実はドイツの医者が東洋哲学の心身一体論にヒントを得ていたのだが、ヨーロッパにも(健全な精神は健全な肉体に宿る)という言葉は古からあった。彼は大学のテキストも含めると50冊ちかい本を出し、一般向けの本、そのカバーには顔写真まで出していた。
智樹はその顔を見たいとも思わない、いや、見たくない。
 見るのが怖いのである。
 それは不倫をしているという背徳感だけではない。
 断言は出来ないが、三十五年にわたる結婚生活の中で、亭主は美咲の体と意識の中にウイルスのように潜んでいるにちがいない。さらに彼は精神科医であったから、人の心の中に侵入することが生業でもあるのだ。美咲の心の中にも侵入し夫婦は相似形にならざるをえない、と彼は判断する。
 彼女の半分は亭主であるにちがいない。
 と考えて彼は打消し、そこから先は幕を降ろすのだった。
低いガラス・テーブルの上に二人は両足を長々と伸ばし、開けられた窓に春の風を感じていた。          
「あの次男のことで亭主と大喧嘩になったのは三年前だったわ。考えちゃうとその時に彼は自分の癌を知って怒りっぽくなってたんだわ」
 「だけど次男の勉君のこと、俺は不憫になる。この前、彼と会った時」
 智樹は言って、画家志望の彼を思い出した。
 感受性の強さがあり、美を追求する姿勢はうかがえるがそれだけで優れた絵が描けるわけではない。芸術家という危うい業種は目ざしてなれるものではなく天から降ってくるような稀有さがある。
「美咲は亭主のパソコンを開いてマイドキュを見たことあるかい?」
「パスワードも知らないわ」
「じつは勉君に呼ばれて彼の部屋に行ったんだ。その前だったけど、公園に彼が独りでいるところを見つけて声をかけたんだ。(市民新聞)に君の絵を取り上げたいとうまいこといって、ケイタイの番号を教えあってたんだ」
 「ふーん」
 美咲は満足げであった。
 智樹は勉の部屋で夫の遺言をパソコン見せられ、そこに(俺の女を返せ)という言葉が残されていたことを話した。
 美咲の眉に皺が寄った。
 「(俺の女)ってわたしのことかしら?」
 「他にもいたのかい?」 
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