彼は立ち上がり、食堂間の窓ガラスに耳を当て、歩道をうかがった。
「ドロボー、ドロボー」
その声は確かにそんな言葉を吐いている。
事件かもしれないが、こんな時間に関わりたくはない。
隣近所の者たちは無視しているのか室内の会話やテレビ、ゲームに心を奪われているのか、黙って様子をうかがっているのか、外に出ないとわからない。
声は行き来していた。
耳を澄ませた。
「トモキ、女を返せ」
そんなふうに聞こえ、空耳だと思った。
自分の潜在観念と罪責の念がその言葉を呼んだにちがいない。
彼は自分の耳を疑い、奥底の恐れとシンクロナイズした。
美咲の夫の遺言を思い出した。
(トモキ、女を返せ?)
まさか!
彼は食堂間のドアを忍んで開けた。歩道との境のフエンス、その木陰に体を屈め、耳を澄ませた。
芳恵は創作料理のパーティに招かれ、帰りが遅い。
智樹はフエンスの間から、歩道の闇をにらんだ。
「ドロボー、ドロボー。トモキ、女を返せ」
「出て来い」
人影が低く叫びながら、行ったり来たりしている。
彼は立ち上がり、近づいてくる人影を見詰めた。
人影はまっすぐ前をむいたまま同じ言葉を繰り返し、通り過ぎた。
肥えた男で、歩き方に妙な雰囲気がある。
精神安定剤を常用している者の歩き方である。スローモーションのように遅くぎくしゃくしている。
歩道が本通りと交わるあたりに街燈が立っていて、その灯り下に男の姿が映し出された。何かに囚われたように彼は向きを変た。智樹の家の方向にのっそり近づいて来た。
「ドロボー、ドロボー、トモキ、女を返せ」
呪文を呟きはじめた。
フエンスに隠れた智樹には目も向けない。
通り過ぎるとまた戻って来た。同じ言葉をつぶやいて本通りの街燈まで歩いていく。
そのうち、彼の背後の車道に赤い回転燈が現れた。クルクルと回りながら闇の中で凶事を告げていた。 
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