第七章
九州に行くのは五年ぶりであった。
彼は二泊三日の出張を決めたが、あと一日、二日延びても予算は間に合いそうだった。佐藤隆の実家は福岡県宗像郡富津であった。
飛行機で羽田空港から福岡空港に着き、JRとバスを乗り継いで現地に着いた。
関東から九州に来ると観光気分がわき、空気さえ異なるように感じられた。九州弁は理解しにくく、初めは韓国語のように聞こえた。
ネットで探し、夕陽の見える露天風呂をキャチフレーズにした旅館、その別館に居をきめた。四階建てで、(葡萄のチャペル)という店名を出していた。本館は敷地が一万坪もあり、結婚式場、宴会場、宿泊施設と盛りだくさんで、松林の中でイベントを行い、バス停近くの駐車場からは馬車を用立てて客を送迎していた。式場は床も壁も天井も高級素材を使った白一色でいきなりヨーロッパの教会を訪れた気分にさせられた。葡萄やビワの採れる地域であったが素材を生かしてワイン、ジャム、パン、菓子、ソーセージ、スモーク・チキンを作り、レストランを持ち、東京にも店を出していた。地元で古くから旅館を営んできたという利もあり三代目で成功していた。地元の農家や漁師との協力づくりも巧みでも野菜や魚の産直をし、出店もしていた。
漁師町はそこから一キロも離れていた。百世帯もなく、鄙びた世界がそのまま残っていた。岬に集落が固まっていたので、JRの駅、役場、簡易裁判所、量販店に行くには車で三十分はかかり、陸の孤島に近かった。
三十年前、佐藤の実家はもともとは漁師であった。小型船ゆえ水揚げも少なく生計は苦しかった。発展家の父が当時はやりのスーパーマーケットに手を出したが、慣れないのと現金商売のためうまくいかなかった。馴染みの客はツケのきく小売店の方に通うからだった。
そこでパチンコ屋の経営に乗り出した。赤赤とネオンが点り、小さな電球が点滅して(大出血サービス)の文字が輝いていた。煌びやかであったが、内部はベニヤ板を張った安っぽい木造作りであった。百坪ほどの敷地いっぱいに建て、二階を住居にし、交差点の角に位置した。現在、母親と隆の姉妹は離れた団地の一戸建てに転居し、コンビニ店を経営している。パチンコ屋の跡は更地になったままであった。
智樹は火事の跡を訪れ、更地の真中に立っていた。
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