何度も無駄足を踏み、そのつど徹は気にしなければならない。
四度目のハイヒールの音が通路の床を踏み、激しく叩いた時、徹は椅子から立ち上がり、台所に立った。格子の入ったガラス戸を静かに開け、隣の部屋の入り口を見た。赤いコートを着た女であった。成り行きでは怜子が訪れることになるのであったし、彼はそのことを予想していた。彼の目は医者の観察眼に変わった。
 背の高い女が立っていた。大きく膨らんだボストンバックを片手に持ち、ドアを叩いて返事を待っていた。
 徹は入り口のドアを開けると、通路に出た。
 「そこの部屋の方を訪ねられたんですか?」
 ゆっくり声をかけ、相手の表情を観察した。
 「そうです」
 青ざめた顔の痩せた女であった。
「その部屋の人はアルバイトに行ってるから十時頃にならないと帰ってきませんよ」
彼は初めて玲子を見たのであった。
女は振り向き、無言であった。
青ざめた顔、暗い眼差し。
目はちがう世界に住んでる者のように異質な輝きがあった。
当時は携帯電話はなく、学生の身分で固定電話を引いている者はいなかった。寮やアパートであれば共同のピンク電話か公衆電話を使うしかなかった。
徹は彼女からの手紙が二通ほど十日間も共同の郵便受けに放置されていたことを知っていたが、黙っていた。
「表の通りに喫茶店があるからそこで待っていたらどうですか?その部屋の人は(真っ直ぐ進学塾)の講師をしていますから電話帳で調べて話をしたらいいですよ」
「ありがとうございます」
彼女は言った。
彼はその返事を聞くと自室に戻った。
自分のまいた種がどんな花を咲かせるか?
恐れたがそれから逃げるようにレポートに向かった。
怜子は自分の狂気を認識できない女にちがいないが、研究の種にするには近づきすぎた。
そんな彼女を招いたのは自分ではないか?
俺は冷徹な研究者でなければならない。
それが俺の支えではなかったか?
彼女は喫茶店に入り、塾の電話番号を調べて隆を呼び出してもらった。話をした。 
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