「今日は」
と彼は言ったが笑顔はなく、返事もなかった。
二人とも落ち着ける場所を求め、喫茶店に入ることになった。喫茶店らしい看板が見当たらないので、コーヒーやジュース類も出す大衆食堂を見つけ、入った。
コーヒーを注文した。
彼女は下を向いたままであった。
どこか異質な感じがあった。
後にその感じがわかることになった。
コンクリート床を踏み鳴らして中年女がコーヒーを運んできた。経営者をかねているようであったが無愛想で野暮ったい感じがした。
徹はコーヒーの味に関心などありはしなかったが、口をつけた。
世間話や大学生活を喋っても彼女はうつむいたまま、反応しなかった。彼は耐え難くなり、解放されたくなった。
お互いに黙り込んだまま時間がすぎた。
いきなり激しい摩擦音が起こった。
「わたし、帰ります!」
玲子は椅子を引いて立ち上がった。
十五分もたっていなかった。
智樹は激しい物音と彼女の激怒におどろいた。
安物の椅子、その脚の鉄部がコンクリート床を激しく擦り、彼女の激情を叫んでいた。
何がなんだかわからないが解放されると彼は考えた。
後にその時のことを彼女は彼に話した。すると、性的な好奇心を自分に注いだからだと彼女は言ったが彼に覚えはなかった。
彼はわざわざなんのために出向いたのかわからなかったが、通りかかった植木屋で彼女は足を止めた。彼にピンクのシャクヤクの植木を買い、プレゼントした。彼は黙って受け取ったが、二度と会うことはないだろうと考えていた。
彼が返事を出す番であったが、彼女へ手紙を書かなかった。授業、部活、塾講師とこなしていった。手紙が来ていても中を読むことなく、押入れの中に放り込んでいた。そのうちこなくなくだろう、と考えて。
ところが徹はきちんと読んでいた。
玲子の父が胃がんを患って入院したこともあって彼女の懊悩は封筒の中身を膨らませた。
(吉田富江の霊が乗り移ってわたしは死んだのです)を書き出しにして、脈絡が乱れつじつまが合わなくなった。父の病気の心痛から彼女は狭心症を起こし、心が錯乱していた。
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![]() 火炎 |
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