「さあ、どうかしら。彼は出世と名誉欲のほうが強かったから女には執着しない人なの。自分の付属品としか考えていないの。上っ面はやさしかったけどわたしなんか家政婦としか認めてなかった。だからこういうことになったのよ、そんなことわかってたのかしら。いずれわかると思ってたけど、勉はともかくとして主人は不倫を知っていたのね。素振りさえ見せなかったけど」
 「あの遺言は誰かに読まれることを前提にして書かれている。彼が関わった患者達を彼の分身だと書き残しているけど」
 「患者たちって自分の利用相手みたいなものでしょう。実験材料にしてもてあそんだくせに」
 「ぼくは頭脳的な人間は嫌いなんだ、取材をしててじゅうぶんわかった。よく調べていくと高級詐欺師みたいのが多いんだ」
 「彼は一般常識は交通ルールにしか過ぎないって考えていたわ。
いちおうは守るけど便宜的なものだって言ってたわ。だから車の走らない砂漠では交通ルールは要らないって言うし、交通ルールは単なるルールであって真実ではないって考えていたわ。患者のほとんどは交通ルールをまじめに考えるあまり精神がおかしくなったのだと考えていたわ。だから一般常識をいったん取り外して自由になりなさい、すると症状は消えてしまうと言っていたわ。
わたしには一般常識人のほうがおかしいといったこともあったわ」
「ふん、理屈は通っている。彼はどこか患者たちは選ばれた者のようにとらえてるところがあったんじゃないか、自分を」
智樹は彼を敬遠しながらも一般向けの著作は読んでいた。 
 「彼は実は牢名主みたいなものだったのよ」
 美咲は笑いをこらえて言った。
 「ロウナヌシ?」
 「牢屋の中に長く居て親分みたいになるのがいるじゃない、どんな世界でも」
 「うん、わかる」
 「精神病の世界にながくいるからそうなったのよ」
 「それはちょっと酷いんじゃないか」
 彼が言うと二人は同時に笑った。
 美咲の長男は一流大学を出て、国土交通省に務め高級官僚であった。結婚し、高級住宅街に住んでいて、世間的に申し分ないが、父親のペテンじみた仕事や成り上がり根性を軽蔑していた。結婚相手が食料品店の娘だったから格が低いと見られ、結婚を反対されたこともあって実家にはよほどのことがない限り近づかなかった。

一女はバイオリニストで、技を磨くために国費でイギリスに留学しているが、 

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