ブログ - 日記カテゴリのエントリ
わたしは岡垣町の海老津駅南口開発に反対しています。そこに道路を作ったり地下道をつくったりしても利用者が少ないことは目に見えています。血税をドブに捨てる、というよりコンクリート行政で自然を破壊するだけです。町の議会に傍聴に行きましたが、結論として町長、議員、職員達は金(自分達の生活)のために動き、町民の目線がないことがわかりました。5千人の反対署名があることは忘れているようです。議論の内容もあらかじめ作られたデキレースで、真剣さがないから緊張感もなく退屈というより疲れるいっぽうでした。
そこで(金で動く時、心で動く時)というタイトルに思いついたわけです。こんなわたしはこれまで働き、つまり金で動いてきました。心で動いたこともあります。それは両親、恋人、友達、息子たちのための場合で、皆さんと同じです。今のわたしの行動はまったく金にはならないし、人のために動いているわけでもありません。自然な行動です。
道路をつくるために、金比羅山のヒノキが数百本もなぎ倒され、地面が削られて赤土がむき出しになっています。山の五分の一はなくなるでしょう。山の入り口と頂にあった神社の鳥居、二体とも倒されました。ユンボのエンジンの音が朝早くから夕方まで一日中響いてきます。自然を破壊する音、響きは騒音というより気持ちがおかしくなりますね。この騒音は二年間続くそうです。
人は生活のために働き、金を稼がなければならない。これが今の時代、資本主義なのです。(心で動く時)は金と生活に余裕のある時ですし、わたしには今その余裕が少しありますからこんなことが言えるのでしょう。(金で動かなければならない人)のためにも(心で動くこと)を少しでもしたいと考えます。
中公新書・金森修著「動物に魂はあるのか」を半分ほど読みましたが、西洋の哲学者の書いた著述の紹介が多く論点が絞られていないので中断しています。このテーマについては私も関心が深かったので自分なりの考えを書いてみたいと思います。
歴史は動物から人間に変化したわけですから、動物にも魂はあります。しかし、動物と人間はとりまいている環境がすごく違うので人間的な観点から見た魂ではなく(自然)に基づいた魂なのです。人間のそれよりはもっと純粋で厳しいものです。かれらは唸りや叫びまたは体から出る波動やテレパシーでそれを表現し、理解します。だから嘘や偽りはありません。人間は言葉や表情で現すのでごまかしがあります。人間は子供から大人になる期間が長いので、その間家庭や学校で昔の人間の生活や考え方・文化などを学び情緒や感性をみにつけ、人間特有の魂・心を育てていきます。動物は考え込んだり物思いにふけったりしていると敵に攻撃されて命を失うので、魂にひたることは生体のシステムとしてありえないのです。もし自分の子供が殺されて悲しみにふけっている親鳥がいたとすれば敵の格好の餌食になってしまいます。だから魂があっても発現できないのです。人間は自然界で一番強いからその余裕があるというわけです。
それに自然の動物界においては精神障害や依存症は成立しません。ここに現代の人間の精神の病の根源があり、自然界のなかにその治療・回復のヒントが潜んでいます。
以上は野生の動物について述べたわけですが、ペットの犬や猫は人間以上に心があります。同時に人間並みの精神障害にもおちいります。野生の動物にはありえません。
(魂)という言葉はキリスト教にもとづいており、それを信仰しているかいないかで左右されているので偏向性があります。信仰しない者は邪教徒でありサタンなのです。(動物に心はあるか)というタイトルのほうが適切ですし、(物質には心があるか)というタイトルも面白いと思います。風に震え声を出すトタン板や風に擦れあう竹林のそよぎは心を現していますし、音の表現で成り立っているのは音楽の世界です。ベートーベンの第九などは思想そのものを訴えてきます。
自然を見習い、もっと自然を知り、自然から知恵を学び取ろう、というのが教育の原点であり、私たちが向くべき方向なのです。自然を破壊することは人間を破壊していることです。
一寸の虫にも五分の魂、という言葉が東洋にあります。東洋思想からこのテーマに取り組んだほうが
もっと理解できるのではないでしょうか。
700坪の土地に引っ越してきて4ヶ月ほどになります。晴耕雨読の生活を送りながら、この土地で余命を終えると思えば感慨深くもあります。畑地は100坪弱あって、今は毎日夏野菜に向けてスコップやクワを振るっています。天地返しをした畑に石灰、牛糞、鶏糞、米ぬか、化学肥料を混ぜ込みました。トウモロコシ、ネギ、ホウレンソウ、枝豆、大根、ミズナの種をまき、ショウガとジャガイモを植えました。畝の間で繁殖した雑草をトウグワでかきとり、種をまいた畑に自家水の水をかけました。我流で始めた畑作りもなんとか波に乗り、今後は畑を休ませることを考えました。畑地の半分を一年間休ませるわけですから、夏と春に収穫となるので4分の1が対象になります。そこは収穫の後ですからスコップで耕し、石灰をかけて、黒いブニールをかぶせます。昨年の10月にタマネギを植えたのですがマルチ栽培にしなかったためにすごい面倒をつくってしまいました。タマネギより雑草が元気よく伸び、タマネギは雑草の中に埋もれてしまい、除草するのに苦労しました。水や肥料がやりにくくなるので直接植えたのですがそれが失敗でした。苗ものは基本的にマルチ栽培にすべきですね。
鳥の被害が増えました。絹さやインゲンのサヤがいつまでも出来ないので不思議に思っていると、鳥が花を全部食べていました。花の部分がすべて食いちぎられているのです。次に気づいたのはキャベツの葉が虫食いだらけになり、無残な姿をさらしているのです。青虫に食われたと思ったのですが食べ方がどうもおかしいのです。よく観察して見るとまだら状に食われているのではなく筋だけを残して食われているのです。野鳥がつついて食べたのです。が捨てるのはもったいないので食われた部分を切り捨てて、中の部分を生で食べました。
鳥達が外の葉を食べ、私が中味を食べたわけですから、いっしょにキャベツのご馳走になった、というわけですね。これが共生なのかなと思いました。柿の枝に止まったカラスや鳥達は耕した畑に降りてきて、地面の中にいた芋虫や蛾のサナギを探しているのですが今年はそれらをほとんど見かけません。人間の起こす環境破壊のせいですね。
本田先生が亡くなられたことを近所で耳にし、先生の顔が鮮明に数年前の出来事・出会いのように思い浮かびました。二、三年前に私が高血圧で開業医に通っていた時に先生がいらっしゃって、(わたしも高血圧ですたい)と見知らぬ患者に向かって言われ笑っておられた日を思い出します。70歳すぎなのに髪も黒くふさふさして、あの輝く目も55年前と同じでした。わたしは声をかけそびれ、先生もわたしに気づきませんでした。
55年前、先生は太平洋戦争の現地から帰還したばかりの兵隊でした。小学校の教員につき、私たち3年の担任になりした。当時としては珍しい黒のジャージをいつも着て、精悍な顔と笑顔がありました。サッカーが得意でグランドをよく走っていました。
その日のことです。
(お前達、廊下に並べ!)
いつになく激しい声を耳にし、クラス全員が廊下に並びました。わけがわからずまごついていました。
(母の家の生徒ー養護施設ーがこのクラスを使った後、おまえたちはなんて言うたか?)
強い口調でした。
誰も返事が出来ませんでした。
地域の集会があり、(母の家)の子供達が私達のクラスで話し合いを終えたばかりでした。
(臭い、って言うたろ!)
その言葉に皆返事ができませんでした。
(歯を食いしばれ!)
先生の言葉は連続しました。
わたしは列の中ほどにいましたが、頬を平手で叩かれる激しい音が連続し、伝わってきました。
頬に激しい痛みが起こり余韻が残ると隣から(ピシャ!)という響きが起こりました。
(俺は臭いと言ってはいなし!なぜ、殴られるんだ?)
わたしは考え、殴られた原因がわかりました。
当時はまだ戦争が終わったばかりで、親を失った子供やアメリカの黒人や白人との間に産まれた子供達が(母の家)に引き取られ、生活をしていました。人手と衣料も足りず、子供達は何週間も洗わない汚い服で登校し、人目につきました。自分は(臭い)とは言っていないが心の中で思っていました。
成人するにつれ、本田先生のビンタの意味がよくわかりあんな先生に自分の息子を育てて欲しいと思いました。
(イジメ)についてしばらく考えていましたが、なかなか理解できませんでした。わたしはイジメられたこともイジメたこともあります。
今日、やっとわかりました。イジメとはテリトリー(縄張り根性)からきているのです。一時、鶏を五、六羽飼っていました。雄鶏が一羽、雌鳥が二羽ですがそこに知人からもらった雌鳥をいれたことがあります。するとそこの主であった雄鶏がすごい勢いで飛び掛り突いていくのです。相手が顔中血だらけになり、片目をつぶされても攻撃をやめません。相手は逃げ回るだけですが、死ぬまで突きまくるでしょう。
この場合は雄鶏同志のライバル意識が加わって激しくなっているのです。人間社会の現代においてイジメが流行りいつまでも止まないのは民主主義による個人主義が強まりすぎてて、戦争中や封建時代のような絶対的な思想がなくて結束感が生まれず、人間関係が希薄で不安定であるからです。ツナガリの確認のために一人の人間を的にし、暴力を振るったり、物を隠したり、笑いものにしたり、陰口を叩いたりする。その行為によって自分が仲間や組織に属しその一員であることを確認し、安心するわけです。
イジメる者は弱くて不安定な心の持ち主なのです。それが自己と同類の弱い者を見つけて、攻撃し一時的に自分の弱さをカバーしているのです。強い者がイジメるということは力学上ありません。
マスコミの仕事には事実の報道だけではなく、購読者への啓発、啓蒙精神がある。マスコミが発生した頃、特に新聞などは主義主張が目的であり、それに向かってがんばっていたが組織が大きくなると普遍性を求めらにれ、それを取り入れていった。社訓をもうけて方向性をしっかりさせ、多くの視聴者に受けられようとした。今、幅をきかせている新聞社はそんな歴史をもっている。
ところが最近、マスコミは事件のもぐら叩きばかりし、日替わりメニューみたいに視聴者・購読者を遊覧させる傾向が強いくなった。この一、二年(自然破壊、環境破壊)の言葉や文字をまったく出さなくなった。出るのは政治家ごっこ、政治遊び、尖閣列島、竹島、アベノミクスの円安、経済成長、開発予算など目先のことばかりで目の裏で進行している環境破壊のことは忘れている。環境破壊は人類滅亡に通じているわけだからそちらの方がだいじであるはずなのに、本末転倒している。
わたしは今、田舎に住んでいるが、散歩するたびに小さな川までコンクリートで埋められ、車や人の通らない散歩道まで舗装され、その下で無数の生物が殺されていった事実を知る。マスコミはそのことは報道しない。(自然破壊は人類絶滅に通じている)ことをマスコミは訴えない。それは金にならないし、スポンサーの機嫌を損じるからである。
政治番組になぜ政治家を登場させるのだろうか?NHKもそうである。政治の宣伝屋、詭弁学のプロを登場させてしゃべらせ、国民に拝聴させようとでもいうのか。だから、TV番組が面白くない。政治家を登場させるならその対極にある組織や人を出して議論をさせるべきである。
(お蔭様です)とは日本人が日常的によく使う言葉ですが、昨日、ある人からこの言葉の意味を聞きすごく感動しました。恥ずかしいことにその言葉の裏にあるものも知らず、考えたこともなかったのです。(お陰)とは目に見えない影のことを言っているわけですが、神仏を暗に示しているわけです。目に見えない神仏のご利益のお陰という意味ですが、わたしはそこに日本文化の繊細さを感じ取ります。
欧米にだって(神のおぼしめし)などとよく使うわけですが、この言葉は神仏を直接出さず暗に示すところに深みと味わいがあります。
私も65歳になって振り返ってみれば自分が自分の意志で独りで生きてきたわけではないし、生きていくわけではないことがわかります。自然の力、先祖の力、家庭の力、友人、知人の力など省みればいくらでもあります。自分はそれら(他力)にも動かされながら生きてきました。
(人間にとって感じ取れないものは無いにひとしい。だけど感じ取っている世界はほんのわずかだから知らない世界のほうが多い)
ある人にそう言いました。
(グアム島で二人の日本人が通り魔に刺し殺されたけど、あの犯人の顔を見るとまだ子供の顔だよね。彼が独りで通行人を車でつぎつぎに轢いていき、車から降りてナイフで刺していったなんて想像もできないよ)
(そうだな。さっきのお蔭様、の言葉じゃないけれど目に見えない世界の力が加わっていたんだよ)
(そうだよ。私たちにその影に動かされてるだけかもしれない)
わたしとその人はいつもの散歩道を歩きながら、そんな会話を交えました。
北朝鮮が核実験に成功し、アメリカまで核攻撃の射程距離に入れたという。
驚くと同時に腹立たしくなる。最初は北朝鮮に対して怒りが生じたが、今では日本政府とアメリカ政府に対してと矛先が変わった。この両国は北朝鮮の手の上に載せられて、うまく操られつづけ、北朝鮮の脅迫外交の支配下に置かれてしまった。中国は北朝鮮を自国の鉄砲玉にして陰で武器や食料を与え続け、すっかり(ツッパリ中学生)にし、知恵をつけてやっている。
(ツッパリ中学生)に正攻法、正論で向かうなんて外交・交渉の基本戦法に外れている。アメリカが交渉に応じ、親交を結ぶほうが効果的である。親交条約を結び、貿易、観光をとおして民の往来を積極的におこなったらどうなるだろうか?
人間は利便性と快楽には弱い動物である。北朝鮮の人民がパソコンやテレビ、スマートホンを手に入れれば、北朝鮮政府は海外の国の生活ぶり、考え方を遮断することは出来なくなる。するとどうなるだろうか?(アラブの春)が来て、アフリカの独裁政権が倒されていったように北朝鮮政府の行く末は目に見えている。
霜の降りる日もありますが、畑の雑草が勢いを増し、畑には春が来ています。野菜にトウが立ち始めるということを聴き、大きくなったタカナを刈り取り、塩漬けにしました。白菜も刈り取り、倉庫の台の新聞紙の上に置いて水分をとり、塩漬けにするつもりです。
昨年の春に刈り取ったドクダミは日陰干しにしていましたが、きれいに枯れたのでハサミで切ってビニール袋に入れました。100グラム、500円で値をつけて産直の店に昨年の末から出していました。6袋しか売れていませんでしたが、あれだけ労力を奪ってくれ元気くれたドクダミ達にお礼を言いたい気持ちです。今年も彼らの子供たちが元気いっぱい伸びてくれるでしょう。
大きなガラスケースがありましたので、箱の中に土を入れ、種をまきました。トマト、キュウリ、スイカ、オクラ、ウリなど夏野菜にはじゅうぶんの苗が出来ることでしょう。畑に植え替えます。
次は畑作りです。スコップで天地返し(掘った上面のを下にする)をしていき、引き抜いた雑草を載せていき、その上にマルチ(黒いビニール)を掛けていく。雑草は腐り肥料になる。苗を植える時はそこだけ穴を掘って肥料をいれ、苗をうえていくつもり。
こんな我流のやりかたで今年はどんな成長をするか、楽しみです。
アルジェリアで日揮の社員がテロによって殺害された。民放各社、NHKおよび新聞は大きく取り上げ、報道特集まで組んだ。少し大げさではないか、と私は思った。亡くなられた遺族の方には叱られるだろうが、紛争国で働くことは危険を覚悟の上のことではないだろうか。同時に尖閣列島の領土問題以降、マスコミは外国とのトラブルに対して騒ぎすぎるようになった。背後で操っている黒子の影を感じとってしまう。
はっきり言えば民主党の政権以降のシナリオが練られ、組み立てられていったのではないか?まずは経済成長のスローガンを挙げて政権をとる。円安への誘導によって景気をあげ、GNPを押し上げる。それが一息つくと、憲法改正によって自衛隊を軍隊に変え、産業を軍需産業へと変えていく。軍需産業は裾野がひろいから、鉄鋼、電気、精密機械、商社などほとんどの産業がうるおい、すごい経済効果がでてくる。そして、巧妙に世論作りをしながら核武装をしていくであろう。アメリカは世界への侵略に疲れ果ているから、日本をその方向に陰で導き、日本が自らやったのだという脚本を書いている。
次に出てくるのは国民徴兵制である。これで失業率の改善は二桁はいく。
毎日新聞の報道によると、アルジェリアで日本人を殺したテロは外人部隊であるという。その近隣では失業率が高く、傭兵を志願する者が多いという。日本にもそのうち(人殺しが仕事である世界)ができてしまいそうな気がするが、その前に体制の狙いをいつも見張っておくべきである。