ブログ - 日記カテゴリのエントリ
もとより私は物欲の強い、灰汁の強い男なのですが何年か前から(喜捨)という言葉に魅力を覚えるようになりました。そんな自分が改心をしたとか立派とかいうのではなく自然にそうなったのです。仏教用語であることくらいはわかりますし、それは仏に喜捨することから発生した言葉でしょうが、わたしの捉え方は自然界や社会に喜んで自己を捨てる、ということなのです。
資本主義は欲望を根源にしていて上記の考えとは正反対ですし、喜捨の精神がまかりとおれば資本主義は成立しないわけです。しかし、もし若い頃から自分が喜捨と言う言葉に関心を持ち、生き方もそれにそっていればもう少しは楽な生き方になったのではと後悔するのです。
(馬車馬のように働いて得たものは破壊された自然と空虚な心)
このキャッチ・コピーは40年前に耳にしたものですが、3・11震災以降つよくよみがえる観がします。強く生きながら、他方では(喜捨)の心を持つ、一見矛盾しますが強い者は喜捨の余裕があるのだと考えます。
(損して得とる)という言葉もあります。
新聞やテレビは大学卒、高校卒の就職率を数値化して公表する。それ以外の観点はないのか?と、わたしはいつも首をかしげる。
わたしは自分が入った大学を卒業してるのかしてないのかわからないのです。大卒でなければ勤まらない職についたことはないし、もともと正社員として入社したことは一回しかなかった。卒業して臨時雇いの仕事をしながら、大学にかってにもどって講義を聴いていたこともあった。つまり、就職することよりも自分の生き方、社会、世界、人間、自分自身への好奇心と興味があり、研究の対象であったから、どんな仕事でも生き方でも良かったのです。
このことを知人に話すと、(やはり、レアですね)と言って笑い、わたしも満足した。就職出来ない人やヒキコモリ、ニートの先端をわたしは行っていたのでしょうが後悔はないし、満足です。多くの人が世俗の代表であるマスコミに引っ張られていることは情けないし気の毒だと思う。新聞は紙面に人物を紹介するときに何故学歴を出すのでしょうかねえ。それにどんな意味があるのでしょうか?学歴信仰のご本尊みたいなことはそろそろ止めてもらいませんか!
こんな俺の人生にとやかく言われる筋合いはない!やりたいことをやってきた。
就職できない人がいたら、そう言って胸を張ろうじゃあありませんか!
(棺桶に片足をつっこんでるのにいつまでそんな集金の仕事をするつもりか!)
とレア仲間から叱咤を受けました。驚きながらそんな目で自分をみてくれていたのかと、有難くもなりました。確かにそのとおりです。道路上の温度計が0度を現してる中、50分もバイクで走り続けるわけですからね。心臓の一本の血管は風船治療をして逆に血管がせばまり、もう一本はステントを入れたがおもわしくない、(2月まではだいじょうぶでしょう)と手術をした医者に言われ(それから先はどうなるの?)と聞き忘れてました。
自分の自覚では体調は悪くないし、仕事を辞めてもなんとか食っていけないわけではないのです。野菜作りをし、家を人に貸せば飯は食っていけるわけですがそうはしたくない。命の次に大事なお金をもらうという真剣勝負、ノルマの圧力、これらに対する反作用が自己の内部から起こってエネルギーを強める、そのエネルギーで生きる、被写体を探し画像を撮る、小説を書く、この原動力を失いたくはないのです。
棺桶に片足をつっこんだまま走り続けます。
真理は一つであるしそうでなければならないことは知ってらっしゃいますね。一つであれば戦争も争いも起こらないはずなのにそれらが絶えた時代はないし、宗教さえ争うのだから真理が一つであることは理想的な意味合いであろう。
ある日、集金先の家の前にバイクを停めました。玄関先を見ました。ご主人が庭木の剪定をしているのが見え、いつか自分もあんな身分になりたいとうらやましくなっていました。(こんにちは、お世話になっています)と声をかけながら、門扉を開けると奥さんが(ちょっと待ってくださいね)といって財布をとりに家の中に入りました。ご主人は私を見つめていました。なにか苦情をいわれるのかな?と考えていると、(私はあなたがうらやましい)というのでびっくりしていると(私はあなた、ゲート・ボールをしたり散歩をしたりして、一日をつぶすのが大変なのですよ)と言うのです。
私は返す言葉がありませんでした。
どちらも自分の生活に不満を持っていて、相手の生活をうらやましがっている。どちらが本当であり真理なのだろうかと考えると、どちらも真理である、という言葉しか返ってこないでしょう。人間はどうしても自分を中心にしてしか考えれないようになっているのです。そこでその主人が集金の仕事を始めたとすれば私の心境になるでしょうし、私が剪定をする立場になれば主人の心境になるでしょう。その時の状況で人間の心理はどのようにでも変わる。
世界や社会の動き、人間関係などをこのような視点からみると意外にわかりやすいと思う。
前にも似たようなブログを書いています。
施設を出たり入ったりしている人から相談を受けました。働いて更正するから出してくれ、というのです。こんなことは3、4回も繰り返したかなと思い、退院後の生活のシュミレーションをしてみろと言うと、求人広告をみると募集があった、と張り切っていうのです。前回もそうだったな、今度は経済的に余裕ができてるからだいじょうぶかもしれないと思い、自力更生をさせてみようということになりました。
サイクリングをしながら、そのことに思いをめぐらせていると、先ほどのシュミレーションの中で自分は彼の最悪事態へのそなえをききたかったことに気がつきました。彼がそれを口にすれば自分はだいじょうぶだと太鼓判を押したのにその言葉が出なかったことがきがかりになりました。
東北大震災の場合もそうです。国や東電が過去最大の津波へのそなえをしていればあんな事態にはならなかったのです。
さて、今年は経済の悪化で日本が破綻するかもしれないと新聞にも書いてありましたね。そのそなえは出来ているでしょうか?スーパーインフレになり大根一本が千円なんていうことも想定されます。農家と親しくなっておく、あるいは畑地を買っておくなどいろんな方策がありますが、最悪事態へのそなえが出来たもののみが生き残るのです。東北大震災から真剣に学んでおきましょう。
テレビに出る出演者の鼻や電車の中で見かける人の鼻がいつの間にか高く細くなり、西洋型になっている。その数が異常に多いと感じるのは私だけであろうか?女ばかりでなく男もそうである。
(トイレをいつもきれいに使っていただいてありがとうございます)という言葉、あるいは本屋の若い店員が客ではなく、本棚を見つめて(ありがとうございます!)と叫ぶ姿などはこの社会がどのように変わっていくか私の観察眼をじゅうぶんに満足させてくれる。写真雑誌をみても、高画質で洗練されすぎた写真には感嘆をおぼえるが同時に何かちがうな?という違和感をおぼえさせる。絵画には荒々しいタッチというのがあるのだからそのタッチで生々しさや原質のもつ生命力を訴えても良いのではないか。どれもこれもお化粧ばかりして、何かを失っている。(イノシシが街中に現れました。捕獲して山にかえしてあげました)と美談を報道しても屠殺される牛は野に返すことはしないし、屠殺の現場を報道したりはしない。彼らは食用であるから身分がちがうのである。
この方向性の先には何があるのだろうか?虚飾社会の歪がとんでもない事件を起こし、人間がますます自然力をうしない、衰退していく未来しかみえない。実はわたしは会社の中でつぎのように言われたことがあるのです。(あなたは今の時代に生まれてくるべき人間ではなかった)その言葉は日頃自分で思っていたことなので、おどろきながらもすごく納得し、満足しました。誉め言葉と解釈してますますレアに磨きをかけるつもりです。
ついでに書くと、わたしがもっとも好きな作品はジャック・ロンドンの「荒野の叫び」です。
2012年1月1日、わたしは部屋の中でごろりとしていた。テレビでNHKスペシャル「目指せ!ニッポン復活閉塞感打破の処方せん」を観ていたが、途中でスイッチを切った。番組で(現場力)をとりあげ、事業家や大学教授が出演して良い話をしていたが、このことと大きなテーマ、つまり環境破壊ー人類絶滅とはどのように関わるのか?という疑問がわいたからである。NHKにこのことを問い合わせれば、(そのテーマは別の番組で放送します)とこたえるであろう。セクト主義なのである。他のメディアを含めNHKもそのやり方で長年番組作りをしてきたから疑惑がわいたのである。一番大事なことはそれが全体とどんな関係性を持っているのかをはっきりさせなければ無意味ではないか。あちらが良くなればこちらが悪くなるといったモグラたたきを長年見せつけられたと思い返した。
全体と部分との関係でみれば、政治の世界をふくめ(今が良ければ良い)という刹那主義でやったきた。そのつけが東北大震災であった。そのことに気づき、NHKをふくめマスコミ全体も変わらなければならないのが変わっていない。今年も同じベクトルでやっていくつもりだろうか?
個人の生き方でみれば、自分自身への反省をこめてのことだが、(自己の死)の視点から現在の自分の生活状況をみればよく見えてくるし、(なんでこんなことで悩んでるんだ)ということが多い。もっとやっておかなければならないことがある、ということになる。それは神の視点といえる、大それたことを言うが。
今年はそのことを踏まえて生きていきたい。
今、紅白歌合戦をテレビでみ、ガガさんの歌詞に耳をかたむけながら考えた。その歌詞に(産まれた時は爛漫であった?)というような言葉をきいて思いついた。東北大震災の報道は放射能汚染のレベルとか生活の復旧のことが中心になっていて、それはそれでだいじなことであるが精神的な部分が見落とされていないのではないかと。はっきり言えば、精神的な復興とは人間の命とは消えるものそして生活も消えてしまう、そのことを自覚して生きていこうということではないか、と勝手に考える。
個人的なことをいえば、2010年12月31日に竹の子山で狭心症を発作を起こした。まわりには誰もおらず、体が動かなくなって顔から冷や汗をたらしながら、ミカンの木のそばまで歩き、実をもぎ取って食べた。少しずつ回復していった。その時は死を覚悟し、受け入れていたし、今もその心境である。
人生は生きる上において自己を殺し、脱皮してなんども産まれ変わることである。それがわかった者のみが生き残る。
2011年の終わりを一時間半後にひかえてそんなことを考えた次第です。
わたしの残りの人生はあと10?15年だと予想する。確実な活用をしないと悔いが残るので、来年の夢をここで書き、初詣をするまでもなく祈願しておこう。
1?レア会員を増やし、一宿一飯運動を展開する。
2?小説「火炎」の全篇掲載
3?ワゴン車の中で寝泊りしながら撮影旅行をする
4?現在は北九州自然史博物館の会員であるが、まったく活動はしていない。「動植物の情報 伝達方法」というテーマをもうけ、研究教室をつくる。
以上です。
このホームページを9月に開いて以来、延べ1000人ちかい方々に閲覧していただきほんとうにありがとうございました。毎日、パソコンを開くと閲覧者数をみるのが楽しみになりました。
来年もよろしくお願いします。
中村行雄
わたしの周囲をみると働かずに飯を食っているものが多い。わたしの母はこう言っていた、(働かざるもの食うべからず)と。動物の世界で働かない(餌とり活動)をしないものは死ぬことになっているが、人間界とは不思議なものである。延命治療までして生きながらえさせている。うがった見方をすれば人権を盾にした医療業界のメシの種であろうか。
囚人や精神障害者たちも労働に準じた活動をしているし、悪質な交通違反者たちもボランティア活動で刑を少なくしてもらっているから、人的資源の活用はめずらしいことではない。だが囚人や精神障害者たちに使う血税はそうとうな費用になるから、もっと彼らの人的資源を有効活用し、国家財政の出費を抑え、社会参加の実績でかれらに自信を持たせるべきである。刑務所を民営化しているところもあるのだから、規制緩和をもっとして民活を取り入れるべきである。小泉の構造改革は派遣制度によって弱者をいためつけたが、こういうことに創意工夫を発揮すべきであったのだ。そろそろ本当のことを言って実行しないと未来は見えてこない。