本当の男は不意に自分の前に現れ、 自分を混乱に陥れ、あっという間に合体してしまうにちがいなかった。結婚は共同生活という務めであり、そこ恋愛が入り込む余地は少なく、恋愛は務めではありえない。本当に愛する男は彼女の生存と生活などかまわない気まぐれ者、あるいは自分がいないと生きていけないような依存者であろう。これが彼女の直感であった。
徹は恋愛を(市場)だと考えていた。(魅力)という力が応札して評価しあい、取引が成立する。魅力の中味は地位、金、性的能力、親和力などであるが、言葉で表現しえないものもある。また、そんなものも一切もたない状態が(負圧)に可逆反応して、引き寄せる場合もあるだろう。たとえばどうしようもない男に女がすっかりほれ込むケースである。
彼女が大学三年の時、二人は結婚を前提にした同棲生活に踏み切った。同じ高校の先輩、後輩という関係もあり、、お互いの両親に事情を話し、了解をえたのであった。
結婚して三十年、夫の研究心と意欲は彼が求めなくても地位、厚待遇を向こうから準備し、権威まで与えてくれた。講師から助教授、そこから教授、さらに名誉教授、他大学の心理学客員教授、学会の理事、国際学会の理事、いろんな病院への顧問の名義貸し、肩書きを貸したり売るだけで濡れ手に粟であった。娘がイギリスに留学する金が必要になると他大学の講師を一ヶ月するだけで二百万円の金が入った。
徹のほうから同棲を言い出したのは、自分の性が満足し、心の安定を得られると判断したからであった。
徹は中学一年生の頃から自己の内面の異常性に気づいていた。それは思春期を通して強まっていったが、抑制力をそれに比例して強めていったため、常識人としてその世界にとどまることが出来た。治療をする立場になることによって自己の異常性を客観視できるようになった。世間の目をうまくかわしながら、研究し、自己の治療にもあたった。世間の人は治療する者とされる者が反転していつでも入れ替われるなんて想像はしない。愛する者と愛される者、殺す者と殺される者、教える者と教えられる者、そんな表面上の対立関係が内部に可逆性をはらんでいることなんて知りはしない。知ってしまったら、それこそ頭がおかしくなってしまうにちがいない。だから精神科医は決して狂人ではないし、狂人であってはならないのである。警察官はヤクザではないし、一パーセントでもヤクザであってはならない、これが一般常識であり、鉄則である。
それをちがえて一歩でも本質があらわにされれば社会秩序は崩壊してしまう。
![]() 火炎p23 |
![]() 火炎 |
![]() 火炎p25 |