第十一章
勉は自分以外の者たちを、一部の芸術家を除いて俗物とみなし、蔑視していた。彼らはアカデニズムに染まり、模倣と亜流で画壇に巧妙に入り込んだにすぎない。賞を一度でも取ればもてはやされ、名が売れて、それにぶら下がる。権威を持ち、マスコミに名前や顔を出し、そこで成り上がって終わる者がおおい。
勉は自己を一般常識という精神の牢獄から解放しようとした。その点で彼は父の徹に似ていて、彼の考えを引き継いでいたのかもしれない。自己の原質を掘り下げ続け、そこに眠っている希少性を見つける、それが勉の日常であった。
原野で下半身をむき出し、大地の土に性器をこすりつけている女を彼はイメージしていた。それは排尿でも出産の行為でも良かったし、同時にその二つは重なり合ったものであった。どちらも自然への還元、循環行為であるが、はたして現代人はその絵を理解できるであろうか?現代人は性をいやらしいものとしてとらえ、排除する傾向を乗り越えようとはしない。それは資本主義の原理であり、常にキレイキレを歌っていなければトイレ設備、キッチン設備、化粧品などは売れなくなり、資本主義は崩壊してしまう。だから、自然破壊をしなければ資本主義は成立しない、そのことを理解できないキチガイが増えている。農夫たちがこんなことをはじめている。田植えをする前にあぜ道に除草剤をまき、雑草を枯らす。それを草刈り機でキレイに刈り取ってから機械で田植えをするという。キレイにするのは良いことだろうが、除草剤の毒が苗に染み込むことは考えないのだろうか?
女性器と男性器は反転対称形であるがそれを絵画で表現したかった。結合状態を抽象的に表現してみようか?
でも、なぜ俺は性に執着するのだろうか?俺だけでなく男も女も、人間、動物、植物が執着するのはそれが自己確認、繁栄の手段であるからである。それはわかっているけど、俺はこのように考える。母の子宮から産道ををとおって産まれたのだからその原初的な記憶が女の膣を求めているのではないか?それであれば女が男のペニスを求めるのはなぜか?
わからない。
そんなことを級友に話すとオカシイ男と噂され、仲間外れにされた。自分の本当の姿を出すと友達も話し相手もいなくなった。
俺がオカシイ人間だとしても、キチガイと天才は紙一重というではないか?俺は死ぬまで理解されなくても良い。天才なのだから、理解されればその時は凡人、俗物にしかすぎない。
勉は智樹を思い出し、机の上の(市民新聞)を手に取った。
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