隆はおどろき、時間を一時間切り上げて帰宅のバスに乗った。
彼女のいる喫茶店を見つけると中に入って、席に座り彼女と向き合った。
「じつはぼくは付き合いをやめようと思ってたんですよ。手紙にはっきり書けばよかったのですがそのままにしてたもんですから」
彼は言った。
「じゃあ、わたしが来たことはお邪魔だったのですね」
彼女は顔をさらに暗くした。
彼女は父母と姉からも疎んぜられていた。
彼女は(ブンレツ)という幻聴がきこえる、と手紙に書いていた。自分の症状を自覚しながら自ら溺れていたのである。近所の者からも恐れられ、家出どうようにして出てきたのであった。
隆はなんと応えていいのかわからなかった。
「手紙の返事はどうしてくれないんですか?」
「つい面倒になってしまって」
「わたしはもう家には帰らないといって出てきたのですよ」
彼女はうつむいたまま言った。
電車とバスを乗り継ぎ、三時間はかかる距離である。
彼は驚いて言葉を返せなかった。
痩せて青ざめた顔、狭心症の発作にそなえてニトログリセリンがバックの中に入れていたことを彼は後に知ることになる。癌で入院していた父が亡くなり、ショックを受け、苦悩の日々が続いた。精神の動揺が心臓の血管を縮め、狭心症を起こしていたのである。
帰る家のない女。
旅館に泊まったとしても金を浪費するだけであろう。
警察に保護されても、自宅に通報され、帰宅を促されるであろう。
彼はとりあえず部屋に入れるしかないと考えた。
部屋に入れた。
彼女は狭心症で胸が痛むらしく、ニトログリセリンをハンドバックの中からとりだし、口の中に入れて舐めた。元気がなかった。徹は彼女の口臭からそのとき初めてニトログリセリンの臭いを知った。薬品臭かった。ダイナマイトに使われることくらいは知っていたが何か凶暴なイメージがあった。
寝るときになると玲子は隆の布団には入らなかった。夜明け近くまで布団のそばに座っていたが、いきなりもぐりこんできた。寒かったのだ。
布団の中でお互いに体を寄せても寒かった。 
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