「東京はベッピンさんが多かですね」
 男は智樹のコップに自分のコップを当てると一口呑み、言った。(ベッピン)などずいぶん古い言葉であった。二十年前に出稼ぎに行って建設現場で働いた。醤油ラーメンが珍しくて美味しかった、握り寿司の酢が強くて口にあったなどと喋った。
 「東京は自由があって良いですばい。北海道やら沖縄から色んな地方から出てきた者が多いですけん、一旗あげろうち言う者も多いし、活き活きとしとる。こんな田舎じゃみんな固まりあってしもうて」
 「でも私の目から見たらここの方がうらやましいし、落ち着きます。みなが家族同士みたいなものですから」
 「そこがまた厄介になることがあるとですよ。例の火事の話」と、彼は声を潜め、ママが帰り支度のため引っ込んだ事を確認した。
「あれはもう記憶しとる者も少なくなりました。外部の人に話しても構わんと思うとですが、誰に聞いてもかならず、パチンコに負けた者が放火したち言うでっしよう」
「違うのですか?」
「夜の淋しい時なんかあの更地のそばを通りよったら男児の泣き声が聞えてくる、ちいう者もおります。私も火事の現場を見とるけ、気持がいつも揺れます。なんでお地蔵様を立ててやらんのか、って考えるとですが、事件が忘れ去られるのを待ってとるとですよ、知っとる者には、恐れ多い事件なんですよ」
彼はそこで一気に焼酎を呷った。
智樹は空になったコップに焼酎を注ぎ、これくらいですか?と土瓶に入ったお湯を目で計りながら注いだ。
「気が狂ったとですよ、あの女は。核家族で隆と二人だけの生活やったらあんなことまでならんかったやろうけんど、隆の姉妹、父親母親とうるさいのが三人もいたんですから、それは喧嘩になったら凄まじいですよ、負けん気の強い女ばかりですけ。乳飲み子を背負い、電話の受話器を握ったまま、笑いながら話しよったとですよ、自分で灯油に火をつけて床に燃え広がっとるのにですよ。もう一方の手に二歳の息子の手をしっかり握ってですな。あの場面だけは一生忘れません」
彼は顔を硬くした。
「息子は泣き叫んで逃げようとしよるのにあの女は離さんかったとですよ」
彼は心の中に閉じ込めていた場面を吐き出した。
智樹は絶句した。

「助けようにも、あんな火の中に入ったらこっちも焼け出されることがわかっとりました。 

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