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ブログ - 日記カテゴリのエントリ

歳の瀬

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-12-11 7:46

  アルバイトの休みが一週間あったので、昨日は畑仕事をした。植えたばかりの玉ねぎのまわりにびっしりはえた草をとり、ジャガイモの跡を耕して、石灰、牛糞、化成肥料をまいて、ニンニクを植えた。ニンニクは三百個ほど植えたことになるが、育てやすいので後は生育を待つばかりである。

 三日前、の出来事を思い出していた。買い物籠の整理のバイトをしている時であった。

 スーパーの玄関近くの通路を歩いていると、女が正面から自分を見つめていた。

 わたしは左目の半分が見えないので、目を凝らして近づくと、K子であった。いつもは目の上下がたるんでいるのにすっきりした顔であったので、別人かと思っていた。

 「あれから、いつかまた出会うと思っていたけど、会わなかったね。もう一か月はたつね?」

 一か月くらい前に四年ぶりにそのスーパーで出くわしたのであった。

 「それ以上よ。じつはカレにあなたに会ったことをしゃべると、絶対に行くな!と言われてたのよ」

 彼女は膝が悪いので、カートに両腕をかけたまま笑顔を見せた。

 どんなことでもしゃべる女であるから、自分のことを変わり者、スケベ、ケチ、屁理屈屋と際限なくしゃべったのである。彼女が自分と付き合っていた頃、昔のオトコのことをしゃべったように。

 女の表情はすごく変わるな?と考えながら、K子の顔に見とれ、もう一度付き合いたくなった。

 勤務中であったので、「今度、電話していい?」と訊くと、うれしそうに「だめよ!」とこたえ、自分は仕事に戻った。

  そこで体の不自由な男性客を見つけた。手洗いの消毒液が足踏み式に変わっていたので、教え、手で押してやると、彼はそれで消毒した。買い物を終えた彼が、段差のある玄関前に出ようとしたので食材の入った袋を手でもってやった。

 「大変ですね。脳梗塞にでもかかられたのですか?」

 「はい」

 「わたしも十年前に心筋梗塞にかかり、手術で治りましたが・・」

 彼はあまりしゃべらなかったが、「今、施設に入っていますが、こうして外に出て人としゃべると元気がでますね」とこたえ、彼をタクシー乗り場のベンチまで連れて行った。

 それから駐車場を見て回り、置かれていたカートを十台ほど集め、玄関口に引っ張って行った。

 玄関口は少し、傾斜があって、カートは動かなくなってしまった。そこで思い切り、力を入れて引っ張り上げていると、そこのタクシー乗り場のベンチに座っていたK子が、「ほらー、頑張れ!」と黄色い声を出してくれたのであった。

 さて、来年もコロナが人類に試練を与えてくれるであろうが、お互いに声を掛け合いながら生きて行けば怖いものは無いのである。

 

ミステリーコロナで迎える歳の瀬や

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-12-9 7:27

  医療崩壊が現実に起こって、大阪府や北海道が救助のために自衛隊を呼んだ。そうかと思うと、コロナのワクチンの接種がイギリスで始まった。または、皆がすでに感染してると考えて慎重に行動するように、という医学・権威者がコメントを出した・・。テレビを見、新聞を読むと、すでに全員が感染していて陽性者は潜伏期間を終えた者なのか?自分ももしかすると感染してるのかもしれない?などと、追い詰められて不安になり、すごく動揺してしまう。

 二週間もすればジングルベルの音楽が流れ、年の瀬になるというのに、このパニック感とあわただしさには恐怖に追い立てられるだけである。殺人者が刻々と身に迫ってきている。まるで、コロナ.ミステリーの渦中に置かれたようで、その他群衆として登場しているわたしたちはいつ犠牲者になるか?明日は我が身なのである!。大気の中にコロナ菌が漂っているとなると、防御はできないし、いつ誰が感染してもおかしくないのである。ミステリー小説が現実になった・・!。

 コロナの気持ちを想像してみると、自分達が生きていくためだけなのに、人類にとっては攻撃され、絶滅させられる恐怖に変わってしまう。逆に、人類の気持ちは、自分達が安心・安全の中で生きていきたい、というだけだったのにそれが自然破壊になり、コロナを自然界から人の世に追い出したことになってしまった。

 まるで、聖書の中で、その物語のように、世の中が進んでいるように思える。創世記の始めには、神は人類の繁栄を約束して、平和な生活と永遠の生命を与えた。それなのに、最初の人類であるアダムとイブが禁断の木の実を食べて約束を破ってしまった。そのために、神は罰を与え、蛇のように地面を這いつくばる生き方を与えた、と書いてある。

 次にはノアの洪水が起こり、箱舟に残った者だけが助かった。その前には、ソドムとゴモラの都市が快楽と淫行にふけったために神に滅ぼされたのであった。

 聖書の中では、自然を大事にし共存していくようにとは書いていないが、人間がそのようにしなかったので神は罰を与え、コロナを神の御使い(使者)として登場させたのではないか?とわたしは考える。

 人類は恐怖を与えられ、そのあげく、自然保護の動きがやっと出て来た。地球温暖化防止、脱酸素社会など、今頃になって取り組み始めたのである。この流れを考えれば、人類が罪を改め、コロナが森に戻ってくれれば収まるわけであるが、それにしても大き過ぎる試練を与えられた時代である。

女の特権。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-12-7 10:19

  昭和22年生まれのわたしにとって、近頃の世の中の動向には理解できにくいことが多くなった。特に女性活動家と呼ばれる方々の、性に対する方向性が偏向していて、不自然に思われる。確かに男は女に対して暴力をはじめ、差別もして、ひどいことをやってきたことは知っているし、私もその点で自省することは多いことは認める。

 最近、気になることは性差・色気にからむ分野であり、そこが攻撃され排斥される風潮になってしまっている。四十年ほど前であれば、シミチョロ(スカートの裾から、シュミーズのレース状の裾がはみ出る光景)がよく見られ、数年前まではそれをファツションとして取り入れた時期もあったが、近頃はストリップさえも女性を性の道具として利用にしているのはおかしいという意見が出はじめている。

 十年前にはへそ出しルックというのもあり、ジーパンの腰からお尻がはみ出るような肉体を見せつけられて大いに楽しませてもらったのだが、その視線さえ、視姦であり犯罪的に捉えられそうである。スケッベタらしい目をしてるとよく言われるわたしは肩身が狭い。

 刑法においては、猥褻とはいたずらに性欲を刺激するこだと定義されている。だが、それは微妙な見解があり、つきつめれば最終的には人間の性欲を否定するのか?ということになるので、官憲もそこまでは踏み込めないようである。

 数十年前までは、女性は誇らしげに性を表現していたし、男もそれに色気を感じ、世の中はエネルギーが満ちていたが、それを否定されるとなると世の中はコロナ事変もからんで委縮するばかりである。女性活動家の方々が、性を女の特権とみなして意見を述べてもらうようになればもっと明るくなると思う。わたしは身体障碍者であるが、税金や交通費やいろんな点で恩恵を受けているし、劣等感ではなく優遇措置として考えるようになった。劣っていることが逆に強みになる時代でもあるので、従来の考え方にとらわれる必要はないのである。

指標の罠

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-12-2 7:20

  昨日はスーパー・マーケットで、買い物かごの整理のバイトをしてきた。16時から19時までで、週に二日であるが、それでも店の一員として働いたことになる。モール式のスーパーなので、本屋さん、靴屋さん、洋服屋さん、カラオケ店、雑貨店などがあって、商店街を集めたような雰囲気があり、日に数千人の来客がある。

 お客さんの顔やおしゃべり、服装などを見るのも楽しく、いらっしゃいませ、といえば、今日は、と返してくれることもある。子供連れの場合は子供の顔を見るのも楽しく、一時はコロナで沈んでいた大人の顔も新年を前にしてだいぶ明るんできて、売り場には新年のお飾りも並べ始められている。

 やっと歩き始めるようになった幼児たちは棚のクッキーを珍し気に触ったり、飛び跳ねたり、かくれんぼをしたり大喜びで、大人たちも食べ物を手にすることを楽しみ、帰宅後に食べることに夢を膨らませているのがわかる。ここに人間の生活がある。

 帰宅して、夕食を終え、布団に入っていると、ラジオからニュースが流れて来た。経済開発機構・OECDが来年の末にはコロナは終息し、世界のGNPは伸び、景気は持ち直すであろうと予測していた。日本や中国、韓国のGNPの予想値を具体的に出していた。

 これは一見いいことのように聞こえるが違うジャンルを、はずしている。食料自給率はどうなのか?森林破壊の数値はどうなのか?炭酸ガス排出量はどうなのか?など、GNP以上に大事な数値である。わたしたちはこれまで、(指標の罠)にどれだけはまりだまされてきたか?歩き始めた幼児から小学校に入るにつれて、成績の数字、偏差値、いや、それ以外、日常生活において入り込んだ数値に振り回されてきた。・・その挙句がコロナであった。

 昨日、あれから、買い物かごの整理をしていると、帰りがけの親子連れが目の前を歩いていた。二人の幼児はわたしの顔を振り向いて見ながら、ばいばい、と手を振り、アイスクリームの棒を握ったまま、走って玄関に行ったが、この張り切った表情は、数値には出ないものなのである。

 指標の数値を見る時には、ちがう分野のことの考えなければならない。

体罰

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-21 22:10

  昭和29年、わたしが小学校二年生の時であった。

 地域の集会があり、わたしの教室は他のクラスの生徒に使われた。私たちは別の教室に行って、そこで地域の集会をやったようであった。

 記憶には少し曖昧な部分があるが、それから先のことは鮮明に、ほぼ昨日の出来事のようによみがえってくる。担任の先生は本田といい、戦争jから引き揚げて来たばかりで精悍な顔をしていた。サッカーが得意で、黒のジャージーを着て、すばしこく元気いっぱいであった。

 「お前ら!臭いち言うたな!廊下に並べ!」

 その声に私たちは廊下に整列した。

 地域の集会が終わり、それぞれが教室に戻った時であった。

 何かが起こる予感はあったが、四十人ほどの生徒の一番端から皮膚を叩く鋭い音が響き、近づいてきた。ビンタだとわかった。

 あっという間に、頬が痛み、焼け付いた。過ぎ去った。

 全員が叩かれ終わると、席について授業が始まった。

 (臭いち言うたな!)

 その言葉を思い出して、おれは言ってない、と考え、・・の施設の生徒の座った跡であるから、塩っ辛く臭い臭いが残っていたのだとわかった。その施設は戦争孤児が多く、黒い顔の子供、顔は黒く頭髪は金髪という子供がいて、汚れた服をいつも着ていて特殊な印象があったのである。当時は差別が問題にされない時代であったが、子供心に良くない、弱いものを苛めることは良くないことだとわかっていた。

 本田先生が叩いた意味はやがてわかった。自分は臭いとは言わなかったが心の中で思ったことは間違いなかったのである。

 およそ60年前の出来事を思い返しながら、今の時代の視点と比較し、考え込んでしまう。まず、(差別)の問題である。顔の色が黒い、というのは顔色の相違点を表現してるだけであるが、そこに優劣の意識が入った場合、差別になるから問題になるのであり、公言することによって拡散させてしまう怖さがある。差別された者の心の痛みは加害者にはわからない。

 顔色の違いで人の優劣はわかりはしない、と賢明な者は理解してスルーしてしまうが拘る者がいるから始末が悪い。アメリカの黒人差別問題はもっと根が深く、解決できそうもない。

 次に、(体罰)の問題である。わたしは自分が叩かれたことによって、差別をしていることに目覚めたのであった。叩かれなければ目覚めていなかったかもしれない。

 現代の体罰は骨折させたりして、体罰の域をはるかに超えている。罰せられて当然である。加害者はその前に暴力をふるうことがどんなことであるかしるべきである。自分は空手で、一撃必殺を学んだ者であるから、もし、相手を殴る場合は殺してしまうことを覚悟している。だから、暴力は絶対に振るわないし、振るう時は自分を殺すことだと理解している。

 

田舎暮らし

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-20 21:44

  町内の大手スーパーマーケットで、買い物籠の整理の仕事を始めて二か月がたつ。やっと慣れて、仕事の流れが身についてきたが、不思議な体験に、考えることがあった。

 まず、先輩から、暇なときは、そこの客室の隅で休んでいればいい、と言われ、彼自身は暇な時、そこでスマフォでゲームをやっていた。その言葉に従って、暇なときにATMのそばで座って休んでいた。

 「こんな所でそんなことしてたら、いつまでも終らせんばい!」と話しをしたこともない制服警備員が叫び、言い返そうとしたら外の駐車場に出ていった。おまえの仕事と何の関係があるんか!と言い返すつもりであった。すると次に出会った時、彼は駐車場に置かれていたカートを室内に押して来た。お礼を言うと、あそこは見落としやすい所なんだ、と言い、手伝ってくれていたのであった。が、不思議に思った。どの世界でも他人の仕事に手を出すことはよほどの場合でない限り、タブーであるが、そこでは、掃除におばちゃんが放置されたカートを頼みもしないのに押して来てくれたり、店長や社員などもそのようにしていることがわかった。

 同じ店の中での仕事であるからそんなことは通用するのかな?と考えていた。だがもし、駐車場のカートを警備員が押していて、ベンツを擦ったりしたら、責任はどうなるのか?など考えると、他の部署の仕事を手伝うのは良いことではない、と思い返した。

 だが、他方、手伝ったり、助けあったりすることは良いことではないか?昔の日本人は他人の子供を自分の子供と同じように育てたり、損得勘定なしの善行をしていたではないか?それが共同体を支えていたではないか?と思った。今では互いの見守りがなくなり、子供や妻の虐待が増えている。

 前に進むことばかり考えていて、コロナがやってきた。

 コロナ事変を機会に、温故知新、を見直すべきである。

黒ダイヤ母に抱かれし赤子の目

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-13 21:02

  独り暮らしをしていても、ほぼ毎日、食材の買い出しに出かける。それだけ食べていることは健康な証拠だと思うが、献立に迷うことがある。今日は、ススキの冷凍が残っていたので、鶏肉を買い、(鍋)にしようと考えていた。その残りの汁にうどんや餅を入れれば数日は献立を考えなくてもいい。

 いつもの安売りスーパーに行って、白菜、豆腐、コンニャク、鶏肉を買い、レジで計算をしてもらった。係の女は黒のツナギを着たいつもの老人を憶えているようであったので、今日は安売り品じゃなくて、定額よ、と言ってやろうと考えながら、金を払った。

 台に持って行って、ビニール袋に詰めていた。何気なく、となりで同じことをしている若い女に横目が向いた。人間の形をした小さな像が彼女と向き合い、一心に拝むように見つめていた。赤ん坊であったが、すごく小さく痩せていた。それでも目鼻立ちはしっかりしていて、まじかに迫った母親の顔を一心に見つめている。あまり見かけない体勢なので少し驚くと、若い母親は紐でしばって赤子を抱き、両手で食材を詰めながら、赤子と向き合っていたのであった。可愛いですね!と言葉を出そうとして、心の中に留めていると母親から私の気持ちを計るような気配が伝わって来た。

 そこで、(句)を考えていた。

 ダイヤのような赤子の目、・・黒ダイヤだと家に帰りついて思い浮かんだ。

 あの赤子の黒目、それはまさに祈りの中にいる目であった。頼りは目の前にいる母親しかないことを幼いながら知っているにちがいない。幼少時の頃、自分はあんな目で母を見ていたに違いない。赤子にとって母親は神に近い存在であり、自分のように老いても同じ気持ちをもっているのである。

 若い女性の自殺が増えている。このコロナ禍において子供を育てることは冒険に近い覚悟がいる。自分は、迎えを待つ身であるがあの児には未来が待っているのである。どうか、元気の育って欲しいと、心から思った。

目覚めてもまた抱く布団母の胸

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-13 7:56

  七十三歳になって、余命をあと十年だと考えることがある。あの世に逝った父母のことを想うが、父ではなく母のことがほとんどである。

 自分にとって母は特別な存在であり、今でも愛着、畏怖、不可解が残り、重すぎる存在でもある。幼少時に母に抱かれた記憶がない、と考えていたら、その頃の写真を取り出してみると、抱かれた写真があった。母の膝に抱かれているが、なんと元気のない栄養失調の青白い顔である。戦後間もなく、食料がなく、母の母乳が出ず、脱脂粉乳で育てられたのである。

 その頃、母は自分を独り、家に放置して出かけた。残された自分は這い這いをしながら、玄関間に行き、痛みがまた来ると思いながら土間に落ちた。庭まで這い出し、母を追って泣き叫んだ・・、それからどうしたか憶えていない。

 小学校に入ると母は受験勉強に追い立て、国立大付属中学校に入学(無理やり)させた。友達をつくることも勉強の邪魔だといい、受験奴隷にしたが、一流大学には入れず、最終的にはNHKの集金人になった。それを終えて、現在は年金生活の貧乏暮らしである。

 老後になって、母は子供を育てる自信がなくなった、と言いながら、それでも父の多額の借金を返し、三人の子供を育て上げ、良い家を建てて、財産を残した。

 自分が大学は卒業したが、定職にはつかず、帰郷した時のことであった。母は体調が悪くて、ベットで寝ていた。母のそばに立って、就職の話をしていたと思う。寒い冬で脚に畳の冷たさが張り付いていた。

 (そんな所に立っといたら寒かろう?こっちに入らんね・・)

 母は言い、自分は驚き、黙り込んで、去ったのであった。

 母は布団をめくりかけて自分中にいれようとしたのであった。

 ショッキングな言葉と光景は一生、心から離れはしない。

経済至上主義の破綻。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2020-11-5 22:26

  今回のコロナ禍をどのようにとらえるか?という重大局面に出くわしているのに、有識者も知名人も哲学者たちも確固とした反応を示しきれていない。政治家たちさえ、トランプとバイデンの争いになっているがどちらが当選しても経済至上主義の流れが変わるはずはなく、時代は相変わらず、モグラ叩きを飽くことなく繰り返し、マスコミはお祭り騒ぎで儲けるでろう。こちらのモグラを叩けば、あちらからモグラが顔を出すのである。

 スーパーマーケットの買い物籠の整理を週に二日ほどやっている。お客さんたちにいらっしゃいませ、ありがとうございます、と声をかけながら立ち動いていると彼らの表情に気持ちが見えてくる。ありがとう、と優しく声をかけてくれる老婦人が多く、気持ちがなごむが、男たちの鬱目ばかりが目に付いてしまう。大赤字の店ということもあって店長や次長には笑顔がなく、意地の悪い態度が垣間見える時がある。

 アメリカでは、トランプとバイデンの争いが支持者たちの内乱にまで発展しそうな雰囲気である。そこにあるものを感じる。英雄、スーパースターを私たちは待っているのである。この耐え難い鬱を叩き出してくれる熱狂を待っているのである。トランプが、おれを見ろ、コロナに勝ったじゃないか!俺についてこい。おれは神だ!などと叫び始めたら、熱狂的な群衆はついてくる、と思う。ヒットラーが出現した時代のように、群衆はスーパースターを待ち望んでいるのであるし、時代はそんな神がかり的な人間を産むであろう。

 時代は経済至上主義が破綻したのであるから、自然の普遍性を認め、自然への回帰を始めるべきである。それを言う者が出ればわたしは熱狂的に支持するであろう。自然破壊や食糧危機が叫ばれている時に、GDPやGNPを取り上げることに何の意味があっるのか?順番が逆ではないか?

クワ振りて土ころたわむる夕陽かな。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-10-30 0:02

  今日はアルバイトも出事もない日であった。気持ちの良い秋日和であったが、貧乏暇なし、の生活である。産直店に出しているもみ殻やヌカに肥料の登録をしないと摘発される、という情報が店長からあって、農林省の所轄部に電話を入れて、肥料ではなく、もみ殻やヌカの表示で出しているが問題はないか?と問い合わせたりして緊張した。登録費用が六万円かかるという情報に怯えたが、ヌカやもみ殻での登録であれば消費者がどのように使うか自由なので現状のままで問題はないという結論に達し安堵した。

 畑に出て、スコップで耕し、ミツマタで細かくし、草の根を取っていった。日が傾き、涼しかったが、少し蒸した。石灰をまき、化学肥料をまき、玉ねぎを植える準備である。昨日、便所からとった糞尿をまき、倉庫にためていた枯草の堆肥を混ぜ込んだ。なんやかんやと子供を育てるには苦労がいる。玉ねぎも百本で七百円で売っており、かなり高額なので奥てが出るのを待っても良い。五畝ほどを玉ねぎを植え、サツマイモの後にはニンニクを植えようと思う。

 陽が落ちる頃には焼酎を飲む。良い気持ちになった頃、鍋の準備に入る。ススキのアラと鶏肉をだしに取り、コンニャク、白菜と入れていく。ナスとピーマン、玉ねぎ、豚肉、唐辛子で味噌煮をつくる。野菜はすべて自家製であり、自作した唐辛子がすごく美味しい!

 体調が良くて体が軽く動いた日であった。ミツマタで土を細かくしていると土塊が転がって遊んでいた・・、何とも言えない心地良さであった。

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