部屋の中には教会の雰囲気とは意趣を異ならせて、三波春夫の歌う(チャンチキ桶さ)が流れていた。
徹の目の前にはリクライニン・グシートが横向きに置かれていて、患者が仰向きになって休んでいた。山本という七十にちかい男である。彼は(躁うつ病)の診断を出されていたが、躁の周期に入っていた。うつ状態で凹んでたエネルギーが反転して燃え始めていた。
その歌に合わせて足の親指と中指を上下にゆすり、シーツのはしから見せていた。
「調子が戻ったようですね?」
「そうです」
山本は両手の指を歌のリズムに合わせて指揮棒のように振っていた。
「不思議ですね。この前は生きる意欲さえまったくなかったのですが」
「山本さんの立派なところは薬に頼らなくて自分でコントロールしようという気持ちがあるところです」
「誉めていただければ嬉しいです。人間って不思議ですね、ちょっと誉められるだけ気分が良い」
「そんなものですよ。ウツになったら歌を歌ったりウオーキングをしたりして体のほうから変えていけば良い。いいですか、体の方から変えていくのですよ。心に余裕が出来ます。隣近所とのトラブルはなくなりますよ。あなたは自分の経済力で生きているわけですから、パトロールの爺さん達があなたの家の瓦が飛んで見かけが悪いとか庭のゴミを片付けろとか言ってきたって笑ってれば良いんですよ」
「ところで、山本さん、あなとの隣の家に佐藤隆という人が越してきたでしょう?知ってますか」
徹は世間話をするようにのんびりささやいた。
「知っています。菓子折りを持って一ヶ月前にご主人が挨拶に来ましたから」
(チャンチキ桶さ)の歌は止まっていた。
山本は手足や肩の力が抜けてが楽になる、胃のあたりが暖かくなって気持ちよくなると暗示を掛けられた後であった。脛も足首も指もだらんとして物質の次元にもどりつつあった。意識の底は人間であったが。
「どんな感じの人でした?」
「おっとりした優しい人でした」
山本は眠りばなの声を出した。
「そう見えるでしょうが彼は少し変ったところがあるんですよ」 
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