫するみたいであった。調理の仕方をネットで調べて、塩ゆでにしてみた。二十分ほど煮て、冷まして食べ、酎ハイを飲みながら食べ美味しかった。
教会に半分を持って行って、残りはまた塩ゆでにしてみたが、美味しくなかった。フライパンで炒めた方がおいしいみたいと、牧師にメールしたのであった。
だが、落花生とは不思議な植物ではないか?と考え直した。たぶん、実が食われることを防ぐために、花が地面にもぐって、大きくなるのであろうが、その知恵は誰が授けたのか?と考えると、やはり、神としか考えられない、収穫されずにこぼれ落ちた種は地面の中で翌年に、芽を出すのである。
よく考えてる!賢いな!と思った。人間並みの賢さではないか!
色んな木の実や野菜の実があるが、そんな考え方や生き方をするのは落花生だけではないだろうか?
落花生は大地を母として、成長し生きているのである。
日本は世界一の自殺国である。若者や児童に自殺が多く、際立っている。それでいて、観光立国になり、外人にとって世界一訪れたい国なのである。これはデータ上の話だと理解する者は少ない。
道を歩いていても野良犬を見かけることはまったくない。かれらは保健所に捕獲されて里親に引き取られるかトサツされるだけである。野良犬としては生きていけないのである。猫も同じで里親に引き取られても去勢・避妊され、子供を残すことはまれにしかできない。そして、彼らの権利が奪われていると主張する者もいない。
外人の観光客がテレビに出るが、かれらは美味しそうに寿司や焼き肉を食べて、大喜びである。その有様を見て、わたしたちも楽しくなる。街並みもトイレも綺麗、電車も時間通りに来るとかれらはほめあげるが、ベンチに寝ころんだり、路上で歌を歌い、ギターを弾いたりすることができないことには気づかないのである。もちろん、この国の自殺率のことなど持ち出す外人はいないし、その部分はカットされている。
こうしてデータによって本当の姿は隠されてしまうのである。そしてある時、信じられないような事件がおこって、あんなおとなしい人がなぜあんなひどいことをしたのか?とメディアの好材料になる。
いろんな種類の物差しを使って記録を公表し、人々はそれを信じ込まされているだけなのである。一つの物差しがないので、どんな姿でも自由に変えることができ、とんでもない時代がやってくる。怖いことである。