水道の蛇口から水が漏れているのではないかと案じてドアを開けると、芳恵が暗い浴槽の中に体をおさめ、無言で前を見つめていて、お帰りなさい、とつぶやいた。彼の方へ視線を向けることはなかった。
彼はおどきながらも平静に、ただいま、と応えた。
見てはいけないものを見てしまった。
なぜ電灯を点けないのだろうか?これまでこんなことはなかったのに。
浴室の窓ガラスに厚いカーテンが掛けられていたことに気づいた。窓ガラスは一間ほども横に長かったが、曇りガラスなので隣家からのぞかれても裸体が見えるわけではない。以前はカーテンは掛けられていなかった。
次の日は帰宅が夜の九時になり、食堂間に入ると真っ暗だったので、芳恵は寝たのかと思って仕事部屋に行こうとすると、食卓テーブルに人の気配を感じた。見やると、前を向いて芳恵が座り、じっとしていた。
まるで幽霊であった。
彼はおびえ驚き、逃げるように仕事部屋に急いだ。
彼女にまちがいなく、異変が起こった。
あれは幽霊でもあり、地雷でもあった。
追い払うことも踏むことも出来ない、彼自らがつくったものであるから。
地雷は踏まない限り爆発はしないが、放置しておくと彼の足裏から鋭い毒の刺になって忍び込み体中を張り巡りながら心臓に向かっていくにちがいない。
「向かいの家の主人が最近気味悪いのよ。家の中を覗き込んで、草むしりをしている私をながめていたわ。(智樹、俺の女を返せって)つぶやきながらね」
ある日、仕事部屋に逃げる智樹に静かな声で追い討ちがかけられた。
「そんなことを?」
言いながら智樹は度肝を抜かれ、心臓が凍りついた。
もう、逃げられない。
彼は思い余って芳恵を自室に呼んだ。
明け方の三時近くまで時間をかけて、美咲との関係、通り魔の出現のことを話した。
「どうしてもっと早く話してくれなかったん!」
芳恵は大声をあげ、泣きはじめた。
智樹は途方にくれた。
「よくも長い間私を騙しつづけたわね!」
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