ブログ - 日記カテゴリのエントリ
以前から不思議に考えていたのは本の値段についてです。本は芸術品でもある、と考えていますが絵画、骨董、書、映画、演劇などと比較して値段のつけ方が変であり、それが作家の成長あるいは良い作品を産むことへの障害になっていると考えます。印刷して大量生産できることが作品の本来の価値を下げているのです。骨董品や絵画であればコピーは出来ませんから、一作品あたり何千万円という値段がついたりしますが本の場合はそんなことはありません。カミュの「異邦人」が文庫本で300円であれば無名で売れない作家の文庫本もおなじサイズとページ数であれば300円なのです。作品の価値も同じかといえば段違いなのです。ブック・オフなどの古本屋に行ってみればよくわかります。作家別に文庫本が並べてありますが、売れ残りばかりですが、無名作家の作品が圧倒的に多くならんでいるのです。一度も名前を耳にしたことのない作家もいてその数におどろきます。
わたしは近作の小説はほとんど読みません。どんな有名作家の作品もそうなのですがページ数ばかりやたら多くて、読み始めてテーマに入るところまで意欲が届かず、挫折してしまうのです。歳をとってエネルギーがなくなったかもしれませんが、ともかく不必要な文章・場面が多すぎるし、書き方が警察物などはマニュアル化していて印象に残る人物や出来事が出てこないのです。文学賞をとった作品もそうです。今の時代は作品の実力より、知名度、宣伝力なのです。
出版社側は作品のページ数、どんな内容か、作家は誰か、値段はいくらにするかなど当然商業主義をベースにしています。大量生産・大量消費です。ページ数が多いと値段を高く出来ると考え、作家もそのように考え従います。だから良い作品を書くことより、大量の文章が頭にあり、それを気にしているのです。
わたしは「異邦人」が文庫本で三千円で売られていても買います。コンサートやイベントの入場料が数万円であっても買う人と同じ気持ちです。本の世界にもそういう考え方があっても良いはずです。そうすれば作家も時間をかけて良い作品を書こうと考えるし、出版社側もそうなっていくはずです。
イスラムのテロ組織がフランス新聞社を襲撃して社員を殺害し、フランスでは大規模な抗議行動が起こっている。日本の新聞はそれを民主主義対テロ組織の構図で捕らえているがこれはキリスト教国側に肩を持った報道の仕方である。この対立はイスラム教対キリスト教であり、どちらも強固な一神教で他教の存在を許さないものである。イスラム国側にとってはグローバリニズムのもとに欧米の資本が石油を狙って侵略し文化や資本主義、民主主義(金権主義)、宗教で乗っ取ろうとしていることへの対抗措置である。日本の歴史を見ればペリーの来航によって大砲を打ち込み開国を迫った被害経験がある。日本人は生麦事件などおこして欧米人を切り殺している。国家主義・宗教主義の台頭である。
キリスト教側は世界を制覇しているから構えが緩やかであるがそれに反撃する少数派は過激にならざるをえない。キリスト教側は産まれた時から洗礼をさせ、教育、文化、思想、政治などすべての分野にしっかり根を下ろしているからそのシステム通りにまかせておけば布教できるのである。彼らが十字軍を例にとればわかるようにいかに残虐非道のもとに世界制覇を成し遂げていったかは歴史をみればよくわかる。
テロが酷い、という視点からではこの問題は解決しない。イスラム国を建設するのだろうからかれらなりのやり方にまかせてどんな国が出来るのか静観しし、出来上がった国と交渉をすれば良いのであるが、石油というグローバリニズム(世界資本主義)の生命線が絡んでいるから簡単にはいかない。
アメリカはイラクに侵入し、フセインを暗殺し、ビンラディンに懸賞金をかけて殺した。つぎは北朝鮮の金に懸賞金をかけて殺すだろう。理由はアメリカにサーバー攻撃をしかけて破壊しようとしたからである。明確な動機、正当化は出来上がっている。いつものアメリカのやり方で攻撃を仕掛けさせて、攻撃し息の根を止める。日本の真珠湾攻撃に始まる開戦もこのマニュアルに沿っているし、アメリカの世界侵略の歴史は兄弟国であるイギリスをもはるかにしのいでおり、グローバリニズムの美名のもとに世界帝国を築きはじめている。破壊したあとは復興援助の名のもとにその国にはいり、政治体制を民主主義(民主独裁主義)に変えて政権の中に入り込み、経済援助、武器輸出の名のもとに搾取していく。日本も出兵してその一旦を担わされることになる。
イスラム国はそれに対抗することで領土を広げ、オスマントルコ時代までの領地を取り込もうとしている。アメリカの良い敵ができたし、この国はいつも敵を持つことで元気になり発展してきた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イランイラク戦争などまさに(戦争屋)なのである。ドイツは海外支援という名のもとにこの紛争地域に武器輸出することを決めた。死の商人、であり双方の対立集団に輸出すれば莫大な利益になり、兵器産業、重工業がうるおい、次に復興需要を待っていれば良い。
世界史年表をみればわかるように世界で戦争がなかった時代はない。災害がなかった時代もない。戦争、災害、暴力、破壊行為が絶えず起こり(自然界での火山噴火、地震、津波と同じように)、資本主義は復興援助の名のもとに、谷深ければ山高し、の言葉にあるように発展し、全滅に向かって進んでいる。
戦争はしてはいけないし、好きではないが、戦争はなくならないことを前提にして国策を進めていかねばならない。自然界の食物連鎖の中で人間は天敵をもたず人口抑制ができないから戦争が起こるのである。皮肉なことにすべての国が核を保有すれば戦争はなくなるかもしれない。
街をバイクで通っても脚で歩いてみても正月らしい雰囲気がない。まったくというほど無いのである。飾りつけや看板やネオンにないというわけでもなく、夜のイルミネーションだけは人工的に鮮やかである。人の姿はあっても人声が絶えているのである。喜び、笑い、わめき声、怒鳴り声、叫び、すすり泣き、騒ぎ声がないのである。まさに感情をなくした時代と言うしかない。
人間の感情は生きてることの証明である。それがないということは生きながら死んでるということである。わたしは灰汁の強い男と言われたように感情の激しい男で、それで嫌われたり失敗したりしたことはたくさんある。今日も山道を一人散歩しながら、親友のことを思い出しては泣き、(早春慕情)の曲を口ずさんではまた泣いた。この歳になって恥も外聞もなく自分の感情をおもいきり発散してやろうと考え、感情こそもっとも大事にすべきものだと考えた。そこからいろんな考えや着想が湧き、仕事や人間関係や趣味や芸術に通じていくのだ。
笑うことも泣くこともない人生に何の意味があるのか!生きてる意味がない。
親友からの年賀状に、(車椅子の生活になりました)と書いてあって、おどろいた。電話をいれるとバイクにのって集金してる時に乗用車と正面衝突した、腰を骨折し、入院し、破片になった骨を集めて固めているという。言葉が出なかった。67歳でまだ現役で働き、私同様、女好きでガールハントもしていた。まっすぐな男で会社の上司ともよく喧嘩をした彼が、立ち上がることも歩くことも出来なくなるなんて、ただ涙しかない。見舞いに行くが、彼の顔をまともに見れるか心配である。
昨年の12月末に原田可菜人氏を訪問した。宗像市の田舎で古民家を再生し、(種紡ぎ村)として村つくりをしている人で、(レア仲間)の一人である。一年前に古民家を料理屋として開店したが、集客がうまくできず、赤字、赤字と嘆いておられた。
店に入ると、彼はマキストーブに薪を入れてくれたが排気がうまくいかず、煙が天井を這っていた。2年間もかけて椅子、テーブル、棚、囲炉裏、トイレを一人でつくり、金もかかったのに排気のことに気づかなかった。設備をすれば100万円はかかるという。
彼は半年前に童話「人間この最低の生き物」を自費出版した。副題にーそれは私です。あなたです。?と書いてある。ータイトルがひどすぎるんじゃない。エッセイならともかく子供に読ませる童話でしょう?親が買いますか?とわたしは言ったが彼は黙っていた。?すでに一千部が売れた。ーと彼は言い返した。わたしは自分がすごい変わり者(レア)であることは十分すぎるほど自覚しているがそれに負けず劣らない姿勢に言葉がなかった。自費出版に200万円はかかってるはずである。今年の西日本新聞に彼のことが紹介されるという。民放テレビが放映を頼みにきたが彼の趣旨は入れないというので断ったという。かれの姿勢は立派だと思う。客商売か、自分の生き方を貫くのかのせめぎあいの中でビジネスをやるのはむずかしいだろうが、他人の児でも我が子として育てよう、という考えには大いに同意できるし、応援もしたい。
彼に引き換え周りを見回すと、人の顔、社会の変わりように気味が悪くなる。子供の騒ぎ声、泣き声、はしゃぎ声を聞かなくなった。感情を出すのは悪いことという風潮になれば生きてる表情もなくなってしまうのは当然である。
わたしは逆の生き方を目指している。会社をやめ、家庭もなく、これまで抑制された自分自身を発揮するのだ。作詞した(ふるさと岡垣)を歌い、ユーチューブに出すであろう。濃い茶色のツナギ服の背中、そこに組んだ鉄輪を刺繍し、レア仲間のタイトルを出して世界に向かって歌うであろう。
ガラパゴス村は二つの大都市の中間に位置していて、ベットタウンに近い町であったり、そこからすごく飛び離れたへき地であったりする。秘境の地、と呼ばれることもあるが、概して古参住民は新移住者たちを(よそ者)と陰口して排除する傾向があり、すでに社会には存在しないような旧種族たちがオオトカゲのように山の中を歩き、開発などと称して植物を食い荒らし破壊している。除草剤などを平気で撒き散らして町がきれいになったといって喜び、町役場は人件費が少なくてすんだと同類たちは評価しあっている。
町議会は代官所であり、住民の皆さんのご理解とご協力をお願いします、と町長が顔写真(創価学会の会長のようにいつも広報誌に顔を出す)入りで訴えながら、傍聴席で納税者が私語をしようものなら退場させて独裁体制をとっている。議員の中には議員歴が二十年の者がいて新入り議員を指導し、政治的発言はせずに町長のいうことを聞くように脅している。
町民はカラオケ、ゲートボール、老人会、官製イベントが大好きで、ボランティア活動をはじめ様々な行事、同好会に集まるがそこでの人間関係は日本の開国以前のものでガラパゴス諸島に残っている遺物である。カラオケ教室などにいきなり入会してみたりすると、あの人が入会したためにレッスンが一回しか受けられなくなったとか歌が下手なので調子が狂うなど陰口を叩かれて追い出されることだってある。男と女の関係は主婦老婆たちの大好きな噂話になっていて、神社の神主には女がいて隣町のだれだれだとか、現町議の・・は前町長の隠し子だとか、その妾は・・だとか下半身世界は熱く燃え上がっている。老人会などの団体は町の日頃の買収活動(補助金を出すなど)が功をそうして、町長や役場にはお世話になっていると考え、票を売ることになる。
この町の駅前をみればよくわかる。タクシー乗り場、バス乗り場、駐車場、情報プラザなど利便性ばかりが優先され、喫茶店もなければ食堂もなく、遠来の人が一休みするところが一箇所もないのである。これでも町長は転入者を増やして固定資産税の収入を増やしたい、だから駅南に改札口を設け、道路も通すと言い、線路の下を掘って通路をつくっている。22億円の金を町民からぶんどっている。町長、町議、町職員たちはガラパゴス村から出て外界で生活したことのない者ばかりで自分達が旧人類だということをまったく知らず、高給さえもらってれば歯車作業(システム通りに動く)でもなんでもやるのである。
ここで商売を始めると絶対に失敗するという点では、折り紙つきの町である。一ヶ月前にこの町のメインストリートというべき旧商店街の交差点にから揚げ屋が開店したが、ほとんどの通行人はそこに客がはいっているのをみたことがなく、閉店のカウントダウンが始まっている。二十年前には(寿屋)という大手スーパーがあったが十年ともたなかった。不良品を返品しに持っていくと、わたしに免じてゆるしてください、と店員は頭を下げ、公私の区別が出来ないのであった。ボッタクリ・スナックもあります。一万円札や五千円札を出さないようにしてください。出してしまうと、(大盤振る舞い!)とママが言ってお釣りを返さないことがあります。
さて、今年も残り少なくなりましたが、来年もこのガラパゴス村で生活し、住民と役場の実態調査をつづけますのでよろしくお願いします。
わたしは心臓のバイパス手術をし、身障者の認定の申請をし、(身障者の会)にも加入しています。同時に数年前から障害者への視点が変わってきました。同情とか蔑視ではなく一つの個性、キャラとして見、接するのです。社会福祉の充実や人権擁護活動により障害者を差別的に見る者も少なくなりました。昔、社会福祉制度がない頃は障害者達は家の中に閉じ込められたり、路上で物乞いをしたり、見世物小屋で自分を晒して金を得、生活していましたが今はそんなことはありません。
奇形顔の女の人にも出会いました。誰もいないのに空に向かって笑う若者、飛び跳ねるようにして歩く男、などさまざまなレア(希少)な人と知り合いになりました。車椅子にのった人などはすでに一般的になってしまったので希少性はありません。希少性の中にこそ芸術やアートの種は潜んでるわけですからわたしは宝の山に出合ったようなものです。奇形顔の女の人は強烈な効果をわたしに与えています。その印象、イメージからさまざまな文章が生まれ、絵へのイメージも膨らんでいます。
自分もふくめてたくさんの障害者、いろんな障害者が登場する作品はまだありませんが、すべての登場人物が障害者である作品を書いてみたいものです。
老人は歳をとり、未来が短くなってくる。逆に過去が長くなってくる。過去の精神的財産を食べながら余命を過ごしていく。そんな実感が湧いてきた。その中に(お医者さんごっこ)という宝があったことを思い出した。この言葉を知っている団塊世代も数が減っていってるわけだから、レア(希少性)を持つことになる。
あの頃、小学校に通い始める前の時代のことであった。当時、住んでいた家は5,6軒の家に囲まれ、同世代の子供達がいた。親は仕事にでかけていない。ぼくたち、近所友達は集まってパッチンやビー玉遊び、釘うち、駒回しなどをして遊んだ。雨の日などは相手の家に遊びに行った。鬼ごっこをして、押入れに隠れた。日頃親しい女の子と二人で押入れに入り、いつの間にか抱き合っていたりした。どこでおぼえたのかわからないが、たぶん父母の性交現場を見たにちがいないが女の子のパンツを脱がせ、自分もパンツを脱いで性交のまねごとをしたのだ。女の子の胸や性器をいじったりした。
それを(お医者さんごっこ)と言って、時々相手を変えてやったことがあった。今では考えられないことだが、乱交にちかいことまでやった記憶がある。夢の中ででも良いからもう一度やってみたい。
午前四時に目が覚めた。布団から起き上がって、石油ストーブに点火し、パソコンを立ち上げ、小説の続きを打ち始めた。一時間ほどで厭き、また布団の中に潜り込んだ。眠れそうで眠れず、布団の中から出、壁の掛け時計を見上げた。いつものようにコツコツと時を打ち、秒針はいつもの速度で回っている。
午前七時であった。
どうしたんだ?これから一日をどう過ごすんだ?土曜日だから株式市場は休みだし、カラオケ会もカラオケ教室も休みだし、曇り空の下で野菜に肥料をやる気にもならない、町営の銭湯に行くのもおっくうだ。こんな部屋にこもってるのもうんざりだ。どうするんだ?
おまえは時間というヤツだよな。生まれてから一秒も休まずおれといっしょに過ごし、また監視もしてたんだよな。まだおれに付きまとってるのか?いい加減こんなおれから離れ、オサラバしても良いんじゃないか?
そういうおまえは昨日計画していた今日の予定をすっかり忘れ、忘れていることさえ気づかないじゃないか?午前七時にいつものコースを一時間半ほど散歩して、十時に文房具屋に行って画用紙と鉛筆を買い、帰宅して昼食を食べ、十二時半に家を出て、一時から絵画教室に行き、入会手続きをしてデッサンに取り組む予定じゃないか。
わたしは厚地のカッパを着て、外に出て散歩し、この原稿を思いついて書いた。さて、画用紙と鉛筆を買いに出かけようか。
朝、目覚めてもなにをするのかわからなくなった時、布団の中に入ったままになった時、時間はわたしから離別し、わたしは時間を失う。そうだ、時間はわたしの育ての親であった。産まれた時からわたしに付き添い、片時も目を離さず、勉強にがんばり、恋をし、泣き、笑い、働き、そして最後は死を見守ってくれるのである、壁の掛け時計のように。
5年ほど前、博多の焼き鳥屋で仕事仲間と呑んでいたことがあります。酔っぱらって良い機嫌になって、トイレに行こうと立ち上がった時、隣の席にいた若い女が話しかけてきました。(さっきから聞いていると厭らしいエッチな話ばかりしてますね。不愉快だからこんな所では止めてください)と言うのです。わたしは唖然として言葉が出ず、(そんな話をしてどこが悪いのか!そんな話をするためにココに来てるんじゃないか!)と普通であれば言い返すのですがトラブルになって、NHKという会社の名前が出るのを恐れて黙っていました。
そこで考えるのです。わたしが若い頃は酔っぱらった時には必ず女の話をし、それが当たり前だったのです。どんなふうにしてくどいて落とした(自分のものにする)とか何人の女とやったとかそれは賑やかなものでした。ところが近頃では草食系だとかセックスをしないカップルなどが増え、上記のようなことが起こるのです。
猥褻とは何か?いつから発生したのかを考えました。若い頃に読んだフーコーの(性の歴史)のページを開いてみました。資本主意の発達から猥褻の観念が国家権力によって作られた、と書いてあり目からウロコが落ちました。やはりそうであった。日本文学においても性を取り上げ、問題にするのは近代文学からです。男女の関係を取り上げたのは中世からありますが、大らかな視点からであってエロイとか官能的という視点はありません。
国家権力がタブー視し、規制したのです。刑法の中の(猥褻物陳列罪)なんかが良い例です。
なぜでしょうか?今もしそのことを問えば、みっともなくて人に迷惑を与えるから、と答えるでしょう。繁殖に大事な性器がみっともないのでしょうか?なぜみっともないものとしてみるようになったのか?麻薬がなぜいけないの?と問えば健康に悪いからと答えるでしょう。詭弁なのです。性や麻薬使用に自由を与えると国民が」働かなくなり、資本主義(一生懸命働くことがモットー)に反するからです。権力が(セックスはいけないこと)と規制したがためにそれを破ることの危機感・快感が猥褻感、官能を産むことになり、皮肉な結果になっています。ただ、性産業など資本主義の一環をになうものにはOKを出します。酒やタバコなどの場合にはそのために殺人事件に発展することはありませんが、性の場合にはそれがありえる恐い深さがあるのです。性の世界も性行為そのものや色気、チラリズムなどが商品化され、資本主義の食い物にされていくばかりで、真面目に取り上げることはありません。
一婦一夫制度はなぜあるのでしょうか?一夫多妻になると課税対象が減り、一婦一夫制度のほうがたくさんの税金がとれるからです。すべての判断は資本主義・民主主義に沿ってるものなのかどうかで判断されます。