人影はなく、浜辺に打ち寄せる波とおだやかな大気が迎えてくれた。速度を上げると彼の脚力で大気は風に変わるのであった。風が吹くのではなく彼が自分の力で風をつくるのだ。スピードによって強くすることも弱くすることも出来、自分が自然の一部に変わっていくのがわかった。ギヤを上げ、潮風に運ばれていくと体に付着していた人間界の汚れが抜け落ち、浄化され、体中のエネルギーを燃やしていくのがわかる。大気の中に消えていく。
何も考えることはない。
こうして生きている。
それだけだ。
そんなことにいちいち解釈を入れることはない。
彼は肉体の活力に酔い、空を見上げ、かなたの水平線に夢を走らせた。坂道に掛かるとギヤをダウンし、立ち上がってペダルを踏み、大きく息を吐きながら前進した。下り坂にかかると風を切って落下し、大きく反転しながら駆け上っていく。全身に力をこめて上っていくときは自分が物質に戻った爽やかさをあじあった。
時々、文明社会に生まれたことが失敗であったと思うことがある。石や槍でマンモスや猛獣たちと戦う時代に生まれるべきであったのだ。一日一日が食うか食われるかの生活。そんな日々には悩んでる時間などありはしない。そんな時代に戻れるわけではないが、時代を選べないことは不幸である。
ペダルをこいだ分だけ景色が変わり、体が浄化されていく。潮の呼吸が自分の呼吸になり、きれいに澄み渡った脳裏に這い寄る海原、傾く夕日が映し出され、染められていく。己が極小になり、砂時計の砂が流れつづけて器を変え、極大の宇宙の中におさまっていき自己実現をする。
至福の自己実現をする。
動き続け、活動し続けることである。立ち止まって考え込んだりしてはいけない。すべてを忘れることが出来ることをする。一般常識や善悪の倫理に基づいてはいけない。(没我)という言葉があるが自己を可能な限り削り取っていって0にする。それは高次元の宇宙に転入してふくらみ最大限の自己自身になっていく。小宇宙と大宇宙の入れ替わりである。
あの夜は、戦闘機のジェット音が頭上で鳴り響いた。
そばの航空自衛隊の基地から飛び立った戦闘機が黒い姿を見せ、500メートルほど沖へ飛んでいった。そこから凄い唸りを放ちながらUターンし、高度を落とすのだった。黒い海面をライトで照らしながら智樹に接近し、波頭を光らせ波の揺れを見せた。
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