芳恵は向かいの席で掻き揚げを食べながら、彼に声をかけた。
(あ)語尾は頓狂な抑揚があり、智樹はその訛に関西文化を感じ取った。奈良、平安時代、信長、秀吉と大阪が遷都であった時代は長く、近松門左衛門や浄瑠璃の文化を生んでいる。あれこそ本来の日本文化ではないか。上方芸能より深い世界があり、中世の闇世界が残っている。その言葉で迫られると濁酒に酔った時の甘さと粘着性が重く染みわたってくる。芳恵を愛していなければそんなふうには受け取らなかったであろう。
「掻き揚げの揚げ方ってどうしたら本物になるのん?」
「揚げてる途中でワタを箸でつついてみることやな」
「そいでどうするのん?」
「生の部分が少し残ってればいいんだよ」
「どんなしてわかるのん?」
「うーん、それは指先のカンやな」
「カン?」
「感覚だよ。硬いか柔らかいかのな」
「ふーん。こんど、自分でやって勉強してみる」
「あー、変なことを考えた。お前は英語を喋るときももしかしたら関西弁が出るんとちゃうか?」
「なに言うとるねん。そんなことあらへん、わたいを馬鹿にしとるんか。I love you!やで」
「本物の英語や」
二人は笑い合った。
美咲は夫の部屋を応接間に変えるため、遺品の整理にかかっていた。死後二ヶ月目から取りかかっていたが、品数は一人分しかないのにまだ片付いていなかった。何を残し、何を処分すべきかいつも迷い、自分の物ではないからふんぎりも優先順位もつけにくかった。
夫は柔和な表情で誰とも対応したが、じつは患者以外には心を開かなかったということが今になってわかる。日記をかねた備忘録やメモ類は焼却し、自己を出来るだけ消そうとしたのがわかる。彼の死後、仲間や弟子、知人や関係者たちは潮が引くように去っていった。妻にたいしても心を開かず、彼自身そして他人は精神病理学の材料でしかなかった。現実と虚構の区別はできたが、研究世界が現実であった。そこに住まいを構えると、現実世界は虚構に近くなっていった。十分な資産と権威を蓄えていったからその境はあまり価値をもたなくなった。
精神病理学の書籍は洋書を含め別荘を埋めるほどの量があったが、そのおびただしい背表紙の文字が表す世界は途方もない広がりを見せていた。
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![]() 火炎 |
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