言葉の遊びだと揶揄するものがいて、ある意味で的をえていた。(人間が百人いれば百の真理がある、って考えておけば人付き合いができる)と彼はよく言った。患者の数だけ精神病の種類があると仮定すれば単なる個性だといわざるをえないが、社会に適応できないことが排除される理由である、とも言った。
美咲はソファの座り、西側の庭に目を向けた。傾いた陽光が三方からじゅうぶんすぎる明かりを送りこんでいた。家の四方がガラス張りで、隣家とは20メートルの距離があり、誰もが羨む日当たりの良い家であった。敷地は三百坪あり、表玄関の道の前には小川が流れ、一方は小児医院の裏側に面し、一方は大型衣料品店の駐車場に面していた。西側の庭は小さな立ち木が三、四本立っているだけで寂しい感じがした。やはり花がそこにも欲しい。
部屋の中を見回した。
額に入った夫への感謝状、それは長年の功績を精神学会が讃えたものであった。日本はもちろん、ドイツ、フランス、アメリカからのものが並んでいて、横文字が入ると世界的な権威がうかがえた。棚に放置されていたのを彼女が見つけ、額縁に入れてガラス面と縁を磨いた。格子ガラスの入った正面の引き戸の上に飾ると、向き合って座った四人がソファから見上げる位置に収まり、じゅうぶんな風格が与えられた。
夫の衣類は箪笥四台に仕舞ってあり、大島紬などもあった。身内に配ろうと考えたがそんな時代ではないので、すべて途上国の救援物資にして送ることにしていた。
机の周りのメモ類、几帳類には仕事のスケジュールや冠婚葬祭の日など人目に触れても差し障りのないものばかりであった。夫は個人からの封書は処分していたが年賀状や葉書などは放置したままであった。それらをゴミ出しにすることに躊躇したのだ。直筆の文字に対して魂を感じとる感性は彼女にあった。ツメキリ、毛抜き、鼻毛きり、筆記具、鋏、何十足の靴、多くの帽子、バック類など長年夫と関わった品々をまとめてゴミに出すことに踏ん切りがつかなかった。
そうだダンボール箱に入れて、遺品と書き、押入れの中に保管しておこう。あるいは座敷の仏壇のそばに置こうか。
その時、声が起こったのだ。
どこからかわからない。
人間の声であった。
「そんなところで何をコソコソしてるんだ?」
聞いたことの無い声であった。

人工音声に近い冷静で滑らかな声であった。 

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