「昨日の夕方、変な男がうろついたんやてね?」
 夕食時、芳恵はご飯をよそいながら、話しかけてきた。
 「警察に同行させられちゃって時間を食ったよ」
 「うかつに外に出られへんな」
 「うん。今日は風呂はいいや」
 彼は言って自室に向かった。
 「入らへんの?」
 「うん」
 「そんなら、ガスの種火を切っとくわ。私と子供達は先に入ったんや」
 芳恵は言った。
 智樹は自室に入って焼酎を二杯、ゆっくりあおった。自分を力づけるために。
電灯の豆ランプを点し、ソファの上に寝転んだ。
 「サアハジマッタナ」
 声が流れてきた。
 彼は酔いの中ではっきり耳にした。
 飛び起きて、耳を澄ました。
 幻聴か?
 確かに聞いた。
 耳がおかしくなったのではない。
 おれの意識は正常である、酔いが残っていることは確かだが。
 「サアハジマッタナ」
 また、聞こえてきた。
 感情のない平坦な口調でなめらかである。
 上半身を起こしたまま部屋の中を見回したが不審なものはない。感じ取れない。
 立ち上がって電燈を点した。
 机、椅子、三台のパソコンデスプレイ、棚に詰まった本、ハンガーにかかった茶の上着、エアコンの風に揺れるカーテン、
 どこかに声がかくれているというのか?
 (サアハジマッタナ)
 意識が木霊を返してきた。
 連続して返してきた
 現実の声とはちがうようだが、現実との区別を失ったのだろうか。
 通りに面した窓に寄って外の気配をうかがった。
 カーテンの先をのぞき見た。

 智樹の家の垣根のあたりに街灯の明かりが射し、人通りもなく、 

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