ブログ - 日記カテゴリのエントリ
四十年前のことです。わたしは神奈川県に住んでいて、フリーターの生活をしていました。東京都の東中野にある新日本文学という学校に小説を学ぶために通っていました。そこは歴史的にも野間宏や椎名麟三などもいた由緒ある学校で、今思い返せば本来の学校の姿を示していました。まだ無名の文学者や評論家を講師に招いて、労働者や身体障害者の方達が生徒になって和気藹々の雰囲気で語り合い、和やかなものでした。講義の後は必ず飲み会があって近くの飲み屋にみんなで行きました。酔っぱらって言いたいことをしゃべり、今ではすっかり有名になったヤンソギル(直木賞候補)さんもいました。
今思い返せばその時に在日の講師がいて、日本は東洋文明と西洋文明のぶつかる国だ、と話されその言葉が思い出されます。そんなものの見かたがあるのだと感心しましたが、今では日本、韓国、台湾、フイリピンがアメリカの属国になり、東洋文明は西洋文明にすっかり支配されています。中国や北朝鮮の社会さえも西洋文明に支配されています。
人権民主主義が定着してそれに違反するものは(国賊)みたいな風潮が出来上がっています。たしかに新聞紙面から孤独死や餓死の記事がすっかりなくなり、福祉や生活保護の体制がととのったことはまちがいないでしょう。それは飢えや貧困による暴動を起こさないための為政者の政策ですが、近頃街中や住宅街を歩いていてもどこかおかしい雰囲気があります。チリ一つ無いきれいな道路、話し声も大声もケンカもない街、パチンコ玉も音楽も焼き鳥の匂いも煙ももなく音楽もない街、なにか変だ。人間は歩いているのに気配や空気さえない。まさに静止画像のような世界を感じます。
これは何だろうか?と考えると農耕民族の国に狩猟民族の人権民主主義と文明が無理に臓器移植され、大手術の後に活力がすっかり失われたせいではないか。近代に入る前の日本には人権という言葉の代わりに(もののあわれ)というものがあり、競争もないどこか楽天的な国でした。今は民主主義と言われながらも実質は封建主義であり、仕事を二つも三つもこなしてやっと生活してる人がたくさんいます。昔の奴隷にひとしい労働環境です。他方では公務員という貴族階級がいます。
わたしたちはうまく騙されているのです。
自然農法に挑戦して3ヶ月くらいになりますが、期待はずれでした。ホウレンソウは肥料をやった畑の時の半分くらいの成長で、根が固くて食べられません。移植したサトイモもほとんど生長せず、大根、ごぼう、カリフラワー、野沢菜なども大きくなりません。よく考えましたが、古い畳の腐葉土では元素がかたよっているのではないか?山のクリやドングリが大きく育つのは色んな木の葉が混じって多様性があり、元素のバランスがうまくとれているのではないか。
そこで今度は休ませていた畑をスコップで掘り起こしはじめました。山から取ってきた枯葉をまき、土をかぶせていきました。これで春まき野菜の生育に間に合えば、結果が出るでしょう。
自然農法では雑草はとらず放置するのです。わたしは小さなホウレンソウを取り囲んで伸びている雑草をみつめました。
(君たちは肥料もやらないのによく伸びるねえ。どうしてなの?)
(もともと肥料がなくても成長するようにできているのさ。野菜くんたちは人間が肥料をやるから依存症になってるんだよ。太陽と水さえあればぼくたちは元気なの)
わたしは大きく伸びたタンポポに声をかけました。
(この前、君をオヒタシにして食べてみたけど、美味しくなかったよ。硬くてサバサバしていて味もない。この屋敷のあちこちで元気良く伸びているから全部切ってやろうと思ってるんだ。良いかい!)
(ぼくたちにだって生きる権利があるし、人間達といっしょに生きてるんだよ)
ませた口をきくな、と思いながら話を聞いていました。
(ぼくたちといっしょに生きてる、ってどういうことだい?おまえなんかいなくったって俺は生きていけるんだよ)
(そこをわかってくれないの?こうして話をしてるとオジサンが炭酸ガスを出し、ぼくたちはそれを吸ってる。お礼にぼくたちは酸素を出しているから、オジサンたちはそれを吸ってるじゃないか。おたがいに元気のやりとりをしてるんだよ。こんな関係がなくなったらどうなるの?)
タンポポは茎をまっすぐに伸ばして言いました。
わたしはすっかり忘れていたことを思い出させられ、絶句しました。
これから目立ちすぎる雑草だけ切って、あとは残し、緑豊かな庭にしよう!と考えました。
今日の毎日新聞に山極寿一氏がこんなことを書いています。(人間の危機管理とは何か)というタイトルで東北大震災を例に出し、結論は(今の日本に必要なのは、人間の安全を保障するのは機械でも技術でもなく人間の心だという事実に立ち返ることである)です。
彼は京都大学教授ですが、わたしはこの考えに何か一歩遅れた不甲斐なさを感じます。つまり、あなたはまだ(人間信仰)を捨てきれずしがみついているのですか?と反論したい。学会の権威にまだしがみついているのですか?大学という業界から抜け出せない限りあなたは自由な発想も浮かばないし、真実を書くことも行動することも出来ないのですよ。まずそれに気づき、自己反省してから行動してください。
今の日本に必要なのは(人間信仰)を捨てることです。人間の知恵を一度捨てることで反省し、自然の知恵に学ぶしかないのです。汚染が消えるのに10万年以上もかかる原発をつくり、解決のめどさえつけきらない人間たちに学ぶものはありません。人間以外の生物は生活の中で自然破壊はいっさいしていません。そこに学ぶヒントがあります。かれらは動物も植物も生活と生命を循環させ、消せない汚染物質はいっさい出していません。人間だって日本では江戸時代までそうやって生きてきたのです。
すべての発端は西洋文明にあり、キリスト教という一神教にあります。
東洋の国は西洋文明の侵略を受け、人権民主主義の臓器移植をされたのです。臓器移植ですよ。ケネディさんが日本に来てマスコミが賞賛していますが、アヘン戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、パレスチナ戦争、イラク戦争など欧米が東洋を侵略した戦争はおどろくべき数があります。なぜ他国に入ってまで戦争をするのかアメリカや欧米はそのことを研究し反省してください。そのことを踏まえても今もとめられるのは自然の知恵に学び、東洋思想を復権させることです。
頭の上に白っぽい空が広がり
団地の家々は箱庭の中で隙間なく並んでいた
白い道と白い壁
ゴミ一つない庭と道
猫も犬も小鳥さえ声を出さず姿を見せない
白い街だった
人の姿も子供の声もカレーの匂いもなく
自転車も車も見かけないが
廃墟なのかそうではない
清潔でルールを守るきちんとした街なのです
真面目な人ばかりです
でもなにかおかしい
なんだろうか?
そうだこれはディスプレイの中から出てきた静止画像にちがいない
仮想の街にちがいない
静止画像の街の中をぼくは歩き、笑顔の男を郵便受けに押し込んでいった
ひまがあったら遊びに来ませんか!
と男は叫び、イノシシの焼肉をいっしょに食べようよアイガモたちと遊ぼうよ
オカリナ・コンサートもしたよ
赤土をこねて久土をつくったからもうすぐ餅つきもするよ
男は最大限の笑顔を見せて叫びながら
木枯らしに吹き付けられながら、捻じ曲がって押し込められた
わたしも仮想人間になりかけていた
バイクで走り、止まっては
狭い階段と門扉の穴を出入りして回った
ネズミのように動いていた
初めて声を耳にした
玄関先のすみで丸い枯葉が踊り床に体をこすっていた
大晦日はもう一ヶ月先なのよ
新しい年を迎えるのよ
きっと良い年になるよ
枯葉は舞いながら男と話していた
尖閣列島への抗議行動、日本商店の破壊、日本商品への不買運動が下火になったと思うと、天安門の真ん中でウイグル人ののった車が炎上した。その何日前もちがう場所で似た事件があった。
予想されていた事件の続発が今後も予想され、PM2.5の大気汚染もふくめて成長期の国には波乱が待ち受けている。現在、国家の体制をなしている国はすべて民族問題に直面したといっても過言ではない。
黒人のオバマ氏が大統領をつとめているアメリカだって、歴史をひもとけば少数民族にとっては受難の歴史であった。そのことを知っている人さえ少なくなっていて、歴史から消されることだって考えられる。100年ほども前、奴隷商人という者がいてアフリカにすんでいた黒人達を捕らえた。また、かれらを安く買い、アメリカ南部の農場主に高く売り、儲けた。敷地内に住まわせて綿花の栽培や刈り取り、家事労働などさせた。(アンクルトムスケビン)という小説に詳しく書かれていて、この作品は世界中の人人に感動を与えた。黒人達は悲惨な生活を送っていた。
それから黒人達に公民権運動が起こり、アメリカ政府と闘いすごい犠牲をはらって(公民権)を勝ち取った。オバマさんが大統領になったということは、(アメリカは人権国家です。中国や北朝鮮、その他の抑圧国家とはちがいます。抑圧国家は人権国家に変えねばなりません)というアメリカの国家侵略のかっこうの理由付け・正当化に道筋をつけることになるのである。
映画(夜の大捜査線)は黒人差別問題をテーマにしながらサスペンスを取り込み、素晴らしい作品になった。主人公はシドニー・ポワチエという黒人の名優であり、テーマ音楽の歌手はレイ・チャールズというこれまたすごい黒人の歌手であった。この作品はアカデミー賞を何本ももらっている。
DVDにもなっているので、ご覧になると感動することまちがいありません。
前のブロッグで(多様性の時代)を書いたように時代はすっかり変わっている。多数派による少数派の支配、一民族による他民族の支配や独裁、他国への侵略は必ず失敗し、政権側の崩壊に通じる、そのことが法則みたいになっている。
中国よ!あなたは古い歴史と知恵のある国なのだから民族問題や環境問題にきちんと取り組んでください!
毎月、病院に通っている。血液検査を受けて、30項目ほどのデータを出してもらう。中性脂肪以外はほとんど合格点であるが、それは薬を毎日12錠も飲んでいるおかげである。飲まなければ血液が濃いくなり、細い血管が詰まって多臓器不全で死ぬことになる。まあ、薬のおかげで(死)の猶予をもらっているわけであり、誰でもいつかは死ぬわけだから早いか遅いかの違いでしかない。
わたしを診察してる医者に訊いてみた。
「先生、安楽死の手続きはここでもできるのですか?」
60にちかい彼はおどろいたのか、しばらく返事をしなかった。
「それは入院してる状態じゃないと出来ません」
「はあ、そうですか」
とこたえた私はその場ででも安楽死の手続きをしたかったのだが、出来なかった。次は献体について尋ねた。献体をした場合、葬儀は病院がするかどうかだったが、死体は必要がなくなった段階で遺族に返すと言うことだった。
その二つの答えをもらって納得した。
バイパス手術をしてもらった病院、その病室のベットに鼻にチューブを差し込まれて(食事をしていた?)患者がいた。呼吸が苦しかったにちがいない、彼はよくチューブを手で外した。看護婦が何度も注意をしたが彼はやめず、ついにはボクサーがつけるグローブを両手にはめられた。これでは指が使えず、彼は一日中眠っていた。
あれから一年もたつが、彼はどうしてるだろうか?生きているか?死んでいるか?
俺はこうして生きていて人間並みの生活をしているが、(死)の不安がよぎる時がある。ある意味で入院中は死ぬことが許されていたが、娑婆ではそうはいかない。(死)は忌み嫌われ、戒名をつけて消さなければ生きてる者たちの邪魔で迷惑な存在なのだ。だから、入院すると(生)から解放されてすごく気分が楽になる。
今日はいつもの山道を散歩しながら、(死ぬのではない、この世を消してやるのだ)と考えた。これは(現象学)に凝っていた友人からの発想であるが、正直、そんな気分になった。死ねば意識が消え、見ることも聞くこともできなくなるから、外部世界も消えてしまう。
アメリカとの戦争に負けた日本は(死)にたいしてすっかり臆病になった。武士道や特攻隊を美化するわけではないが、もっと積極的に死を受け入れても良いのではないか?これまでいろんな人々に支えられ良い思いをさせてもらったのだから、世間にたいして恨みがあるわけではないが、(もう十分だ、満足した)と三行半をつきつけてやりたい、いつでも。
いつもの山道を40分も散歩すると、集落の家の前を通りかかる。キジ模様の土色の猫がなんともオカシナ顔で私を振りかえる。決して飼い主に飼われるような可愛い顔ではなく、やはり野良猫特有のふてぶてしさと警戒心がある。ゴチャゴチャした模様の顔である。わたしが近づくと逃げることもなく、寝転んでは体を路面に伸ばして。背中を捻り、まだ乳を含んだ乳首のならびを見せる。体を撫でようと手を伸ばすと立ち上がって遠ざかる。近づくと寝転んで腹を見せる。うまくタイミングが合えば体を触らせ、気持ち良さそうにしている。
近所の人から餌をもらっているのであろう、荒んだ顔だが逃げることはない。空き家を住処にしていて、その玄関先にいることが多い。
わたしが顎や腹や背中をじゅうぶんに撫で回してやると満足げに横たわっている。別れようとその場を離れていくと、ヤブの中から黒の子猫たちが現れて母親の乳に寄って行った。
野良猫の姿も最近は見かけることが少なくなった。(野良)の語源を想像してみると面白い。野を良しとする猫、なんとも風流な言葉ではないか。捨て猫、と呼ばれるよりはるかに良い。世捨て人、という言葉はあるが、放棄人、などという言葉はないし、もし現れたら恐い世の中になっているであろ。私の青春時代にフーテンという種族がいて野良猫に近い生活をしていた。髪は伸び放題、髭も伸び放題で街の街路樹の下あたりに座っていて、小銭が空き缶に投げられるのを待っていた。今では信じられない光景だが、彼らは一つの風俗に属していて(瘋癲、風転)と呼ばれていた。
誰が使いはじめたか知らないが、(耕作放棄地)とは奇妙な言葉である。昔から放棄された土地はいくらでもあったが、そんな名前など付けられなかった。そんな不名誉な言い方をされる土地が気の毒になるし、以前は(荒地)という立派な詩の団体さえあったのだ。
近頃は聞かれなくなったが、(古新聞、古雑誌、ボロキレなどありませんか?画像のみれないテレビ、音の聞こえなくなったラジオなどありませんか?)と声をかけながら廃品回収業者が回っていた。それは(動かなくなったオモチャ)から(動かなくなった人間)にまで進みそうな予感がする。
もとの話にもどると、(自然)とは人間が関わらないから(自然)なのであって関わってしまえば(自然)ではない。耕作放棄地という言葉は(人間が関わらないものの存在、役に立たないものの存在はは認められない)という尊大さを含んでいるし、(自然)や(自然状態)をも否定もしている。
まさに現代の資本主義を象徴する言葉であるし、この時代が生んだ言葉である。
こういうわたしは700坪の宅地の片付けが終わり、耕作放棄地に通いはじめた。約1000坪ほどの広さであるが、春に竹の子堀りに行くだけであとはほったらかしである。孟宗竹が生え放題で暗く、谷間に近い地形でおまけに石ころだらけである。チェーンソーで立ち枯れや生きた竹を切り、倒していくのだがエンジン・チェーンソーの使い方になれず、チェーンが外れたり竹の切り口にかんだりして苦労した。最初は中国製の安物チェーンソーを使っていたので何度も販売店に行ってエンジンをかけてもらったりしたが、ついに二度も返品し、買いなおした。
枯れた竹は集めて燃やした。今では作業も順調に進み、竹と竹の間が傘をさせる広さにもっていけそうになった。陽の射すきれいな竹林が出来そうである。
だが民家から300メートルも離れたここに誰が来るだろうか?と考える。初夏から9月まではヤブ蚊に襲われ、冬は寒いばかりである。竹の子が芽を出す頃はイノシシの運動場になり、人間が探すより先に食べられてしまう。
だから、(耕作放棄地)なのですよ、と石ころ達は言っている。
それはわかる。しかし、わたしにとってはそんな場所が(希少)なのである。誰も来ない所、何も無いところ、時々竹の鳴る音が(カーン)と響くだけの無音の世界、なんとも言えない自然の空気がある。開発に押されてそんなところは消えていっているが人間に酸素を補給し、pm2.5から守ってくれる貴重な存在なのである。
こんな所、こんな人々こそわたしの友達なのである。
そんな言葉を口にした親友がいた。
考え方の違いから彼とは離別したが、わたしは時々思い出してはその言葉を吟味してみる。なるほどとうなずいてはその内容が深まっていき、自己体験も含めて合点がいく。彼はわたしと歳が近いが独り者であり、彼がいうには三人もの女と同棲したが子供が出来ず結婚にはいたらなかったという。
何人かの女に訊いたことがある。オナニーをする時に男との性行為を想像するか?と。想像するという女もいたし、まったくしないという者もいたが、物理的な摩擦で昇天するというのは板を擦って火を起こすような味気ないものだと思う。想像の世界は無限に広がり、それは創造力に直結し、人間だけが持つ特権だと思う。動物を見下げるわけではないが動物にはないし、かれらが想像世界になんかふけっていたらたちまち敵に食い殺されてしまうだろう。
現実界は生生しい臨場感、リアリティがあるが、余分なものやじゃまものがあり、集中力が失われやすい。想像の世界は純粋に引き絞られ、針の先のような集中力を生むことができ、目や耳といったツールを通さないからダイレクトに脳の中で展開させることが出来る。セックスは闇の中ですることが多いがそれは敵の目に触れさせない意図と意識を集中させるという意図がある。
オナニーをする時、男であれば自分の中に潜む女を呼び出す。自分が興奮するように女に下着を脱がせ、太腿をはみ出させる。想像の世界であるから演技は無限にある。まぶたの裏で展開する世界はまるで観客席から見てる舞台のようにスポットライトに照らされ、まぶしいばかりである。女を演じる女形は本物の女以上に色っぽく、男を誘惑する。男の中に住む女ほど魅惑的なものはない。
言語で表現する世界が精神世界とすれば数式で表現する世界は物質世界である。どちらも記号にしかすぎないが、そこではプラスー(男)、マイナスー(女)がすさまじい火花を散らしながらエネルギーを放出し運動をしているのである。
男でも女でも同性愛にはまると抜けられない、というがそれは同性だからどうすれば快感を与えあるいは得るかをじゅうぶん知っているからであり、それはオナニーと同じである。オナニーもどんな行為で自分が興奮するかを知ってて行うから現実の女以上に感じるのである。自分を相手にセックスをしているのである。
その親友は次の言葉もよく口にだした。?自作自演の人生さ、笑って死んでやろう。
(自作自演)とオナニーという言葉がすごく共振することに今は気づくのである。
一週間ほど前、民放のバラエティ番組を観て、面白かった。日頃はテレビを批判してるのだが久しぶりにみてみると、うまく作ってあるな、とおどろいた。これでは大宅壮一氏が40年前に言った(一億総白痴化)という現象が自分もふくめてありうるな、と考えた。60、70、80歳の女性タレントが出演してワイワイガヤガヤとしゃべっていたが、みな顔の整形をしていて40、50歳にしか見えない。デビイ夫人がいて、この方は40年前からマスコミをにぎわしていたのだがその頃とまったく変わらない顔と声で私の目の前にいるのをみてまたおどろいた。淡路恵子さんも80歳の顔を出していたが、その若々しさにおどろきより恐怖を覚えてしまった。(女は怖い)と昔から言われていたがそのとおりである。
40年前、顔の化粧より心の化粧、というコピーが流れていたがその時を超えて、時代は(心の化粧より顔の化粧)を実現してしまった。総理大臣みずからが美容整形をする時代である。たまに電車に乗ってみると、車内でしゃべっている高校生なども皆鼻が高く整形してるように見えてしまう。
話は変わって岡垣町の金比羅山のことになります。町長はその両側の長い石段に千本桜を植えて美しくしようと言い、古来から生えていた桜の木を全部切ってしまいました。植樹祭をイベントをもうけて地元の住人や小学生などに植えさせ、苗に名札付けさせました。その後は手入れは業者に任せていました。先日散歩がてら、見に行ってみると苗のまわりの草が黒ずんで枯れているのです。除草剤をまいたな、と考え町の建設課に行って問いただすと、除草剤はまいたけどあれは30分もすると大気中に拡散して消えてしまう、と言うのです。
私は唖然としました。大気中に混じった成分は雨になって地上にもどり、地中に吸い込まれるではないか!と反論しましたが職員は黙っていました。彼の胸のワッペンには次のように書いてありました。(自然と人のハーモニー)と。
田舎に住みながら、自然が消えていっているにが目に見えてわかります。川にいたアメンボ、ヤゴ、ドンポが消え、田んぼからはゲンゴロウ、エビ、タニシが消え、自宅の庭にいた鳥、ミミズ、カミキリムシ、トンボなども見かけなくなりました。かれらは私たちの仲間、友達でもあったのですが消えて寂しいかぎりです。
人間たちが顔の化粧に夢中になっている間、自然は破壊されて醜くなり、死に絶えていくのです。顔の化粧が落ちる時、皮膚の下から現われる青ずみやケロイドは見るに耐えないでしょうし、そのうちに顔も溶けて消えいく運命なのです。
心の化粧とはなんでしょうか?金持ち喧嘩せず、という言葉があるように経済的に余裕のある人は自然な化粧が顔に現われてきます。金がない、職がない、女がいない、住む家がない、病気持ちで辛い、と言った時に笑顔を見せることの出来る人がいればそれは心の化粧というレベルではなく(真顔の美しさ)といえます。そんな境地まで行けずともせめて人と顔を合わせる時は自然な笑顔をみせて心の化粧をしていたいものです。