第三章
 
 
美咲はホテルの浴室に無臭のシャンプーを持ち込み、智樹の妻に不倫の匂いを感じさせないように配慮していた。それは彼女の夫の嫌疑を封じることにも通じた。
智樹も匂いへ警戒していた。帰宅するとすぐ浴室に向かい、シャワーを浴びて不倫の匂いを精算した。それは単なる儀式であり、数時間前の恍惚感が体から一掃できるとは信じていなかった。
智樹は夜の取材がない限り、夕食に間に合うように午後六時頃帰宅していたので、美咲と数時間前に会っていた場合はやはり構えた。
「パパ、この味付けどう?」
智樹が玄関間から明るい食堂間に入ると、妻の芳恵は彼の予約どおりの料理を作り、笑いかけて迎えた。相変わらず関西弁の抑揚が抜けないがそれは可愛くもあった。
食卓のテーブルを指差し、皿の上に載った海老の掻き揚げを目で示した。少し不安を浮かべていたがそれは味付けに対する自信のなさから発するもので、彼女の表情と動作、気配に特別な変化はなかった。
嫌疑はかかっていない。
智樹はすばやく読み取り、入浴は後回しにした。
女の体との間合い、そこに流れる空気は言葉より正確である。特に十年間もその空気を感じ取っていると変化はすぐに伝わってくる。
美咲と会ったことを感づいてはいない。
「冷えたビールお願いね」
彼は上機嫌だった。
今日も安全だ、と判断し、椅子に腰を降ろした。
掻き揚げを箸に挟んで採った。タマネギの部分を口に含み、歯で味わった。とろける甘い味と歯ごたえがなんとも言えない。
「うん、まあまあだけど、タマネギは揚げ過ぎず半生くらいが良い。本来の味を生かすということさ。だいぶ、上達したね」
「偉い!」
と、持ち上げることを忘れなかった。
芳恵は彼のコップにビールを注ぎながら、満足した表情を浮かべた。
「十年前よりね」
彼は付け加えた。
「十年もかかったって言うのん?」 
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