それ以来、彼が仕事に出かける時、帰宅した時に必ず表情を探るようになった。女に会う前の表情なのか女に会ってきた時のそれなのか臭いを嗅ぎあたかも自分の感覚を信じ込んでいるかのように全身を貼りつけてきた。仕事で家を出ると三十分おきに彼のケイタイに電話を入れ、まわりに女の気配をかぎ取ろうとするようにもなった。飲み会や会議で遅くなると言うと彼の同僚に電話を入れ、嘘でないか確認をした。彼が帰宅すると、女と会ってもいないのに会ってきたと言い張り、執拗に体を求めることがあった。彼は嫌気がさし、恐怖を覚えた。
 部屋の中もすみずみまで芳恵の手が入っていた。彼女は不倫の証拠品を集めていたのだ。まず、うかつにも机の引き出しの中に入れていた女の名刺、それは仕事上の付き合いのものもあるしプライベートのもの、あるいはリサイクルの車で回ってきた女のものもあった。それらが消えていた。美咲と通ったラブホテルの百円ライター(ホテル名が入っている)、美咲および以前付き合っていた女達からの手紙も消えていた。女達との性交時の喘ぎを録音したテープは新品のテープとすりかえられ、記録は消えていた。
 彼は美咲と会うことはなく、美咲も彼を誘うことはなかった。
 会ってさえいなければ自責の念に責められることもない。
 智樹はそのように考えていた。
 「あんたとは一生別れへんわ。そのかわり一生あんたをしゃぶりつづけてやるんや。あんたは私の奴隷なんやわ、覚悟しときい」
 勝ち誇ったような顔を見せて芳恵は言った。
 「離婚したかったら一億円のお金用意してもらうわ」
 にんまり笑いながらそんなことも言った。
 
第十五章
 
  智樹はワンボックスカーにマウンテンバイクを積むと、海岸まで走った。街の雑踏を抜けて一時間半はかかった。手作りのお握り、ポットに入れたお茶、コーヒーやパンは背中のリュックに用意している。泊まりに備えてのシェラフ、スコップ、カセットコンロ、鍋、飯ごう、茶碗も彼の架空の家出に備えて、いや野宿と放浪生活の実現ために車の荷台に置いている。家庭という蜘蛛の糸に捕らえられていても抜け出るのは夢ではない。
 片道5キロのサイクリングロードがゆるやかな海岸線に沿って伸びていている。舗装されていて、カーブや坂や橋がある。潮風、海の息使い、空の星、漁船などと息をまじえるから孤独ではない。

 つなぎの作業服に着替え、軍手をはめると彼はペダルに足をかけ、旅に出かけた。 

前
火炎p97
カテゴリートップ
火炎
次
火炎p99