次の結婚相手が見つからない限り、帰国するしかないだろう。国費の支給はあと半年で止まる。英会話が得意でバイオリニストだといっても帰国後の職は簡単には見つからないだろう。あの気性の激しさとプライドの高さであるから、再婚もむずかしい。
彼女は声や物音を意識しながら背後の暖炉に振り向き、台の上に置かれた夫の顔を見た。
二十号サイズの肖像画である。上品で顔立ちの整った夫が少し斜めからの横顔を見せ、電話の白い受話器を右手に握ってにこやかに話している。細面の優男で、人間の心の地獄を巡ることを生業にする者にはとうてい見えない。
夫は死期を感知したのか、亡くなる二年前に知人の画家に頼んだ。白色の受話器は珍しく、夫が指定したのであった。清楚なイメージの効果をあげている。
まさかあの絵の中から聞こえた声ではあるまい。
あの絵はこの部屋から外し、座敷の仏壇の中に供えるべきだろうか、この応接間の主として残すべきだろうか?
毎日見ていれば一つの装飾品に変わり、こだわりはなくなるかもしれないしそうなりつつある。
三十分たっても次の声はかけられなかった。
彼女は背後の音が気にかかっていた。
カチ、カチ、カチと静かな音を立てて彼女に何かを告げている。
壁時計の秒針だった。
あの時計は残しておくべきだろうか。
時間が数字で割り振られた平凡なものだが、心臓の鼓動のようにこの家の命を測り、彼女に未来の決断を迫っている。
 
      
第四章
 
当時、夫になる高橋徹は美咲と同じ旧帝国大学の学生であった。

三十五年前、彼女が入学した時、夫は精神病理学神経科を卒業し、大学院の修士課程に進学していた。ドイツから持ち帰った自律鍛錬法、その権威のある教授のゼミに取り入っていた。自分の心の内部に興味を持つと同時に日本経済の繁栄は必ず国民の精神と神経を病ませ、患者を生産するにちがいなかった。功利的な男であったから、かれらが多額の金を運んでくると読んでいた。明晰な顔立ちと笑顔、名家の出身を想像させる物腰は一見しただけで彼女を魅了した。それは彼女の生存を保障し、未来の権威と裕福な家庭生活を予期させ、本能的に打算を働かせた。それは彼の魅力であったが、性的な魅力ではなかった。

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